魔法のランプと恋のレガート

遠間千早

第1話 旅の若者とランプの魔神①

第一章 旅の若者とランプの魔神



 目の前に広がる薄暗い灰色の海。

 砂利の多い浜辺に立ってこちらを見ている青年を見つけたとき、とうとうこのときが来たと思った。


 灰色のシャツに茶色のズボンを履いた青年の手には、小さくて古びた金色のランプが握られている。

 曇った空の下でも金色に輝く柔らかそうな髪と翡翠のような新緑の瞳を見開いている彼は、形のいい眉を上げてまだ若々しい顔を驚きで染めていた。多分、セナが突然現れたからだろう。こっちの姿を上から下まで見下ろして、青年は一度瞬きすると感嘆の声を漏らした。


「本当に現れるとは思わなかったな……」


 耳に心地いい柔らかなテノールを聞いて、少しほっとした。怖そうな人ではない。セナがどろんと現れた瞬間は身構えて鋭い目をしていたが、小柄なセナの顔を見た途端、その険しい雰囲気はすぐに消え去った。

 青年の凛々しい目がまじまじとセナを見つめる。


「あの……」


 じっと見つめてくる金髪の青年を恐る恐る見上げた。二人とも浜の上に立っているから、彼の方がだいぶ背が高い。こちらをじっと観察するように眺めていた彼は、セナが小さな声で話しかけるとぱちぱちと瞬きして、すぐに柔らかな微笑みを浮かべた。


「君は本当に魔神なの? それとも妖精か天使?」


 人好きのする柔和な顔でそう聞かれて、今度はこちらが瞬きした。

 天使……?


「僕は火のジンです」


 はっきりそう答えると、彼は翡翠色の目を見張り、再びセナの頭の先から足の下までを見下ろしてくる。

 綺麗な人だな、と思った。

 笑顔も優しいし、怖い人ではなさそう。初めて会った人間がいい人そうでよかった。

 内心で安堵の息を漏らし、彼の持っているランプを見た。


「あの、あなたが拾ってくださったんですか?」


 長い間眠っていた気がするから、まだ状況がよくわかっていない。周りを見回すと、セナ達が立っているのは波が打ち寄せる静かな浜辺で、海の反対側は岩が積み重なってできたような傾斜の緩い岩壁がある。少し先に見えるせりたった崖の下は岩礁で、ぶつかる波が飛沫を上げていた。浜には自分と青年以外に人影はない。少し天気も悪いから、波が荒いのか海の上には船も見えなかった。

 人間界だということははっきりとわかる。

 魔神の世界とは明らかに様子が違う。足元に雲がないし、空に浮かんでいるはずのヴィアータの炎から照りつくように降り注ぐ光芒もない。つまりここは魔神の世界ではない。ランプに入ったまま戻ったわけではないようだった。

 すぐそこに打ち寄せている水は海だということは知っている。人間の世界には、水が満ちた海という巨大な池があるのだ。初めて目にする海と、そこから湿った風が吹きつけてくるのが少し怖かった。

 周りを見回して戸惑っていると、金髪の青年から明るい声が聞こえる。


「そうだよ。俺が拾った。まさか落ちてる網に引っかかっていたランプから本当にジンが現れるなんて思いもしなかったけど。それもこんなに可愛い子が」

「かわ……? あの、えっと」


 可愛い、と言われてまた不安になった。

 にこにこと微笑んでいる彼を恐る恐る見上げて、その表情をうかがう。


「あの、ごめんなさい。普通のジンならもっと強そうで、立派な身体つきの大男のはずなのに、現れたのが僕で」


 怒られてしまうかもしれない、と身を縮めた。

 普通、ジンというのはもっと逞しくて、巨漢の大男だ。魔神の世界にいた仲間も、同じ生命の湖から生まれた兄弟たちも、皆ジンらしい立派な体躯をしている。女のジンは妖艶な美女だが、それでもセナよりもずっと大きくて存在感がある。

 なのにセナは生まれたときから小さかった。多分、生まれたときにジンとしての命に何か欠陥があったのかもしれない。髪と目はジンらしい黒色なのに、見た目は若い少年のような姿から成長せず、心臓を流れる魔力も中途半端だった。ジンらしいことはほとんどできない。

