マダム・レースと疲れたおかあさん

リオン(未完系。)

第1話

「マダム・レースなら、そんな事はしないだろう」


 こんな考えが私の頭に浮かんだのは、なんの変哲もない六月の平日の事だ。




 私はマダム・レースと知り合いではないし、そもそとマダム・レースが実在するのかも分からない。


 それでも、台所の一番低い食器棚を足で閉めた時にふと、「マダム・レースなら、扉を足で閉めたりしないだろう」と思ったのだ。




 マダム・レースはいつもエレガントで上品で穏やかに微笑んでいるに違いない。十歳の息子が玄関に上靴を置いて行っても ーー 朝から三回も注意したにも関わらず、だ ーー 二歳の娘がお味噌汁の入った器を冠にしたいと鼻水垂らして泣き喚いても、マダム・レースはおっとりと微笑んでいるのだろう。




 私はマダム・レースではないので、「もう! 何回言ったら分かるのよ!」と怒りながら髪を振り乱し自転車で学校へ向かうし、「お味噌汁はプリンセスの冠じゃありません!」と娘と本気で喧嘩になる。




 そんな私の事も、マダム・レースは咎めたりしないだろう。




 「あらあら、おかあさんは大変ねぇ」とミルクティーを飲みながら微笑み、シンプルなクッキーを一枚勧めてくれるだろう。




 私はマダム・レースにはなれないし、マダム・レースも私に自分のようになる事を決して望まないに違いない。




 それでも私は夜いつも足で押す扇風機のスイッチを、今日だけは膝を曲げて人差し指で押したのだ。

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