第2話

 新入社員の研修を終えた六月の下旬。

 梅雨入りした夕方の空は、小雨だった。

 定時から少し過ぎた頃、麗華は今日の分の仕事を終えると、パソコンの電源を切る。

 パソコンが完全に消えるまで、机に広げていた書類を片付けていると、「和泉〜」と向かいの席から声を掛けられる。


「今日はこれ行ける?」


 ジョッキを傾けるようなジェスチャーと共に声を掛けてきたのは、麗華の先輩である高森たかもりであった。

 学生時代は陸上をやっていた事もあり、高森はとても均整のとれた身体つきをしていた。

 今も、社会人によるスポーツチームに所属をしているという事もあって、無駄な脂肪がないほっそりとした身体を維持していた。


「すみません。この後、用事があって……」

「え〜。また今日も~? 最近、忙しいよね? 何かあるの?」


 高森は面倒見の良い先輩であり、麗華が入社したての頃から仕事終わりにはよく飲みに誘ってくれた。

 仕事で失敗した日には、必ずと言っていい程に高森が飲みに誘ってくれて、よく仕事の愚痴を聞いてもらったものだった。


「忙しい訳ではないんですが、今日は用事があって……」

「な〜んだ。彼氏でも出来たのかと思った」

「彼氏なんていませんよ!」

「本当に~?」

「本当です!」


 高森は体育会系なのか、何ともないかのようによく彼氏の話を振ってくる。昨今ではハラスメントの問題になりそうな気もするが、高森は気にしないらしい。


「そっか。じゃあ、私は新人ちゃんたちを誘って飲みに行くから。次は和泉も来てよね!」

「はい」


 麗華が頷くと、高森は満足そうな笑みを浮かべた。そして、今年から配属になった新入社員達を誘いに席を立ったのだった。


(いいな。高森さんはああやって、誰とでも打ち解けられて)


 帰り支度をしていた新入社員と談笑する高森の後ろ姿を見ながら、麗華は眩しく思う。

 高森のように、美人でほっそりと痩せているなら、自分も自信を持てるだろうか。

 麗華は自分の身体を見下ろす。服の上からお腹に触れながら考える。


(少しは体重が落ちたけど、まだまだ高森さんには程遠いよね……)


 社会人になって、一人暮らしを始めた。

 実家暮らしをしていた時とは違い、自宅に帰っても夕食は用意されていないので材料を買ってきて自分で作るか、弁当や惣菜などを買ってくるかになるが、それも仕事で多忙を極めるようになると、買ってくる事はおろか、疲れて面倒になって食べる気にもならず、自宅に帰ると速攻で寝る様な生活を繰り返していた。

 そんな生活を繰り返している間に、一番太っていた学生の頃から体重は減っていったが、今度は不健康な生活を繰り返した事で別の問題が生じてしまったのだった。


(体重は減っても、今度は肌に問題が起きちゃうし……。もう若くないんだね……)


 学生の頃は、肌の手入れを怠っても何ともなかったのに。

 電源が切れた真っ暗なパソコンの画面に麗華の顔が映っていた。化粧で誤魔化す事でなんとか見栄えは良くしているが、ここ最近の麗華の肌は荒れていた。


(ここ最近良くなったと思ったのに……。また元に戻っちゃった)


 六月に入ってから仕事が重なった事もあり、つい先週までは遅くまで残業をしていた。それもあって、自宅に帰って夕食を食べるのも日付けが変わる直前であった。

 それまでの度重なる不摂生も重なって、また肌が荒れてしまったのだった。


(ようやく仕事も落ちついたし。しばらくはこの時間に帰れるだろうし)


 麗華が真っ暗になったパソコンの画面を見つめたまま、小さくため息をついていると、コツコツと靴音と共に誰かが近づいてきた。


「先輩? どうしましたか? またパソコンの調子でも?」


 麗華が振り向くと、そこには髪型をアップバンクのショートヘアにした男性社員が居たのだった。


桂木かつらぎさん」


 麗華の一年後輩に当たる桂木だが、年齢は麗華と同い年であった。

 元々はIT系の会社に勤めていたらしいが、度重なる上司からのパワーハラスメントとブラックな労働環境に身体を壊して、昨年から麗華と同じ会社で働いていた。


「ううん。今日は大丈夫です」


 IT系で働いていた事もあって、桂木はパソコンにとても詳しかった。

 パソコンが苦手な麗華は、パソコンが動かなくなる度に、こっそり桂木に聞いていたのだった。


「そうですか? それならいいんですか……」


 今日は湿気が多く、気温が高いからか、桂木はジャケットを脱いでいた。

 第一ボタンが開けられた白色のシャツと、適度に緩められた黒色と深緑色のストライプのネクタイから、爽やかさを感じたのだった。


「先輩はもう退勤されますか?」

「はい……。桂木さんは?」

「俺はまだ仕事が残っているので……」


 そう言って、桂木は目を逸らした。桂木が入社してしばらくしてから麗華は気づいたが、桂木はパソコンは得意だが、意外にも書類仕事は苦手らしい。

 今も明日の会議に備えて、会議資料の印刷や用意に奮闘していた。


「よければ、お手伝いしましょうか?」

「いいえ。この前も俺の仕事を手伝ってもらったせいで帰りが遅くなってしまったばかりですし……。あと少しで終わるので、先輩は先に退勤して下さい」


 麗華が桂木にパソコンを見てもらっているように、桂木も麗華に書類仕事を手伝ってもらっていた。

 それを桂木は気にしているのだろう。


「そうですか? それならいいんですが……。もし、時間が掛かりそうなら遠慮なく声をかけて下さい」

「ありがとうございます。先輩」


 同い年の桂木に「先輩」と呼ばれて、麗華はこそばゆい気持ちになる。

 麗華は「先輩」と呼ばなくていいと言っているのだが、桂木を指導した高森の影響なのか、桂木は麗華達を「先輩」と呼び続けていたのだった。


「それでは、お先に失礼します」


 麗華は荷物をまとめると立ち上がる。


「お疲れ様でした。先輩」

「お疲れ様でした」


 桂木は一礼すると、自分の席に戻って行った。桂木は麗華の右斜め後ろの席なので、ここからでも桂木の様子が見れた。

 桂木は席に戻ると、すぐに印刷した会議資料をステープラーで留め始めた。

 麗華は小さく微笑むと、部屋を後にしたのだった。

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