桃太郎 弐の巻

いと菜飯

第一話 月夜の密会

「なあ、婆さんや。太郎は無事に、鬼ヶ島に辿り着けたじゃろうか。」


とある晴れた夏の日。お爺さんとお婆さんは、老体に鞭打ち、畑仕事に精を出していた。


「そうですねえ。太郎がここを発ってから、六日は経ちましたからねえ。どうでしょう。鬼ヶ島に向け、海を渡っている頃でしょうか。」


「そうかそうか。無事に辿り着けるといいがのお。」

汗を拭き拭き、お爺さんが言う。


「冗談じゃありません。無事に辿り着けたとしても、無事に鬼を退治して、無事に帰ってきてもらわないと。まだまだ安心できたものじゃありませんよ。特に今は、海が荒れやすい時期。いつ大波が船をさらってもおかしくはありません。」

お婆さんは畑を耕す手を止め、目を細めながら照りつける太陽を見上げた。一筋の汗が頬を伝う。


二人は畑に目を落とし、日が暮れるまで、黙々と作業を続けた。



その日の夜。白い満月が傾き始めた頃、コンコンと戸を叩く音でお爺さんは目を覚ました。


「こんな夜更けに、何用かの。」

お爺さんが戸を開ける。重い目蓋を頑張って引き上げているせいで、顔がひきつっている。半ば寝ぼけているお爺さんは、その客人に対して一切の警戒を抱いていなかった。もし彼が正気であったなら、こんな時間に訪ねてくる者は強盗や物の怪の類いに違いないと、戸を開ける前に気付けただろう。


お爺さんの前に立っていたのは、一人の赤鬼だった。


「貴様だな、儂らの島に妙な子供を寄越したのは。」

低く乾いた声で、赤鬼が言う。


「何だお前は。金なら無いぞ。もう二百年はかせいでおらんからのお。」

予想外の客ではあったが、お爺さんは一切の表情を崩さなかった。


「とぼけるな。もう一度聞こう。儂らの島に妙な子供を寄越したのは、貴様だな。」

鬼が語気を強めた。



「誰から聞いた。」

淡々とした口調で負けじとお爺さんも言い返す。


「この村の人間どもだ。口を揃えて貴様の名を挙げた。」


「何。彼らに傷をつけてはいないだろうな。」


「人間は面白いよな。血を吐くのは嫌うくせに、言葉を吐くことにはなんの躊躇いもない。血を吐いた奴はいないぜ、今のところはな。」

鬼が不敵な笑みを浮かべる。


「貴様はどちらを選ぶ。血か、言葉か。妙な子供を寄越したのは貴様だな。さあ、答えろ。」


「ああ、そうじゃ。」

鬼の目をまっすぐ見据えてお爺さんが答えた。


「何故そんなことをした。契りを忘れたか。」


「老いてはいるが、ボケてはおらんぞ。お前さんたちの力を借りようと思ってな。」


「どういうことだ。」


「お前さんの話によると、太郎は既に鬼ヶ島に着いたようじゃな。」


「海が荒れやすい季節を選んだのだが、駄目だったということか。」

ぽつんとお爺さんが独りごちた。


夏にしては冷たい風が二人の間を駆け抜けていく。



「あの子を、殺して欲しいのじゃ。」



月は雲の中にその姿を隠し、山も畑も二人の姿も、一つの大きな黒い塊の中に溶けていった。

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