第21話 嵐の夜の略奪⑦
◆◆◆
「全く、セナは無茶をするんだから。嵐のせいで酒場に客が誰もいなかったからよかったものの、あの店の店主は度肝を抜かれて泡食ってたよ」
寝台に腰を下ろしたカイルが嗜めるような声で呟いた後、可笑しそうな声で笑った。
豪雨の中、酒場に飛び込んだのは昨日の夜のことだ。
セナがカイルを抱えて突進した酒場は、幸い他に客はいなかった。逞しい身体つきの店主は突然扉を吹き飛ばして中に飛び込んできたセナに腰を抜かしたが、カイルの怪我を見ると慌てて応急処置をしてくれた。刺されるとき、カイルは咄嗟に身体を捻って剣の軌道を逸らしたらしい。おかげで内臓は傷ついていなかった。筋肉と皮膚が裂かれただけで命に別状はないと知り、セナは安堵でその場にへたり込んだ。
それから店主の許可を得て厨房を拝借し、火を起こした竈門の上にちょこんと座り込んだセナを見て、店主はまた卒倒していた。
セナの身体が乾き、カイルも動けるようになった頃には雨も止んでいたので、二人は店主にお礼を言って、また改めてお礼と扉を破壊した謝罪に来ると約束してから宿に戻った。
その途中で商人の館に寄ると、屋敷の一階は完全に焼け落ちていて、折れて煤けた柱の影からマルゴが這い出てきた。
『あいつらは逃げたが、雨のせいで追跡は断念した。すまない若造』
そう言ったマルゴは、セナを見上げると気落ちしたように肩を落として顔を伏せた。
『セナもすまなかった。お主が拐われていったのに、儂はまた居眠りなどしおって、本当にいつも肝心なところで役に立たん』
「そんなことないです。マルゴさんのおかげで助かりました。僕の気配を追ってきてくれたんですか?」
『うむ。お主の炎の気配を辿って若造を屋敷まで導いたのだ』
珍しくしゅんとしているトカゲを抱き上げて笑いかけた。
「ありがとうございました。マルゴさんがいてくれて本当によかった」
「その通り。マルゴのおかげですぐにセナの居場所がわかって助かったよ」
カイルもセナの腕の中にいるサラマンダーに頷いて、腕を伸ばすとそっと赤い鱗で覆われた背中を撫でた。ぴん、と尾を伸ばして少し緊張したマルゴはそれでも機嫌よさそうに尾を振り、カイルの撫でるままにさせていた。セナはもう一度マルゴの身体をぎゅっと抱きしめて心からお礼を言った。
それからカイルを支えて宿に戻り、朝が来るのを待って荷物をまとめて商人の館から遠く離れた別の宿に移った。そのあとすぐにカイルを医者に連れて行き、傷を縫合して化膿しないように消毒してもらった。年老いた街医者は明らかな刺し傷と思われる患部を見て驚いていたが、深く事情は聞かずに処置してくれた。ただし、五日は安静にしているように言われ、カイルは少し困っていた。
帰り道でカイルは果物をたくさん買い込んで、セナの新しい服も買い直してから宿に戻ってきた。
「カイル様が死んじゃうかもしれないって思ったら必死で、ごめんなさい。お店の扉を壊しちゃって」
破壊した扉を弁償しに、カイルはまたあの酒場に謝りに行かなければならない。借りていたカイルのシャツから買ってもらった服に着替えたセナが落ち込むと、カイルは穏やかに笑った。
「そんなのいいよ。セナのおかげで俺は助かったんだから。ありがとう、セナ。でも、昨日はセナが雨に濡れて消えてしまうと思って肝が冷えたな。無事だったから本当によかった」
宿の部屋は昨日より少し広くて、寝台とテーブルと椅子、それから荷物を入れる棚と大きな出窓があった。窓から見える街はすっかり快晴で、雲ひとつない青空の下を人々が明るい顔で歩いている。マルゴは出窓の下の日当たりが気に入ったのか、そこに寝そべってまた居眠りをしていた。
「セナ、こっちに来て」
カイルが微笑んでセナに手を伸ばしてくる。
彼は寝台の横の壁に背中を預けて、傷が痛まないように腰の後ろに毛布を丸めて挟んでいた。
椅子から立ち上がって寝台に近寄ると、そっと足を乗せてにじり寄り、カイルの隣に座った。カイルがセナの肩に片腕を回して身体を引き寄せ、横に並んだセナの頭に自分の頭をとん、ともたせてきた。
「本当によかった。セナが無事に戻ってきてくれて」
心から安堵したような声と共に深く息を吐いたカイルの腕は少し強張っていた。控えめに彼の肩に頬をつけて目を閉じる。
「僕もカイル様が助けに来てくれて、嬉しかったです」
「うん。部屋の中にセナがいなくてランプがないのも気づいたときは、心臓が止まるかと思ったよ」
「ごめんなさい、僕言いつけを守らずに鍵を開けてしまったんです」
しゅんとしたらカイルが肩に回した腕で頭を撫でてくれた。
「セナは悪くない。悪いのはセナを誘拐したアサドとあの変態商人だ」
「お兄さんは、カイル様に仕返しに来ないでしょうか」
「あれだけマルゴに脅されたから、当分は大丈夫だと思うけどね。俺ももう次からは何かされたら容赦しない」
