僕の辛いお話エッセイ。でも僕は生きている。

夕日ゆうや

生きていいのかな?

 僕が小学校高学年の頃の話をしようと思う。


 これ以降暗い話や気分を害する話、センシティブな話題ばかりになる。注意して欲しい。


 僕のリアル一人称が〝僕〟なので、そう呼称させてもらう。

 ちなみに僕は下僕げぼくの僕から来ていることも付け加えておこう。


 さて、本題に戻る。


 僕が小学校五年の頃。


 母が前々から持っていた病気『統合失調症』を再発した。

 母が父を目のかたきにし、悪口ばかり聞かされた。


 さらには誰かに監視されていると思った母は配線を見て、

「マイクが仕込まれている。毎日音声を記録されている」

 と言った。そんなことはないのだが、母は完全におかしかった。


 そんな母の悪口や奇行が嫌になったのか、父は僕と兄を置いて別居した。

 僕には父と連絡をする手段も、父がどこにいるかも分からなかった。

 さらには母の父への悪口のせいで父のことを信頼できずにいた。


 父は僕と兄を助けてはくれなかった。


 僕は小学五年になった時にイヌを飼ってもらった。

 それは恐らくすさんだ心を癒やしたい気持ちもあったのだと思う。


 とにもかくにもイヌとは一緒に暮らしていて、食事や散歩をしていたりした。楽しかった。

 が、とある日。

 そのイヌが事故に遭った。

 獣医さんは、

「安楽死を薦める。生き延びても三割の確率で後遺症が残るし、そもそも三割の確率で死んでしまう」

 とのこと。

 僕はその事故に立ち会っていなかった。

 いつもの日。

 なんてない日。

 だから、帰ってきたらイヌが迎えてくれる。

 そう思っていた。


 でも帰ってきてみればそんな話。

 僕には判断できなかった。


 一応、イヌは九死に一生を得たのだが、後遺症が残った。

 全て僕のせいだとも思った。

 もっと対策を、苦しい思いをしてまで生かす意味を、知りたかった。


 小学校五年の頃。

 兄が不登校になった。

 自分の部屋から出ようとせず、外界と隔離される道を選んだ。


 そのことを友人に打ち明けた。

 悩んでいる、と。

 だが、同級生かれの答えは違った。

 後々知ったこともあるのだが、同級生は兄の話を聞き、

『嫌な学校にすら来ない、甘やかされて育った兄』

 と位置づけた。

 当然それは僕も甘やかされているという判断に至った。


 それからいじめが始まった。

 お坊ちゃま。

 その言葉を僕の名前と混ぜた蔑称、あだ名。

 それを毎日のように聞かされた。


 それが小学校五・六年生の間、続いた。

 自分はどうすれば良かったのだろうか?