 仲間からは生まれて以来この見た目を散々揶揄われて、セナは出来損ないのジンなのだと馬鹿にされてきた。

 自分が何もできないジンだとわかったら、ランプを拾った彼はきっとがっかりするだろう。

 おどおどと視線を彷徨わせると、彼は一歩近づいてきた。


「君は、魔神なんだよね?」

「はい」

「精霊とは違って気が向いたら人間を助けてくれるっていう、流れ星みたいな神様?」

「えっと、多分、そうです」


 流れ星というのが何なのかわからないが、大抵のジンは気ままな性質なので頷いた。

 青年は手に持ったランプを持ち上げる。


「でも、ランプや壺に宿ったジンはその道具の持ち主の願いを叶えてくれるって聞いたことがあるけど、そうなの?」

「そうです」


 一般的に人間界ではそう認識されていることは知っている。

 人間界に遊びに行くジンは、多くがランプや壺に入って自らに魔法をかける。拾った人間の願いを叶えたら魔神の世界に戻るという魔法をかけておいて、人間界に短期滞在するのだ。遊びの一環として。


「あの、でも僕は力も弱いし、ジンらしくないし、見た目もこんなんで」


 拾った人間の願いを叶えるのが魔神だと思われていたら申し訳ない。自分には何もできない。

 そう訂正しようとして口を開きかけたら、目の前の青年は破顔して首を傾げた。


「可愛いし、身軽そうでいいじゃないか。こんなに可愛い子がジンなわけがないと思って驚いたけど、俺は出てきてくれたのが君で嬉しい」


 そう言われて驚いた。ぱちりと瞬きして彼を見つめると、金髪の青年は優しい声で尋ねてくる。

 

「君の名前はなんていうの?」

「セナです」


 人間に自分の名前を名乗るのはまずいことだったが、気がついたら口からするりと出ていた。


「セナ。本当の名前?」

「はい」

「ジンって簡単に名前を教えないんじゃなかったっけ。大丈夫?」


 彼はジンの名前のことを知っていたらしい。

 素直に頷いたら驚かれた。


「えっと、本当はもう少し違うので、いいんです」


 本名はもっと長くて、セナドラウスという一見強そうな名前だ。でも仲間からそんな名前で呼ばれたことは一度もないし、いつもただのセナと呼ばれていた。

 一部でも教えてしまうのはよくないかもしれないけど、まぁいいかと思った。

 目の前の彼は、セナが何もできないジンだとわかったらすぐにランプを捨てるかもしれない。そしたらセナの名前なんてきっとすぐに忘れてしまうだろう。

 この人はセナの見た目を気にしないでくれた。嬉しかったから、名前の一部を教えてしまうことくらい大した問題ではない。それにずっとセナと呼ばれてきたから、新しく名前を考えるよりもその方が身体に馴染んでいる。

 自分を見つめる翡翠色の瞳に頷くと、彼は目元を緩めた。


「セナ。俺はカイル。よろしくね」

「カイル様……。えっと、ご主人様とお呼びした方がいいですか?」


 そう聞くと、少し考えた彼は首を横に振った。


「カイルでいいよ。俺は君を自分の召使いにしたいわけじゃないし」


 きっぱりとそう言われてきょとんとした。

 召使いのように扱いたくないと言ってくれているんだろうか?

 てっきり魔神を呼び出す人は、ジンのことを願いを叶えてくれる便利な道具だと捉えているのかと思ったが、どうやらカイルは違うらしい。

 初めて呼び出されて緊張していたが、カイルが意地悪そうな人間ではないとわかりほっとした。


「では、カイル様とお呼びしていいですか?」

「カイルでいいけど」

「そ、それは、ちょっと緊張してしまうので……」


 いきなり人間を呼び捨てで呼ぶなんて気後れする。どもりながら言うと、カイルはセナのおどおどした顔を見てくすりと笑った。

 彼は穏やかな顔で「いいよ」と答えて、手に持ったランプを肩にかけた皮の鞄にしまう。それを見てぱちりと瞬きする。

 鞄に入れてくれた。

 本当に一緒に連れていってくれるのかな。

 カイルと名乗った青年を見ながら少し慌てる。


「セナを拾って、俺は幸運だな。なんだかこの先の旅も上手く行きそうな気がするよ」


 明るく頷く彼の言葉を聞いて、本格的に狼狽えた。

 どうしよう。

 カイルはセナを拾ったことを幸運だと言っている。彼の願いが何かは知らないが、まだセナのことを見た目が子供みたいな普通のジンだと思っているなら、誤解だと言わなければならない。

 セナは魔法を使えない。

 不思議な魔法で奇跡を起こすジンの力を期待されても、応えることができない。


「あの……カイル様」


 恐る恐る小さな声で話しかけると、カイルは「何?」と優しく答えた。


「あの……僕、ジンとしての力はほとんどないんです。ごめんなさい。連れて行ってくださっても、きっと役立たずです」

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