青い財布
あべせい
青い財布
「年はとりたくないものだ。こうして毎日、浅草寺にお参りして、お地蔵さんに願掛けしているが、一向にご利益がない。幸運が降ってくるどころか、なくなるものばかりだ。金はむろん、蓄えはない。職場がなくなり、信用がない。力もない。若さに気力、知力、体力、ぜーんぶナイ。たった1人いた友人は、ケンカがもとで去ってしまった。女房は先月、こどもを連れて出ていった。いまのおれに残っているものは何だろう?
借金に、顔のシワ、悪い評判、悪い噂、悪い癖、なくていいものばかりだ。金は……尻ポケットにあるよれよれのこの財布。結婚して最初の誕生日に、女房がプレゼントしてくれた、牛革の財布。もう、15年か。中身は、千円札が1枚に、五百円玉が2個、百円が3個、あとはざっと数えて50円ほど。考えてみると、ここに30万円が入っていた時もあったが、ずいぶん昔の話だ……アレ、あれは何だ?……。
お地蔵さんの台座の下から、何か覗いている……ここは浅草寺の裏、仲見世通り側と比べると、極端に人通りが少ない……手を伸ばして……これ、は……手で掴んで、引っ張る……アッ! 勢い余って尻餅をついた。なんだ、これは……財布のようだが、いやおれの牛革と、ぴったり同じ大きさ。ジーンズのような青い布でできている。中は……札入れに千円札。だれかが落としたのか……小銭入れは空っぽだ。お金が入っているということは、立派な財布。このほうが新しそうだから、この際、おれの財布の中身をこっちに移し、空っぽになった牛革の財布は、どうするか……よし、この青い財布があった、お地蔵さんの台座の下に……これでいいか」
「もしもし」
男、声に驚き、拾った財布を咄嗟に後ろ手に隠す。
「なッ、なんです」
「何をしておいでですか?」
「あんたは……竹ぼうきを持って……強盗!」
「よく見てください。こんな強盗はいません。下駄を履き、ホウキとチリトリを持っています」
「強盗じゃなかったら、何ですか?」
「掃除をしているだけです」
「掃除をしている人が、私に何の用ですか」
「あなた、毎日のようにここに来られますね」
「見られていたのか。だから、ご利益がないのか」
「誠に失礼ですが、お仕事にお困りでしたら、私の仕事をやってみませんか?」
「掃除の仕事ですか。私はなまけものですから。すいません。失礼します」
男、小走りに去る。
「もし、その気持ちになれば。いつでもお来しください。待っています」
おとこ、走りながら。
「冗談じゃない。だれが、掃除なんか……ここまで来れば、いいか。腹が減った。朝から何も食べていなかった。きょうはゲン直しに、焼肉の食べ放題にするか」
「おれは浪費家なのか。アパートの家賃を2カ月溜めているのに、焼き肉食べ放題のあとは、タクシーをつかまえ、昔女房とデートした、この晴海埠頭までやって来た。今夜の夕食代はもちろん、明日からの生活はどうするつもりなのか。おれは尻に火がつかないと、何もできない人間なンだろうか。明日はまた、日払いの荷運びに行くか」
財布をとりだす。
「もう、いくらも残っちゃいないだろう……ウム? 千円札がある……おかしい。硬貨が1個もない。タクシーの運転手に、1520円払ったとき、500円玉1個と、いくらか10円玉があったことは覚えている。千円札はなかったはず。まァいい。おれの勘違いだ。千円あれば、きょうはなんとかなる」
「今夜は食った。ビールはグラスに一杯だけ。いつも夕食は牛丼の大盛りだけなのに。千円札で気が大きくなった、ってか。バカ野郎、おれはそんなに安っぽい人間か。いや、そういう人間ダ。情けない……」
財布をとりだす。
「もう、50円も残っちゃいないだろう。こう振れば、中でコインどうしがぶつかって、チャラチャラ……アッ? 鳴らない! 待て」
財布を開く。
「千円札が一枚ある! なんだ、これは! だれが入れた。そんな奇特なやつはおれの周りにはいない。じゃ、どうして……わけがわからン……酔った……帰りがけに、立ち飲み屋でひっかけた泡盛が、いまごろになって効いてきた……」
