第17話 嵐の夜の略奪③

「カイル様、カイル様が精霊様に謁見したいと言ったのは州伯になりたいからですか?」


 少し沈んだ気持ちになりながら桃を手にそう聞くと、カイルは二つ目の蟠桃に視線を落として皮を剥きながら軽く首を捻った。


「父から必ず謁見してこいって言われていたからね。今まで上位精霊を目にしたことがなかったし、見てみたかったっていうのもある。でも、実はそんなに大それた野望なんてないんだ。アサドの方は自分が州伯に選ばれる気満々みたいだけどね」


 苦笑いしながら「これも食べな」と自分の分の桃も差し出してくるカイルを見て、また胸に切ないような感情が込み上げる。


「カイル様はとても立派な方です。あの人よりもずっとずっといい人です。きっと精霊様も会ったらカイル様の素晴らしさがすぐにわかります。あんな意地悪な人が国を治めたら、みんな幸せになれないでしょうから」


 力強くそう言ったら、カイルはぱちりと瞬きしてふわと目元を緩めた。


「ありがとう。俺はセナに出会えて本当に幸運だな」


 優しく微笑んでくれるカイルを見つめながら、改めて彼を遅れることなく州城に送り届けようと心に誓った。今まで辛いことがあった分、カイルには幸せになってほしい。

 心の中にはそれとは別にまだ何かが燻っているような気もするが、それはきっと、カイルと離れる寂しさと切なさだろう。


『相変わらず、人間には儂にはわからぬしがらみがあるのお』


 マルゴがそう呟いて、桃とパンをお腹いっぱい食べて満足したトカゲはまた背嚢の中に潜り込んで寝てしまった。

 カイルは旅の間にこびりついた砂と埃を落としたいと言って、宿にあったお風呂という場所に行った。興味はあったが、お風呂というのが暖かい水に浸かるものだと聞いて断念した。炎に炙られるのはいいが、炙った水に浸かるのは嫌だ。

 カイルはセナのランプをどうしようか迷ってから、それをセナに預けた。風呂場で盗まれるのが怖いから、と部屋を出るときに渡されたので、少し心細かったがランプを両手で抱えて部屋で待つことにした。


 窓の外には雨が降っていて、ザアザアという音が部屋の中にも響いてくる。ガラスの張られた小さな窓に顔を近づけると、打ち付けられた雨の水滴がガラスの外側にたくさんついていた。ガラス一枚挟んでいるだけで、本能的な恐怖が和らぐから不思議だ。水が落ちずに丸くなってたくさんガラスに張り付いているのは見ていて面白い。

 しばらく雨が降るのをじっと観察していたら、どれくらい時間が経ったのか、トントンと扉を叩く音で我に返った。


「はい」


 カイルが帰ってきたのだ。

 慌てて扉に近寄って内鍵を開けてから、そういえばカイルには声をかけられるまでは鍵を開けてはいけないと言われていたことを思い出した。

 その瞬間バン、と扉が乱暴に開いたと思ったら、目の前が突然真っ暗になった。



 ◆◆◆



 目が覚めると、聞き覚えのある声がした。


「おい、それは本当にジンなのか? 襲っても全く応戦せずにすぐに目を回したが」


 記憶にある不快な気持ちと繋がる声だから、それがカイルを侮辱したアサドの声だとすぐにわかった。

 はっと目を開き、横たえられていた長椅子に起き上がる。周りを見回すと、広い部屋は天井の照明が煌々と灯っていて明るい。綺麗な艶のあるテーブルが長椅子の前にあり、壁際には壺や彫刻などの装飾品がたくさん並んでいた。

 向かいの長椅子にアサドが踏ん反り返って座っている。セナが上体を起こすと眉を上げた。昼間にいた護衛の者達も彼の後ろにずらりと並んでいる。


「起きたな。おい、お前は本当にジンなのか? 何か魔法を使ってみせろ」


 アサドが不機嫌そうに話しかけてくるが、それには答えずに周りをキョロキョロ見回して出口を探した。

 部屋の扉はアサドの後ろにしかない。大きな窓はあるが、外は嵐のような雨が吹き荒れていて、その中に飛び出していくのは躊躇われた。ここに運ばれるまでの間に雨に濡れたのかもしれない。服が湿っている気がするし、少し気分が悪かった。


「おい、聞いてるのか。お前はジンなのかと言ってるんだ」

「ジンですよ。私はこの目で彼が空を飛んでいるのを見ましたから」


 その粘りつくような声を聞いた瞬間、背筋がぞくりとした。

 アサドの護衛達の後ろから、砂漠のオアシスで会ったあの商人が歩いてくる。手にはセナのランプを持っていた。布でそのランプを拭きながら、彼はため息を吐く。


「ランプや壺があったら一緒に持ってくるようにと言いましたが、コップまで持ってこいとは頼んでいませんでしたよ。でも、どうやらこれが彼のランプで間違いないようですね」


 セナが目を見開いてランプを凝視しているのを見て、商人がにやりと笑った。


「あんたがそう言うから部屋の中の荷物を確認するのに手間取ったんだ。もしかしたら宿の奴らに不審に思われたかもしれない。そのうちカイルが取り返しに来るかもしれないぞ」

「私の商会がどこにあるのか、彼は知らないでしょう。明日には他の場所に移りますから問題ないですよ」


 それを聞いて長椅子の上から飛び上がり、後ろの壁まで下がった。天井ギリギリまで浮かんで商人から距離を取る。

 状況から察するに、宿の部屋からランプと一緒に連れ去られてしまったらしい。

 カイルと引き離されてしまった。どうしよう。

 どうやってランプを取り戻してあの宿に戻ったらいいんだろう。混乱と焦りで部屋の中を何度も見回した。


「本当に飛んだな。じゃあジンだというのは確かなのか。それにしては弱かったが」


 セナが浮かんでいるのを見て、アサドは意外そうな声を出した。

 警戒して天井から離れないセナを見上げた商人が、長椅子の前で満足そうに頷く。


「そうでしょう。彼は間違いなくジンなのです。弱いというのは不思議ですが、きっと彼はまだ子供なんですよ。魔法が使えないからといって、何の問題もありません。これほど可愛いんですから」


 商人の視線がこちらを向き、身を固くした。セナを見つめる目は仄暗く、熱に浮かされたような表情からは纏わりつくような陰湿さを感じる。

 浅く息を吸い、小さな声でアサドに呼びかけた。


「僕はカイル様のジンです。ランプを返してください」

「嫌だね。大事なものなら盗られる方が悪い」


 あっけらかんと開き直るアサドに眉を寄せると、セナを見上げながら彼は嘲笑を浮かべた。


「それにあいつが人の羨むような珍しいものを持っているなんて、気に食わないだろう。お前のことは気に入っている様子だったから、今頃なくなったと気づいて泡食ってるんじゃないか? 落ち込んでいたら面白いな。明日顔を見に行ってやろう」

「……最低」


 そんなことを人間に言う日が来るなんて思わなかったが、口から冷たい声が漏れた。

 セナの声を聞いて、アサドはおかしそうに笑う。


「最低なのはカイルの母親だろう。俺の母から父を寝とった阿婆擦れの女。俺から父を盗んだ卑しい女の子供。あいつを弟だと思ったことなど一度もない」


 冷たく吐き捨てたアサドを見て少しだけ気圧された。それでも言われたことは到底納得できない。

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