第20話 月夜の口づけ②
ヴァルハルトをこちらの事情に巻き込むべきではないと思っていた。しかしこの海竜は、リアンが死んでいないと信じてここまで来てくれた。今も真剣な眼差しでリアンを助けようと手を差し出してくれている。
だから自分も事実を打ち明けるべきだと思った。そうすることがリアンを探しつづけてくれたヴァルハルトに対して自分なりに謝意を示す方法だと思った。
どちらにしろ、海軍の幹部には秘密裏に祖父のことを伝えなければならない。
腹を決めて、全て打ち明けた。
リアンが祖父の計略を知り、燕から海に落とされたことをかいつまんで説明すると、ヴァルハルトは剣呑な顔になり、眉間に青筋を立てた。
「あの大将、飛竜を海に落とすなんて正気じゃねぇな」
「敵にそそのかされたのかはわからないが、多分祖父は今正気ではない……こんなことになるなら、私がもっと早く人間と番っていればよかった」
そう呟くと、ヴァルハルトの顔が険しくなった。
「なんだって?」
「私が、もっと早く人間と番っていればよかったんだ。飛竜の子どもさえ生まれていれば、祖父は多分こんな蛮行を起こそうとはしなかっただろう」
そのせいで海蛇を危険に晒した。沈んだ声でそう言うと、ヴァルハルトは眉間に皺を寄せて舌打ちした。
「あんたのせいじゃない。本当に飛竜のガキがほしいなら、ヒースレイみたいに俺たちを頼ればよかったんだ。それをしねぇまま人間と番い続けて、数を減らしたのはグラディウスの血に固執した大将のせいだろ。絶滅に向かってたのはあの爺さん自身だ。あんたがそいつの感傷を肩代わりする必要はねぇ。あんたの命はあんたのもんだ。グラディウスのもんじゃない。あんたには自由に生きる権利がある」
そうきっぱりと告げられてヴァルハルトを見上げると、まっすぐにリアンを見つめる男の青い眼には鋭くも信実な光が灯っていた。
「グラディウス、海蛇に来い。海にいれば飛竜からはあんたを隠せる。何があっても俺があんたを守ってやる」
「……オーベル」
目を見開いてヴァルハルトを見つめる。目の前の男は真剣な眼差しで、リアンから目を逸らさなかった。
胸の奥が震えた気がした。
見つめ合って、しばらく時が止まったような心地になったが、リアンはゆっくりと首を横に振った。
「駄目だ。行けない。祖父を止めなければならない」
そう答えると、ヴァルハルトは一瞬苦しげな表情を見せた。一度目を閉じると、再び元の鋭い目つきに戻ってリアンを見下ろしてくる。
ヴァルハルトの言葉に心が動いたのは事実だった。
海に落とされたリアンには、もう行き場がない。飛竜から守ると言って、海蛇に来いと言ってくれたヴァルハルトを頼ってしまいたいと思う気持ちはどこかにあった。
しかし今ここで頷いたら、自分はきっともうヴァルハルトと対等ではなくなってしまう。助ける者と助けられる者という関係になった瞬間、自分は以前のようにこの男の顔を見ることができないだろう。
それは嫌だと思った。ここで逃げたら、自分はもうこの男に正面からぶつかることができなくなる。
「燕に戻る。なんとか祖父を止めてみせる。私は飛竜だ。ホーフブルクと陛下に危険が迫っているなら、見過ごしておけない」
そう言いながら、その通りだと自分の中で決意を固めた。
明日燕が陸の上を飛ぶということはすでに説明してある。ヴァルハルトはリアンの言葉を聞くと険しい表情を浮かべた。
「一緒に行く」
そう言った海の竜に、リアンはまた首を横に振った。
「ダメだ。お前は海軍だろう。領海を守れ。どさくさに紛れてグートランドの戦艦がまた来るかもしれない。お前は王国を守護するオーベル一族の海竜だ。陛下と国を守れ」
「俺は忠誠を誓ってない」
「いいんだ。誓っていなくても。お前は誇り高いオーベルの海竜だ。私にはそれがわかったから、お前になら海を任せられる。頼んだぞ、ヴァルハルト・オーベル」
心からそう思った。
ヴァルハルトは気性が荒くて横柄で、野蛮で粗暴な海竜だが、海を愛している。オーベルが守る海は船からも人から信頼を寄せられる、ホーフブルクの大事な要であり、財産だ。見た目にはわからなくとも、ヴァルハルトがそれにちゃんと誇りを持っていることをリアンはもう知っている。この男になら、安心して軍部の一翼を任せられる。