「いまおれは、この拾った青い財布に生かされている。使っても使っても、その都度千円札が入っている。千円で990円の買い物をして、次に財布を開けると、お釣りの10円が千円札に変わっている。いや、変わったというのはおかしい。10円が消えて、新しく千円札が出てきた、といったほうがいいのかもしれない。千円札はピン札じゃない。どちらかといえば、古びた千円札だ。昨日試しに、駄菓子屋に行って、10円のアメ玉を買ってみた。店のおやじは妙な顔をして、おれが出した千円札を裏返したり折り曲げたりして何度も見ていたが、偽札じゃないと納得したのか、つまらなそうに990円、返した。おれはそいつを一旦財布に入れて閉じ。再び開くと、千円札1枚になっていた。これはただ事じゃない。おれのようななまけものには、ピッタリの財布だ。やはり、浅草寺のご利益。ありがたい観音様だ。こんどは、お賽銭を弾むゾ。といっても、この財布から出すのだから、観音様は喜ばないだろう。
ただ1つ、困るのは、千円以上の買い物や飲み食いができないことだ。これが千円札じゃなくて、一万円札だったら、どんなに明るいことか。観音様もそこまではお考えが及ばなかったようだ。だから、アパートの家賃の支払いには使えない。いまはこうしてデッカな冷凍倉庫で働いている。外は真夏だというのに、ここは南極、氷点下50度の世界だ。寒いうえに、重いマグロが肩に食い込む」
「おーい、夏目!」
「なんだ。作業主任か。はーい、ここです」
「夏目、面会だ。守衛室の脇で待っている。女だ。早く、行け」
「仕事中なのに……、気味悪い」
「夏目ですが……あなたは?」
「あらッ、覚えてないの。ずいぶんね」
「ぼく、いま仕事中で、手が放せないンです」
「夏目さん、あなたがこの時間に来てくれ、って。昨日、言ったでしょう」
「昨日?」
「本当に覚えていないの?」
「あなたのような美人なら、忘れることはないけれど」
「ここの主任と一緒に、わたしが勤めているスナックに来たわ。ここまでは、わかる?」
「ええ、スナックには行った。主任の三嶋さんが、よくやってくれるからと言って、連れられて」
まだ勤めて3日しかたっていないのに、よくやってくれるというのはおかしな話だ。ましてバイトのおれを誘うのは、どうかしている。あれで勘定がこっち持ちだったら、おれは逃げた。
「わたし、すみれ、っていうンだけれど、あなたと主任さんのテーブルに行って、お相手したじゃない」
女がきたことは覚えているが、こんな美人じゃなかった。
「あなたはウォッカやジンをバンバン飲んで、相当酔っていたけれど、帰り際にこういったの。『オレ、明日も勤めがあるけど、午後2時に休憩がとれるから、来てくれないかな。大事な話があるンだ』って」
「大事な話? そう言ったのか……」
「だから、わたし、聞いたの。『大事な話って、何よ?』って。そうしたら、あなたは、『オレはアラジンの魔法のランプを持っているンだ』って。その大事なランプを貸してあげる、と言ったわ」
「アラジンの魔法のランプ!? そんなことを言ったのか!」
バカなことを言ったもンだ。おれはどうかしていたンだ。
「あら、ウソなの。わたしをここまで呼び出しておいて。それはないでしょう」
「そういわれても……じゃ、ここの仕事はもうすぐ終わるから、前の喫茶店で待っていてくれないかな。説明するから」
こんなホテルで朝を迎えるなんて。そんなつもりはなかった。まして、あのすみれという名の美女が裸で眠っているベッドを見下ろしながら、だなんて……。こいつはおかしい。しかし、どこでどうおかしくなったのか。オレの頭じゃ、見当がつかない。待ち合わせた喫茶店を出たあと、居酒屋でメシを一緒に食べるはずが、やたらと勧めるものだから、ついつい焼酎を飲み過ぎ、気がつくと、このホテルのベッドの上だった。しかし、それも束の間、すぐに気絶したらしく、そのあと、どうなったのか。目が覚めた、いままでの記憶がない。おれは酒にだらしがない。逃げた女房も、そのことをいちばん嫌っていた。飲むと、あとのことはどうでもよくなるのだ。酒に逃げている、と言って、女房はよくオレを叱った。女房が正しい、といまは思う。
しかし、オレだって、昨日から、女の狙いがオレの青い財布にあることぐらい、承知している。だが、どうして、青い財布の秘密が他人に知られてしまったのか、だ。一昨日、主任の三嶋と行ったスナックで、すみれに財布の話をしたのだろうか。そんなバカなことはしない。しかし、絶対にしていないか? そうでないかぎり、財布の秘密を知られるわけがない……。
