第9話 取り残された火蜥蜴⑤


「あの、カイル様、僕がカイル様を運びますよ!」

「……セナが?」


 道の上でぱちくりと瞬きしたカイルはまじまじとセナを見下ろす。

 きょとんとしているカイルの顔を真っ直ぐに見つめて頷いた。


「僕が、カイル様を持ち上げて運べばいいんです。飛んでいってお連れします!」


 我ながら名案だと思った。

 真面目な顔で告げたのに、セナの決意を聞いたカイルは楽しそうに笑い出した。


「本当に? セナが俺を抱えて?」

「はい! きっとできます!」

「それじゃあ……試してみようか」


 口元をふよふよさせながら、カイルはセナを連れて路地裏に入り人気がないところで両手を広げた。


「よろしく、セナ」

「はい!」


 勇んでカイルの胴に飛びつき、その厚みのある身体にぎゅっと腕を回した。そのまま風に乗ってふわりと浮かびあがろうとしたが、なぜか上手くいかない。

 カイルは予想以上に重かった。荷物の麻袋はまだ地面に置いてあるのに、セナの両足が浮くだけでカイルは地面に立ったままだ。


「あれ? おかしいな」


 きっとできると思っていたのに。

 イメージ通りにならなくて首を傾げた。それでももっと高く上に浮かべば、両腕で抱えているカイルの身体は一緒に浮くはずだ。そう思ってくっと心臓に力を入れると、確かにカイルはふわりと浮いた。

 普段の彼の膝下の高さまで。


「わぁ、すごいな、セナ」


 カイルは予想外だったのか驚きの声を上げて笑顔になったが、彼の身体を支えている両腕がぷるぷるいっていてセナには答える余力がなかった。

 おかしいな。全然持ち上がらない。

 顔を真っ赤にして力を入れるが、カイルの身体はそれ以上浮かなかった。すぐに腕が痺れてきて、辛くなってくる。


「セナ、一度下ろしてごらん」


 セナの顔を見たカイルに優しい声でそう言われて、大人しく彼を地面に下ろした。胴に回した腕を緩めた途端どっと疲労が押し寄せてくる。


「こんなはずじゃ……。ごめんなさい。僕に魔法が使えれば、カイル様を浮かせて一緒に飛べるのに」


 はあはあ言っているセナの頭に手を伸ばして、カイルはゆっくり髪を撫でてくれた。


「このままじゃ砂漠を越えられません。どうしよう。僕役立たずです」


 ジンなのに、カイルが困っているときに助けてあげることができない。

 落ち込んで顔を俯けると、セナの頭を撫でていたカイルの手がセナの頬に滑った。そっと顔を上に向けられる。

 見上げると、翡翠色の瞳に柔らかな光を宿したカイルが優しい顔でセナを見下ろしていた。


「セナ、役立たずだなんて言わないで。俺はセナが隣にいてくれるだけで嬉しいよ。それにセナは俺を炎から守ってくれて、サラマンダーを説得して鍛冶場の事件を解決してくれたじゃないか。しかもお金までもらえたんだから、もうこの上ないくらい俺の手助けをしてくれてる。セナは本当にすごいよ」

「……カイル様」

「俺はセナに出会えてよかった。セナは俺の幸運だよ」


 優しくセナを見つめるカイルの穏やかな表情を見たら、胸の奥がじんとした。


「笑って。俺はセナの笑顔が好きだから」


 頬を撫でながら微笑んでくれる彼を見上げて、ぽかぽかと暖かい気持ちになった。気恥ずかしかったが小さく微笑むと、カイルはセナの笑顔を見て満足げに目を細める。

 それから彼は、通りの先に視線を動かして何か思いついた顔をした。


「そうだ。セナ、おいで。サラマンダーの件で頑張ってくれたご褒美を買おう」


 そう言ったカイルに連れて行かれたのは、最初に買い物をした市場だった。

 セナの手を引いてカイルは真っ直ぐに一つの露店に向かい、果物がいっぱい並んだ籠からセナの拳くらいの小さな赤い実と、つるりとした皮の硬そうな大きな黄色の実をそれぞれ二つずつ買った。前にセナがじっと見ていた果物だ。