信頼のこもった眼で見つめると、ヴァルハルトは目を見開いて、それから悔しそうに眉間に皺を寄せた。
「あんたにそう言われると、嫌んなるくらい痺れるな」
ため息を吐きながらそう呟いたヴァルハルトは、軍服のポケットから何かを取り出した。
「これを持って行け」
そう言って差し出されたのは、金色の腕輪だっ
た。少し古びた骨董品のような見た目で、金でできているのか月の光を細く反射して白っぽく輝いている。かなり繊細な竜と波のような紋様が彫られた幅のある金色の輪を見て、リアンは首を傾けた。
「なんだ。これは」
「お守り。いいから付けとけ。いざという時あんたを守ってくれる」
不思議そうな顔をしているリアンの左手を掴んで、ヴァルハルトは有無を言わさずそれを嵌めた。左の手首を覆うようにカチンとはまった腕輪が肌にぴったり吸い付くように収まった。
勝手に何してる、とも思ったが、ヴァルハルトの顔は真剣で、お守りだと言われてそう悪い気はしなかったから文句を言うのはやめた。
「無茶はすんなよ。あんた頭に血が昇ると結構野蛮だからな」
「なんだそれは。お前のような蛮族に野蛮だなんて言われるほど腹の立つことはない。訂正して謝罪しろ」
「あのなぁ。あんた自分が空軍のヒュドラって言われてるの知ってるか?」
「知るはずないだろう。誰だ、飛竜である私をそんな薄汚れた怪物の名で呼ぶ無礼な者は。見つけ次第厳罰に処す」
リアンが不快そうに顔を顰めて言うと、ヴァルハルトは横を向いて吹き出し、ひとしきり笑った後に目をすがめてリアンを見た。
「グラディウス」
腕輪を付けた手を引き寄せられて、男の唇がリアンの口に重なってきた。
驚いて一瞬身体が強張ったが、すぐに力を抜いた。少しカサついた唇が押し当てられる。渇いた潮の香りがした。
自分はなぜこの男からのキスを拒まないのか、理由は考えたくない。
今理由は必要ないと思った。
ただそうしたかった。
自分たちはそうするのが自然だと思い、そうあるべきだとさえ思った。
リアンが受け入れたことを察したヴァルハルトが腰に腕を回してくる。深く重なってくる唇に応えて目を閉じて顎を上げた。即座に角度を変えた男の口にかぶりつくように唇を覆われる。大きな手に後頭部を支えられて、こじ開けるようにして入ってきた舌に口の中をなぶられた。息が継げないほどの勢いで熱い舌先に喉の奥まで征服される。
「んっ……う」
相変わらず荒々しい男の挙動に翻弄されながらも、どこか安堵している自分がいるのを感じた。力のままにねじ伏せて、抵抗する隙を与えないようなヴァルハルトの激しさに呑み込まれると安心する。嵐のような情動にさらわれて、躊躇う余裕さえなくなるのがいい。
「ん、う……ん」
唾液すらも全て吸い出されるように舌を絡め取られてすすられた。立っていられなくなって、そこで初めてヴァルハルトの背中に腕を回してしがみついた。背中の服を掴んだら、リアンの頭の後ろを掴んでいる指先に力が入り、もっとキスが深くなった。余すところなく舐められて、歯列の奥までなぞられるとぞくぞくして腰が震える。
うっすら目を開けると、リアンを熱く見つめる月長石のような澄んだ青い瞳と目が合う。その眼を見るだけで、陰の日でもないのに自分の中の竜が呼び起こされるような感覚に陥った。視線が絡み合って、もっと深くまで探り合いたくなるような、胸の奥深くから惹き合う何かを感じる。
「んっ……ふ」
堪らずもう一度目を閉じた。
このままではまた呑み込まれる。何も覚悟ができていない自分にはこの先に進む理由が見つけられない。
水が絞れるほどぎゅっと軍服を握りしめた手を離し、ヴァルハルトの背中を引っ掻くようにして叩いた。
リアンが合図をしたら、ヴァルハルトはようやく唇を離した。目を開けると、熱を宿したままの真剣な眼がリアンをまっすぐに射抜く。
「自分の身を犠牲にしようなんて思うなよ。あんたがいなくなるのだけは許さねぇ」
静かな口調で、それでいて嵐のような苛烈さを感じさせるヴァルハルトの声にリアンは黙って頷いた。
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