 その頃、母は僕が怪我をしたのを、見ず知らずの家主のせいにした。

 母は兄の部屋に悪口を書いた紙をばらまいた。


 兄の気持ちも分かった。

 逃げ出したいと。

 こんなのはもう嫌だと。


 中学校に入り、僕は「もう耐えられない」と兄に告げた。

 翌日、父の配慮か、母は入院――医療保護入院になった。

 兄は父との連絡手段を持っていたのだ。

 僕が話したことで母が連れていかれたと思うと、胸が痛んだ。

 そして言葉は軽々しく口にするべきじゃないと、そう思い込んだ。

 それからしゃべるのが怖くなった。


 余談だが中学の音楽の先生はこう言った。

「音楽は楽しむもの。つまらなさそうに歌うのは違う」

 そう僕に告げた。

 何が違うんだ。家庭の安寧すら守れていないのに、なぜ僕が糾弾されるのか。


 中学二年。

 入院した母は良くなっていた。

 でも父は離婚話に持ち込んだ。

 僕はまた元気を取り戻した母と暮らせるのだと、浮かれた時期もあった。

 裁判所は「母の言動は子どもたちに悪影響を与える。従って離婚を認める」というものだった。

 それは納得はできた。

 母の言動はそれほど苛烈だった。


 でも、裁判所は「母に一ヶ月に一回の面会を許す」とも言った。

 これが地獄だった。

 まだ母は病気が治っていなかった。

 後々に知ったが、この病気が治ることはなく、良い状態が続く〝寛解かんかい〟というらしい。

 面会は酷かった。

 母が病気をこじらせ、攻撃的な発言をしたり、いきなり泣き出したり、私の父の悪口を言ったりしたのだ。


 母の病気は治っていない。

 にも関わらず裁判所は面会の許可を出した。


 僕はそのことに義憤を感じていた。

 裁判所の命令が本当に正しいのか、疑った。

 医療機関もそうだ。

 医療機関も母の面会をなぜ許しているのか、信じられなかった。


 そして母から告げられた真実。

 母は子どもの頃、父(僕の祖父)から虐待をうけていた、と。

 顔を往復ビンタされ、吹雪ふぶきの中買い物に行かされた、と。


 そんな祖父も戦争で家族を亡くし、親戚の家をたらい回しにされたらしい。


 僕は何を信じていいのか、分からなくなった。

 この国のせいでもあり、祖父のせいでも、母のせいでもある。

 そしてその病気をいつまでも放置していた父や親族のせいでもある。

 裁判所に至っては、国民のせいでもある。

 もちろん拡大解釈かもしれない。

 だが、民意があれば裁判所での言動は違ったのではないか?

 そう考えてしまう。


 僕はどうすれば良かった?


 このまま泣き寝入りすれば事態が解決するとも思えなかった。


 僕が子どもの頃、秋葉原での無差別殺傷事件があった。

 あれは多くの国民が恐怖した瞬間でもあった。

 あの犯人みたいに暴れるか? とも思った時期があった。

 でもそんな度胸はないし、それに暴れても、一時いっときの間だけ知られ、その記録は風化していく。

 あの犯人も自分の居場所を見つけられなかったと記憶している。


 だから憎しみのまま、恨みのまま、行動しても良い結果は得られない。

 ただ暴力の連鎖を生み出すだけ。

 ただ憎悪の連鎖を生み出すだけ。


 それは解決にならない。


 だから、僕は考えた。


 統合失調症である母を持つ子は悪く育つ。

 離婚した両親の子は悪く育つ。

 そんな固定概念、色眼鏡、先入観。

 そこから変えていかねばならない。

 そこが変われば、僕はいじめられずにすんだ。


 学校の先生や教育機関も当てにはならなかった。

 だから変える。

 僕みたいな人でも生きていいんだって。

 誰かの味方になれるんだって。

 そう思った。

 今後、僕がどう生きようと同じような境遇の人は生まれる。

 なら、その人のために生きようと思った。


 全ては守りきれなかった僕のせいで、僕の時代は終わっていて。

 だからこれから未来ある若者たちに託すべきと考えた。

 そして、同じことで苦しんでいた人が歴史の中にいる。

 きっと病気の解明が進み、特効薬が見つかり、そんな悩み苦しんでいた人々が報われる日が来る。

 個ではなく、人類全体として。

 未来ある天才たちが、努力を惜しまない凡人が、良識ある後輩たちが、僕を救ってくれる。

 どんな病気も事故も防げて、健康で生きられる。


 そうであってほしいと強く願った。


 そしてその世界へと導くには、自分から変えていく必要があるとも感じた。

 自分が変われば世界は変わる。

 凡夫な言葉かもしれないが、よくよく考えてほしい。

 世界とはなんだ?

 世界の最小単位は個だ。

 個が連なり家族を形成し、さらに家族が集まることで地域が生まれる。

 つまりは、個を変えることが、世界を変えることにつながる。


 そしてそれは同じ心を持つ者同士で響き合い、分かち合うことで、未来へとつながる。

 明日へとつながる。


 僕が生きていて、その境遇を知った者は、きっと何かを見いだす。

 そうして魂と魂がぶつかり合うことで生まれる変化があるはず。

 それが世界を変えるということ。


 まずは良い人になろう。


 そうすれば、きっと理解してくれる人がいるはず。


 もし失敗しても『善意で行ってきた』という意見を聞いた未来の子ども達はきっと許してくれるだろう。

 そして正してくれるだろう。


 そんな子ども達に、僕は未来を託す。


 喩え傷だらけでも、罪を背負っていても。

 喩え間違っていても、最善ではなくとも。


 それでも僕は必死に生きる。

 未来ある子ども達のために。


 自分自身のために。


 変えていきたいから。


 これを読んで頂いた方々にもちゃんと考えて欲しい。

 その言葉の向く先を、受け止める側を。

 そうして最善である、と思えた言葉を拾ってほしい。


 ご静聴ありがとうございました。


 ここまで読んで頂きありがとうございます。

 今日も頑張って生きています。


 ではでは。




※第二部もあります。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕の辛いお話エッセイ。でも僕は生きている。 夕日ゆうや @PT03wing

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画