 それを持って噴水のある広場に行き、空いている石の椅子に二人で腰掛けた。

 カイルが肩にかけた鞄の中から、柄に綺麗な装飾が施された短剣を取り出す。澄んだ剣身に果汁がつくことを厭わずに、彼はそれで黄色の大きな果物をざくりと半分に割いた。真ん中の小さな種がたくさんある部分をくり抜いて、さらに食べやすく三等分にしたそれをセナに渡してくれる。


「これはシャマームっていう果物でね、甘くてみずみずしくて美味しいよ。実の部分を食べるんだ。こうやって」


 そう言ってカイルは硬い皮の部分を下にして持ち、果汁が滲んでいる白っぽい実をがぶっと食べて見せてくれた。

 カイルがシャマームを咀嚼するのを目を丸くして見つめ、自分の手の中にある実をじっと眺める。


 美味しそう。


 人間界のものは、あまり食べてはいけないと言われている。しかし以前人間界で果物を食べたと話していた仲間の話によると、人間の食べ物は格別に美味しいらしいのだ。ジンにも味覚はあるが食事を必要としないから、魔神の世界に人間の食べ物はないし、そもそも育てられない。

 本の中でしか見たことがなかった甘くて美味しい食べ物が、今手の中にある。

 ドキドキしながら手に持った果物を見つめた。


 少しくらいなら、大丈夫だよね。


 食べたと話していた仲間がいたくらいだから、死ぬようなことはない。せっかくカイルがセナに買ってくれた果物なんだから、ぜひとも味わってみたい。

 恐る恐る口を開けて、控えめに白い実の端っこを齧ってみた。

 その瞬間口の中に甘い果汁がじゅわっと広がる。すぐに溶けるように小さくなってしまった果肉を飲み込むと、爽やかな香りが鼻腔を通り、少し酸味のある甘味が舌の上に残った。


「美味しい……!」


 初めて食べた果物の甘さに目を輝かせる。

 セナを注意深く見ていたカイルが表情を緩めた。


「よかった。たくさん食べなよ。人間界は初めてなのにセナは初日から頑張ったからご褒美ね」

「ありがとうございます!」


 すぐに二口目をぱくりと食べたセナをカイルは目を細めて眺め、食べやすいようにシャマームの実を小さく切ってくれた。

 出会ったことのない甘い味わいに夢中になってもぐもぐ食べていたら、カイルは次に小さな赤い実を手に取り、その皮を手でするすると剥き始めた。


「柔らかい実はこうやって手で剥けるんだよ。これは蟠桃。ブルチーカっていう平たい桃だよ。これも美味しいから食べてごらん。真ん中に種があるから気をつけてね」


 食べかけていたシャマームを膝の上に置いて、差し出された桃を両手で受け取った。皮を剥かれた果物は黄色がかった白い実だ。こちらも果汁が染みた実はとても美味しそうで、セナは今度は躊躇いなく両手で持った桃を一口齧った。


「これも美味しい!」


 さっきのは少し酸味も感じる甘さだったが、こちらはねっとりとした濃い甘さだけが口の中に染みる。真ん中の種は赤くて少し大きいが、周りの実は柔らかくて格別に美味しかった。すぐに口の周りと手が果汁でベタベタになってしまったが、気にせず蟠桃を頬張った。

 口を綻ばせながらもぐもぐと咀嚼していたら、カイルがもう一つの桃の皮も剥いて差し出してくる。


「カイル様の分ですよ?」

「ううん、いいんだ。そんなに美味しそうに食べてくれるなら、俺はセナにいっぱい食べてほしい」


 彼はそう言って桃をセナに手渡すと「俺はこっちを食べるから」とまだ手付かずだった黄色の実を剣で二つに割った。

 いいのかな、と思ったが、この赤い実はとても美味しい。

 カイルがセナに頷いてシャマームを食べ始めたので、手の中の桃に思い切って口をつけた。


「美味しいです! ありがとうございます」


 口の中に広がる桃の甘味に幸せな気持ちになって、もうひとつの蟠桃までぺろりと平らげた。


「セナは果物が気に入ったんだね。これから色んなものを試してみよう」

「はい!」


 嬉しくなって反射的に頷いたが、人間の食べ物をあまり食べてはいけないという通説が頭をよぎった。しかしそれをカイルに言うと、もう食べさせてもらえないかもしれない。

 少し考えた結果、それは秘密にすることにした。


 少しくらいなら大丈夫。

 色んな食べ物を味見してみるだけだから。


 そう自分に言い訳して、カイルが差し出してくれたシャマームにぱくっと齧り付いた。

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