「ねェ……」
「どうした?」
「いま、何時?」
「9時10分過ぎだ」
「もう、そろそろ帰らなくちゃね。先に帰っていいわよ」
「ここの勘定はどうした?」
「あなたが昨日、入るときに払ったじゃない。万札がぎっしり詰まっていると思ったら、野口英雄ばっか。ガッカリした。三嶋のいうことも当てにならないわね」
「三嶋が何と言ったンだ」
「『夏目の財布は、使っても減ることがない。不思議の財布らしい。総務の川端が、夏目は魔法の財布で、暮らしを立てている』って」
「総務の川端……あのとき、か」
「あなた、総務の川端さんと、何かあったの」
「何って……」
「わたし、まだ眠いから、寝かして……」
すみれは、布団にもぐりこんだ。
総務の川端は人妻だが、いまは10才の娘を連れ、亭主と別居している。週払いのバイト代をもらった3日前のことだ。銀行のATMコーナーで、女房の口座に生活費を送金するため機械を操作しているとき、おもしろいことに気がついた。4万2千円を現金投入口に差し入れ、空になった財布をふと見ると、小銭のほかに、やはり千円があった。これまで、小銭を残し千円を使うと、その都度、千円札が現れた。しかし、その千円札を財布から取り出しただけでは、新たに千円札が現れることはなかった。しかし、現金投入口に差し込めば、新たに千円が財布に現れる。いままで実際に使わない限り、千円札は湧いて来ないのだと考えていたが、そうじゃない。自分の手から離れれば、千円は補給される。これなら、働く必要はない。自分の口座向けに、財布から千円を出して現金投入口に入れる作業を繰り返せば、時間はかかるだろうが、無尽蔵に金は手に入る。おれは、5分以上もATMの前で、財布から千円札を抜き出す作業を繰り返した。ATMには防犯カメラがついている。あまり長いと不審がられる。おれが財布を懐に入れ、ATMの前を離れたとき、後ろに列を作っていた女性がおれに声をかけてきた。「すてきなお財布ですね」。それが川端だった。それまで会社の総務で顔を合わせたことはあったが、話などしたことがない。おれの女房に似た、笑顔のかわいい女だ。職場から近い銀行だが、予想もしていなかった相手だっただけに、おれは、「はァ……」といったきり、会釈をしてその場を立ち去った。恐らく彼女は見たのだろう。千円札を抜き出しても、抜き出しても、その都度、新たに千円札が現れる不思議の財布、と。おれは、青い財布の効率的な使い方を知って、すぐにバイトをやめようと思ったが、彼女に見られたことが気になり、まだやめずにいる。いや、川端という人妻に、邪な欲望を抱いたことが、やめない理由なのか……。
「川端さん」
「エ
「あッ、夏目さん……何か」
「少し、お話が。お差し支えなければ、駅前の喫茶店で、いかがですか」
「夏目さんはこの喫茶店がお好きなンですね。しかも、決まって、このテーブル……」
「どうしてですか?」
「だって、2度ほど、このお店におられるところを拝見したものですから」
「そうですか。それは、考えごとをしていたンだと思います」
この店は、表通りに面した2方向の壁がガラス張りになっている。外から、中のようすがよく見える。彼女が言っている2度というのは、一昨日と昨日、帰宅する彼女にどうすれば話しかけられるか、その機会をつかもうと考えながら、この席で彼女を張っていた。
「毎日ですか?」
「いいえ」
彼女はきょう限りに会社に来なくなる。今朝、出勤したとき、彼女が退職する話を偶然耳にして、グズグズしていられないと思い、退社する彼女を待って声をかけた。
「実は、川端さんに、どうお話していいのか、考えていたのです」
「何でしょうか。わたしに、って」
「川端さん、お子さんがおられますね」
「小学校に通っている息子が一人。それが、何か」
「私にもこどもが一人。娘ですが。もうすぐその娘の誕生日なンですが、何をプレゼントすればいいのか、迷っています」
「誕生日プレゼントのご相談でしょうか」
「はい……」
「ご冗談でしょう? そんなことを、どうしてわたしに。奥さまがおいででしょう」
