第7話 ⭐︎決戦前夜 おや……?

ただ、歩いていた。あてもなく目的もなく。ただ、あの部屋から離れたいと云う一心で歩いていた。あの部屋には、彼がいる。大好きで、大切な彼がいて、冷たい声で「お前は必要ない」という。

「余計な事は考えなくていい」

「お前には関係のない話だ」

 部屋から離れても尚、脳裏にこびりついては何度も反芻する声に、幸人はどうしていいかわからなくなった。

 ここまでの悲しみも、歯がゆさも、怒りも。全て知らない物で。どうしようもない激情を知ったとき、人はわけもなく叫びたくなるものなのだという事を、初めて知った。

 溢れてきた涙で滲む視界に、相貌を歪めて。

「……」

 終着は、宿泊棟の外れにある講堂だった。

 重い扉が、軋んで開く音。

 同時に、湿った埃臭い風が、細い前髪を攫っては吹き抜ける。その冷たさに、幾分か頭が冷えるようで。

 覚束ない足取りで、誘い込まれるように講堂内に踏み入る。

 背後に、扉の閉じる音を聞く。同時に、幸人の視線はある一点に吸い寄せられていた。

 均整の美を湛えた女体に、顔面部分が抉り取られた小ぶりな頭部が付随している。そして何より異様なのは、六本の腕だった。

 異形だ。ヒトに近い形をしただけの、ヒトならざる存在。

 だが、薄暗い講堂の最奥。天窓から差し込む月光を浴びて浮かび上がるそれは、何より美しかった。

「…………石像?」

「救世の女神を見るのは初めてですか?」

 扉が開閉する音すら聞こえなかった。

 独り言のまま消える筈だった呟きへの返事に、咄嗟に振り返る。声が飛んできた方角だった。

「──っ、」

 そして、息を呑む。そこに佇む青年が、あまりにも美しかったからだった。

 くすみ一つない金髪に、貫くような若葉色の瞳。すらりとした手足には、しなやかな筋肉がついていて。総じて、古今東西の名だたる彫刻家が、丹念に彫り上げたような美貌だと思った。

