第27話 選択

「あぇ……?」

 辛うじて人の形を保っていただけの肉塊が、呆然と相貌を擡げた。

 立ち昇る魔力の残滓から、彼が何をしたのかは分かった。グリードを襲撃したのは、間違いなくグラトニーだった。

 そしてそれが、本人の意思ではないのは、その表情から一目瞭然だった。何より繰り糸に引きずられるような挙動は、どこまでも不安定で。

 元々限界だったのだろう。力尽きたように、その場に膝から崩れ落ちる。

『色欲』の固有魔法だ。あらかじめ仕込んでおいた攻撃コマンドを、ここぞというタイミングで発動させたのだろう。

「おまえ────!」

 激情のまま叫んだ俺に、黄金の双眸がこちらを向く。

 同時に、狩野が──正確には、狩野を下敷きにした竜の屍骸が、蒼炎に包まれる。

 幻獣を丁重に火葬して、やがて骨すら残らないまでに燃やし尽くして。

 炎が消えるときには、焦げ臭い残滓を纏ったまま、真っ新な青年が直立していた。

 潰れたはずの下肢でしっかりと地面を抑えつけたまま、小首を傾げる。腕の中のグリードを見ては、「それ」と指さした。

「それ、捨てたら」

「…………」

「重いでしょ」

「なんで、」

 俺の呟きに、狩野の目元が痙攣する。「なんで?」と復唱した声音は、心底理解できないとでも言いたげなものだった。

「急に、襲われたから」

「違──、それはお前が、俺のこと無理矢理引き摺ろうとしたからだろ?!」

 首を振れば、狩野は狼狽した様子で頬を掻いた。

「話、ちゃんと聞かなくてごめんね?」

 そして、血の香りすらちらとも感じさせない言動に、わけもなく絶望する。

 だって、グラトニーがぐちゃぐちゃになって、グリードは胸に穴が空いたまま死にかけている。

 そんな惨状の中央で、記憶の中のあいつと全く同じように微笑んでいる。

 取り返しようのない変質を、改めて突きつけられたような心地だった。

「でも、おれも焦ってたんだよ。早く圭一を助けなきゃって」

「助け……?なに、言って、」

「あれも、それも。今は味方でも、そのうちきっと圭一を傷つけるよ。罪源者って、そういう物だから」

「お前だって…………」

「そう。罪源者だからこそ、よくわかる」

 穏やかに言いながら、自らの胸へと手を添える。

 うっすらと伏せられた睫毛の下から、どこか酩酊したような琥珀色が覗いて。

「奪え、壊せ、閉じ込めろ。ずっとずっと、声が聞こえるんだよ」

「どうあってもおれたちは、それに逆らえない」

「だから、ね。終わりなの。一回『欲しい』って願っちゃったら、もう正気じゃいられない」

「おれはねぇ、圭一が欲しい!心も、身体も。ぜんぶ、ぜんぶが欲しい!」

 上擦った声が、空々しく反響する。

 細い腰を折っては、相貌を両手で覆う。温い息を吐く口元は、笑みの形に引き攣っていた。

 まだらいろの混乱のまま、ただただ狩野の言葉を待って。

 次にこちらを捉えたのは、恍惚に蕩けた──初恋の叶った、少女みたいな笑顔だった。

「圭一とずっと一緒にいるためなら、おれ、何だってできるよ」

 プツン、と。

 脳内の右端の方で、何かが切れたような音が聞こえた。

「何でも?」なんて。転がりでた言葉は、僅かに震えていた。

「良いよ、もう、分かった」

 水晶を持たせたまま、グリードの肢体を地に横たえる。意識はあるようなので、魔力源さえあればどうにか自力で回復できるかもしれない。今は、そう願うしかない。

 ゆらと立ち上がれば、熱っぽい双眸が、僅かに揺れるようで。

「圭一……?」

「全部、くれてやるって言ってるんだ」

「…………」

「だから、帰るぞ。あっちで、一生一緒にいてやる」

 その声音は、祈りの色すら帯びていた。

 まるで全くの別人になり果ててしまった青年が、俺の話に大人しく耳を傾けてくれると思えなかった。

 けれど、グリードとグラトニーが倒れた今、俺に残された道はこれしかなくて。

「そのために、ずっと用意してきたんだ。水晶と、ペンダント、あとはショールチェーン。それさえあれば、お前は──!」

「…………圭一」

 哀惜を滲ませた声が、すぐ耳元で聞こえた。

 瞬きの間だった。赤子の手をひねるように、俺は腕のなかに閉じ込められていた。

 目睫の間に迫った美貌に、臓腑が冷えるようだった。真っ白な指が、頬を這う。蛇に睨まれたみたい動けないまま、その感触を享受して。

「嬉しい」

「か、の」

「圭一もずっと、おれのことを考えてくれてたんだ」

 お揃いだね、なんて。そう、恍惚に満ちた表情で笑う。頬を赤く染めて、潤んだ目のまま唇を噛む。

「……いいよ。圭一の頼みだから」

 掠れた声が漏れる。

 俺の首元に相貌を埋めて。見えなくなった表情に、湧き上がるのは歓喜でもなく不安。ざらついた焦燥だけだった。

 そして、「でもね」と続けて吐き出された声には、子供を言い含めるような響きが伴っていた。

「帰るならおれは、罪源者を全員殺すね」

「は、」

「おれが、和解エンドを選ぶわけないでしょう」

 徐々に温度を失っていく声音。

 狩野は、本気だった。顔を見ずともわかる。

 そして俺にだけは、彼のその怒りを咎める資格が無い。

「おれは、『憤怒』の名のもとに──、この世界を、ぐちゃぐちゃにして帰る」

 咄嗟に腕の中の男へと目を遣ると、背に回された腕に力が籠る。

 とぐろを巻いた殺気が、顎をひらくようだった。

 据わった金眼が、こちらを覗き込む。気怠げな視線に充てられて、何も言うことができなかった。


「手帳、読んだんでしょう。どうだった、あれが、本当のおれ。あれを読んで、おれがこの世界と円満に縁を切れるって。本当にそう思った?」


 ──最善は無い。ほとんどの場合、私たちは選択を迫られることになる。


「旅は楽しかった?この世界と、そこに生きる人たちを知って。随分と愛着が湧いたみたいだね?」


 ──どれだけ憂鬱なテーマであっても、私たちは向き合い、迷い続けなければならない。


「それを全部捨ててでも、おれを選んでくれるなら。おれは、もう一度お前を信じるよ」


 ──その時になって、後悔の無い選択ができるように。

 

 そんな言葉に、目を閉じる。驚愕はない。焦りもない。胸中に落ちたのは、諦観じみた納得感だけだった。

 俺は、いずれ選択を迫られることになる。手帳を読んだあの時から、とっくに覚悟はできていた。

 そして今が、『その時』なのだということも。


 「選んでよ。世界か、おれか」


 ねぇ、圭一。なんて。縋り付いて、乞い願うみたいに。

 泣き笑いみたいな表情のまま、狩野は俺の名を呼んだ。

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