低い声できっぱりと告げたカイルの声を聞いて安心した。
カイルの言う通り昨日のマルゴの炎で痛い目をみただろうから、これに懲りてカイルに手を出そうとするのはやめてくれるといい。それでもまだ突っかかってくるなら、カイルが何か言う前に、次はセナからガツンと言ってやる。
そう密かに決意していると、カイルが小さな声でセナに尋ねてきた。
「セナ、嫌じゃなかったら、昨日あの商人に何されたか教えてくれる?」
頭を動かしてカイルの顔を見上げると、彼は真剣な顔をして何か堪えるような表情をしていた。
昨日のことを思い出すのはまだ少し怖いし、気持ちも悪いが、カイルが悲しそうな顔をするのは見たくない。それに押し倒されて上に乗られたけど、キスはされなかった。
少し言い淀んだらカイルが気遣わしげな顔になって「やっぱり」と言いかけたので、セナは慌てて口を開いた。
「あの、たいしたことはされてなくて、その、キスを……」
されそうになっただけです、と言おうとした唇をカイルに塞がれた。
え? と思ったら肩に添えられていた腕が首の後ろに回り、大きな手に頬を包むようにしてもっと顔を引き寄せられる。カイルの顔がぼやけるくらい至近距離にあって目を見開いた。唇に触れる少しかさついた柔らかな感触がカイルの唇だとわかったら、胸の中心で心臓がどっと燃え上がった。顔に熱が集まってきて頭が沸騰しそうになる。
ちゅ、とセナの唇に吸いつくようにして口を重ねたカイルはすぐに唇を離した。
「急にごめんね。あの変態との嫌な思い出になるくらいなら、俺で上書きしてやろうと思って」
真面目な顔でセナの目を覗き込んだカイルは本当にセナを案じていた。そして翡翠色の瞳の奥には怒りの灯火が微かに見える。
自分のためにキスをしてくれたのだとわかって、顔を真っ赤にしながらも確かな喜びを感じた。初めてはカイルがいいと思っていたから、突然だったけど文句なんかない。カイルの唇は柔らかくてドキドキした。心がふわふわするみたいに嬉しい。
でも誤解は解かなくてはならないと思い、どぎまぎしながら言葉を探して、カイルの勘違いを訂正する。
「あの、違います。その……キスはされそうになったんですけど、されてないんです」
「え?」
ぽかんと口を開けたカイルが、セナをまじまじと見た。
「されてないです。危なかっただけで」
カイルの顔を見るのが恥ずかしくて視線を逸らしてそう囁いたら、彼はまた「え?」と呆然としたような声を漏らした。
しばらく沈黙した後でカイルが勢いよく頭を下げる。
「ごめん! うっ」
身体を捻って脇腹の傷が疼いたのか、カイルが呻いたので慌ててカイルの身体を支え、首を横に振った。
「あの、大丈夫です! 僕が勘違いさせてすいません」
「いや待って。本当にごめん。今のは俺が悪い。俺の早とちりでセナがあの変態にキスされたと思ったら我慢できなくて。怖かったよね、ごめんな」
カイルが珍しく顔を赤くしたり青くしたりして混乱している。さっきのキスは彼も衝動で身体が動いたのだということがわかって、少し嬉しくなった。カイルはセナがあの男にキスされたのを嫌だと思ってくれたのだ。
セナを見ながらあわあわしているカイルを見たら自然に微笑みが浮かんで、カイルの顔を見上げて口元を綻ばせた。
「カイル様、僕あの人にキスされそうになったとき、初めてはカイル様がよかったって思ったんです。だからほっとしました。ちゃんと初めてがカイル様になって嬉しいです」
セナの言葉を聞いたカイルはぴしりと固まり、信じられないものを見るような目でセナを見下ろしてくる。
じっと見つめられてセナが目を逸らさないでいると、セナの言ったことが本心だと受け止めたのか、カイルの翡翠色の瞳が大きく膨らむ。それから緑色の宝石のような綺麗な瞳が微かに揺れると、彼は花が綻ぶように笑った。
「よかった。俺はセナにあの変態達と同じことをしてしまったかと思った」
「そんなことありません。僕はカイル様のジンですから、カイル様にしてもらえることは全部嬉しいんです」
そう自信を持って答えると、カイルは微笑んだまま少しだけ眉尻を下げた。
「そうだね、セナは俺のジンだから……」
呟くように言ったカイルの声が少し気落ちしたようなトーンに聞こえて、心配になって彼の顔をじっと見上げた。彼は何か考えるような顔で黙っている。
カイルは優しくて、セナが傷ついたのではないかと気遣ってくれる。
ちゃんと初めてがカイルになって自分は喜びを感じているのに、何故か同時に少しだけ寂しさを覚えた。カイルはセナのためにキスをしてくれたのであって、彼自身が望んでしたわけじゃない。それが何故か寂しいような気がして、そう思う自分に戸惑った。
どうしてだろう。
カイルは変わらずにセナに優しいのに、それが物足りなく感じるなんて。
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