二人の伴侶とさゆらぐ蛍流の結ぼれ心

第30話

 海音の足音が遠ざかると、ようやく蛍流は肩の力を抜く。生まれてこの方、女性と関係を持ったことが無いからか、どうしても海音に対する扱い方が分からない。

 初めて会った時から真綿のように軽やかで、雪のようにいつ消えてしまってもおかしくない儚い存在。掴んでいないと本当にいなくなってしまいそうで、つい目が離せなくなる。

 昨日も涙痕が気になって様子を見にいったところ、どこにも姿が見えなくて正直かなり焦った。シロが教えてくれたから良かったものの、下山されていたら追いかけられなかった。

 青龍の半身である自分はこの山から出られない。自分がここから消えてしまったら、この土地を中心として国中に張り巡らされている水の龍脈が乱れ、各地で大雨や洪水といった水害が発生してしまう。蛍流個人の感情で青龍としての務めを蔑ろにして、この世界に生きる全ての人たちの生活を脅かして良いはずがない。多ではなく個を優先したら、七龍の意志に逆らった罪で自分を選んだ青龍――清水に罰せられてしまう。

 青龍に選ばれた蛍流と違って、海音は世界を自由に飛翔する翼を持っている。ここから羽ばたきたいという海音を止める権利は無いのだが、心のどこかではここに残って欲しいとさえ思ってしまう。海音にどこか懐かしさを感じているからだろうか。

 不思議と海音とは初めて会った気がしなかった。特に海音が泣いている姿には心当たりさえあった。まるで過去にも一度見ているような、胸がつかえるような感覚。すっかり忘れてしまった記憶の彼方で会っているのか、それとも海音を過去の自分と重ねているだけなのか。

 いずれにしてもこのまま放っておくことは出来ないが、それでも伴侶じゃない海音をずっとここに置いておくわけにはいかない。そんなことをしたら、海音は青龍の神気に当てられて正気を失い、やがて耐え切れなくなった身体が砕けてしまう。

 青龍の形代である人間と共にいられるのは、青龍に選ばれた伴侶と二人の血を引く子供だけ。それ以外の者は、青龍の神気に当てられて精神が狂ってしまう。

 神気は七龍たちに近ければ近い程、力の波動が強い。そのため、七龍の世話役として女中や使用人を雇ったとしても、短期間で入れ替えをしなければならない。七龍が選んだ伴侶以外の者と関係を持った場合でも、七龍の神気に絶えられなくなって相手の肉体が霧散するとさえ言われている。

 使用人として海音を屋敷に留めておくにしても、ここに居られる期間はそう長くない。伴侶じゃない以上、本当なら海音は今すぐにでも解放しなければならないが、そう思っていてもどうしても伝えられなかった。

 今の海音に必要なものは、安心できる居場所とこの世界での自分の存在価値。そのどちらも無いこの山の外に放り出すことなど出来るはずがない。

 そんなことをしたら海音はますます心身ともに追い詰められてしまう。今でさえ、無理して笑っている時が多いというのに……。

 近くにあった瑠璃色の玉簪を手に取りながら、つらつらと海音のことを考えていると、覗き込んできた雲嵐に笑われてしまう。


「そんなに哀愁を漂わせなくたっていいんじゃない。嫁御ちゃんとの今生の別れってわけじゃ無いんだから」

「雲嵐殿、彼女は伴侶では……」

「分かってるよ。身代わりでしょ、和華って子の」


 今回海音の荷物を依頼した際に、雲嵐には全ての事情を話していた。そもそも青龍の伴侶が和華という名の娘であることを教えてくれたのも、この雲嵐だった。

 雲嵐という男は行商人であると同時に、自分たちが守護する場所から動けない蛍流たち七龍の目や耳の代わりも果たしている。

 行商人として市政に溶け込み、七龍たちの力が隅々まで及んでいるか、自分たちが守護する土地に異変が無いか見聞きしてもらう。そして得た情報を各七龍たちに伝え、七龍はその情報を元に各自が司る七龍の神力を調整、連携を図ることになる。

 政府から派遣されてくる役人たちとは違って個人の感情が入らない分、雲嵐から得られる情報はいずれも客観的で正確。その代わり情報料は高いが、それは政府が賄ってくれるので、蛍流たち七龍には関係ない。

 そんな事情を知る雲嵐だからこそ、今回の調達ついでに依頼したというのもある。

 ここから身動きが取れない蛍流の代わりに、とあるを仕入れて売って欲しいと――。

 

「それにしても、海音ちゃんは良い子だよね。純朴そうで、優しくて。青龍さまの好みに合いそうな子で。好きでしょう? あんな感じの純粋無垢な子」

「なっ……! おれは彼女をそんな目で見たことは……一度も……無い」


 尻すぼみになった蛍流を雲嵐はほくそ笑む。蛍流がここに住み始めた時にはすでに行商人として出入りしていたこともあり、どうしてもからかわれてしまう。自分は歳を重ねて背も伸びて、声変わりもしたというのに、この雲嵐という行商人は昔から全く変わらない。どこか浮世離れして、掴みどころがない。

 役目を終えた師匠が亡くなって、一人きりになった蛍流を心配してくれるのはありがたいが、小突き回すのだけはなんとかしてくれないものかと、蛍流は常々思っている。

 

「またまた、そんなことを言って~。でもその上であえて聞くよ。青龍さま……」


 急に雲嵐が真顔になったかと思うと、細く開いた翡翠色の目で蛍流の心を見透かすように問い掛けてくる。


「本当にあの海音という娘は、伴侶じゃないんだね?」

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