 いっそ薄気味悪さすら覚えるほど美しい青年に、しばし見惚れる。そんな呆けた様子に、青年は困ったように微笑んだ。

 そしてその長い脚を、悠然と一歩踏み出す。

「たとえば、西諸国に深刻な被害を及ぼした、イビフ地方の大干ばつ」

「……?」

「例えば、5000万haにも及ぶ焼失面積を出し、10以上の民族を根絶やしとしたレタンタの山火事。例えば、旧魔道帝国を海に沈めた大津波」

「えっ、と。なにを……」

 拍子計で計ったみたいに、等間隔の足音を響かせて。美しい青年は、幸人の隣に並び立つ。

「────肉の器を失い解き放たれた罪源は、いずれも、世界の存続を脅かす大厄災として顕現しました」

 幸人は、コイン裏にでも刻まれていそうな横顔を、ぼうっと眺めては青年の右手の動きを追う。

 整えられた指先が、ピタと女神像を指し示しては止まった。

「そしてその手で幾度となく7つの罪源を鎮め、厄災を治めてきた守護神が──、」

 投げられた穏やかな視線に、自然と唇が開いていた。

「────『救世の女神』」

 幸人が言葉を継げば、青年は肯定の代わりに唇の端だけで微笑する。

 そして、未だ立ち尽くしたままの幸人に、「ご満足いただけましたか」と自らの腕時計を指し示した。

「とっくに消灯時間は過ぎています」

「……す、すみません?」

「こんなところで、一体何をしていたのですか?」

「いや、その……」

 気不味さに視線を彷徨わせる。ゆらゆら、ゆらゆらと、自分の足元と青年の足元とを交互に見て。

「…………ぁ、」

 そして、ここにきてようやく幸人は気付く。

 青年のケープコートは填った、黄金色のショールチェーン。

 それは、紛れもなくこの魔導学園の生徒会長の証であった。

 状況を理解すると同時に、頭頂からすぅっと血の気が引いていく。脳裏を駆け巡ったのは、校則違反だの、罰則だのの文字ではない。

 …………確か、この学園の生徒会長とは───、

「おっと」

「……っ!」

 踵を返す間もなく、骨ばった手に手首を掴まれる。そして、人外じみた力で引き寄せられたかと思えは、青年の高い鼻先が眼前に迫っていた。

「…………」

 爛々とした翠眼に、荒い息のまま、嫌な汗が頬を伝う。つるりとした水晶体の向こうから、黒々とした瞳孔が、ただただ幸人を見ていた。

 咄嗟に、『彼』の名前を漏らしかけた唇を引き結ぶ。

 この場で──この期に及んで、『彼』に助けを求めることだけはしたくなかった。

「……おれに、何か用ですか」

 今にも震え出しそうな脚で、地面を押さえつける。

 虚勢と恐れの入り混じった言葉は震えた。

 そんな幸人に、目を瞬かせて。青年はややおいて、「ああいや、」と慇懃に微笑んだ。

「浮かない顔をしているな、と思ったもので」

「……いま、少し気持ちの整理がつかなくて」

「へぇ、それはそれは。理解できませんね」

「誰にだってあるでしょう、そういう時は」

 そんな返答に、青年はきょと、と翠眼を丸くした。目を丸くしたまま、「ちがう、ちがう」と唇だけを笑みの形に歪める。

 その低い声が、眼前の青年から吐き出されたものだと理解するのに、数秒かかった。

 「え」と漏れた声はすぐに、手首を締め上げた激痛への悲鳴に変わった。

「貴様が、心を惑わす意味が分からないと言っている」

 朗らかな表情とは、およそ乖離した口調で唸る。

 慇懃さを脱ぎ捨てたように振る舞う彼は、先刻までの彼と同一人物であるとは、とても思えなかった。

 未だ掴まれたままの手首が、軋むような音を立ててさらに絞まった。

「なにを一体、貴様が思い悩む必要がある?世界も、神も、人の心も。全て思いのままなのに!」

 記号として認識できるはずの言葉が、何一つとして理解できない。手首の痛みに歪んだ相貌には、まだらいろの混乱が渦巻いていた。

「……あはは!まじかよ、本当に無自覚なのか?本当に何も知らないんだ?」

「言っ、てる、意味が分からない」

「かわいそうなやつ!その気になれば、『俺たち』にできないことなんて無いのにね!」

 せせら笑いながら、「いいよ、特別に教えてやるよ」と、青年は幸人の耳元へと唇を寄せる。うっそりと弧を描いたそれが、ぬるい吐息と共に言葉を吐いて。

 同時に散瞳した琥珀色の瞳を心底愉快そうにながめた。

 やがて身を引いた幸人の歩みは、まさに茫然自失といった様子だった。狼狽しきった双眸で、眼前の青年を見て。

「……なんで、あなたは──」

 うわごとのように吐き出された言葉に、青年は笑みを深める。濃い痣を残したまま、幸人の手首を開放する。「ああ」と呟いたその声は、わざとらしいほどに折目正しいものだった。


「失礼。そういえば、名乗ってもいませんでしたね。ぶしつけな真似をしました」 


 胸に手を当て、流麗な所作で腰を折る。


「僕は、モーガン。モーガン・ル・フェイ。以後、お見知りおきを」


***


 部屋を飛び出したかと思えば、狩野は1時間も経たないうちに部屋に戻ってきた。

 数十分前の取り乱し方からは想像もつかないような落ち着きように、言いようのない不安を覚える。

騒つくような焦燥を抱えたまま。「狩野」と呼びかけた俺を、緩慢な所作で琥珀色の瞳が写して。

「…………おまえ、」

そして、その虚ろな色彩に、俺は無意識に後退っていた。

『がらんどう』と。まず脳裏に浮かんだのは、そんな言葉だった。人間性も、感情も、意思も。何もかもが無くなってしまった後の、抜け殻と対面しているような。そんな輪郭の見えない喪失感に、唇が震えた。

「狩野。おい、狩野」

焦燥のまま肩をゆすれば、狩野の手が、俺のそれにやおら重ねられる。こちらを反射するだけの瞳が、しっかりと焦点を結んだ。

「大丈夫、圭一。ちゃんと聞こえてる」

「……そうか。その、」

「うん、おれこそごめん。圭一の気持ちも考えず、酷い事を云ったね」

 いつもの柔い笑みだった。

 それでも、俺の身体は強張ったまま動こうとはしない。何度も見た笑みを浮かべるその男が、全く知らない何かに成り代わってしまったような。そんな違和感。

「圭一。圭一は、いつもおれのことを一番に考えてくれたね」

碌な抵抗もできないまま、気付けばしなやかな腕の中に閉じ込められていた。

「おれも、圭一のことが一番大事」

薄い胸板から、鼓動の音だけが聞こえる。温い体温に包まれたまま、やけに冴えた頭で次の言葉を待った。

「だからね、おれ頑張るよ。きっとうまくやる」

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