「別居しています」
「わたしが別居しているから。同じ境遇どうし、知恵を貸せ、ということでしょうか?」
「そういうことでは。お気を悪くなさらないでください。実は、これです」
青い財布を前のテーブルに置く。
「そのお財布……」
「ご存知ですか。魔法の財布です。娘には、この財布で何か贈りたいのです」
「魔法の財布! わたしに、1日だけ、お貸しいただけないでしょうか」
「お貸ししてもいいですが、条件があります」
おれはロクでなしだ。こんなことで、女性を自由にしようとしている。
「条件、ですか。難しいですか」
「難しくはありません。あなたなら、簡単なことです」
「わたし、いまの会社を、きょうでやめました。こどもと一緒に、夫のところに戻るためにです」
「そうだったンですか。この話はやめます。聞かなかったことにしてください」
「待ってください。そのお財布、どうしても必要なンです。夫はいま病気で入院しています。蓄えがありません」
「私に、どうしろとおっしゃるのですか」
「ですから、夏目さんがお考えの通りに……」
「バカなことを言わないでください。私のような、クズ同然の男のいいなりになるというのですか。それは間違っています。
おれは心にもないことを言っている。
「いいンです。これがわたしの運命なのです。ただ、その前に……」
「その前に?」
「もう一度、この財布の力を拝見させてください」
「いいですよ」
財布を開く。
「ここには、いま、このようにお札が5万7千円と、こちらに小銭が……7百……67円あります。こうして、テーブルに全て出します……」
「……はい」
「これで財布の中は空っぽです。!」
シマッタ! たいへんなことをしたのかもしれない。
「もう、やめましょう。意味がない。私は、あなたのご希望には沿えません。沿いたくない!」
「どうなさったンですか。夏目さん、何か、お気に障ることをしたのでしょうか」
「失礼します」
立ちあがる。
「お待ちください。ひょっとして、そのお財布」
夏目の手から、無理やり青い財布を引き抜く。
「何をなさるンですか! アッ」
財布を奪い返し、中を何度も調べる。
「ない。ナイ、千円札が出て来ない! なぜだ。やはり、少し残して置かないと、千円に変わらないのか」
「わたしの勘違いだったンですね。魔法の財布でも、なんでもなかった」
「そんなことはない。これは不思議の財布です。やり方が少し間違っただけです」
小銭だけ戻して、一旦財布を閉じる。
「これで、魔法は復活します」
「?……」
「よく見ていてください」
財布を慎重に開く。
「ナイッ、ない。やはり……、しかし、なぜだ!」
「わたし、目が覚めました。夫がいる病院の近くに仕事を見つけて、もう一度働きます。あなたは、おっしゃる通り、男のクズです。失礼します」
一度なくなしたパワーは戻らないのか。この財布は、この地蔵の台座の下からみつけた。また、何か、ある。いや、おれが代わりに、隠した、おれが前に使っていた革の財布?……あれから、2カ月たっている。色が……変色したらしい。代わりに、この青い財布を、元に戻して。
「もしもし」
「あなたは、前に、掃除の仕事を勧めてくださった方」
「あなた、その財布を、使いこなせなかったようですね」
「どうして、それを……」
「貸してごらんなさい。この財布は、一度空っぽにしてしまうと、力がなくなるのです。例え、1円玉1つでもいい、中に小銭を残しておくことです」
「もっと早く、教えてくだされば……」
「教えたら、どうしました」
「一生、働かないでしょう」
「でも、もう1つ、秘密があります」
「?」
「持ち主が変わると、力が復活する」
「そうなンですか! よし、元気が出た。彼女に、プレゼントしよう」
「あなた、目を覚ましなさい。これを贈る相手は不倫相手じゃない。あなたの奥さんでしょうが……」
「あなた、どうして、そんなことまでご存知なんですか。あれッ、どこに?……青い財布と一緒に、消えた……なんだ? 何かある。お地蔵さんの足の上に……青い財布!」
(了)
青い財布 あべせい @abesei
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