第10話

「……そうして、私はこの和華ちゃんの代わりとして、二藍山にやって来ました。灰簾家が雇ってくれた日雇いの地元住民に道案内と荷運びを依頼して……」

「そうだったのか……」

 

 海音の話を聞いた蛍流の呟きが、室内を包む雨音に紛れて消える。いつの間に本降りになったのか、外からは絶えず窓に打ち付ける甚雨の音が聞こえていた。


「お願いします。どうか私を和華ちゃんの代わりとして置いて下さい。伴侶として必要なことは何でもします。私のことはどう扱っていただいでも構いません。背中に龍の痣が必要なら刺青でも何でも入れます。なので、どうかこの通り……」


 畳に指をついて深々と頭を下げる。しばらく海音はそのまま土下座をし続けていたが、やがて独り言ちた蛍流の微かな声が耳を打つ。


「お前もか……」

「えっ……」

「もういい。……頭を上げろ」


 怒りを堪えているような冷ややかな声に、おっかなびっくり身を起こす。顔を上げた瞬間、首元から水が滴り落ちているような気がしてそっと指先で触れると、先程切った首の傷から血が流れていたのだった。


「すっ、すみませんっ……!」


 藍色の目を見開いて、何か言いたげな顔をする蛍流から目を逸らして、海音は傷口を押さえると畳に垂れてしまう前に何か拭くものを探す。羞恥で頭が回っていなかったが、辺りを見渡してここまで着ていた薄青色の着物を見つけると、袖から汚れた手巾を取り出す。

 汗と泥を吸って色が変わった手巾で首筋を流れる血を拭くと、止血を兼ねて傷口に当てたのだった。


「本当にすみませんっ……! あの、傷のことは気にしないでくださいっ! お借りした着物や部屋を汚す前に自分で何とかしますからっ!」


 手巾から血が溢れないように気をつけながら、先程よりも軽く頭を下げる。

 出血の量はさほど多くなく傷も浅い。止血さえ出来れば数日で塞がるだろう。蛍流の手を煩わせるまでも無い。

 それ以前に正体を知られてしまった以上、身代わりの海音に蛍流がそこまで気を使うはずが無い。

 その証拠に蛍流はおにぎりが載っていた皿や小刀を持つと、海音に背を向けたのだった。


「今夜はもう遅い。疲れただろうから、早く休むといい。……こんな時間まで付き合わせて悪かった」

「ここに居てもいいんですか? 私は和華ちゃんじゃ無いのに……」

「お前のことは明日決める。今は何も考えなくていい。こんな時間に追い出しても、遭難して獣に喰われるか、凍死するかのどちらかだからな」


 音を立てて襖を閉めた蛍流が遠ざかると、ようやく海音は肩の力を抜けたのだった。


(切り捨てられなかったということは、話を信じてもらえたのかな……)


 あの時、確かに蛍流は「お前もか」と呟いた。もしかしたら海音のように、異なる世界から来た人のことを知っているのかもしれない。

 それでも本来嫁入りするはずだった和華ではなく、海音が来てがっかりしてしまっただろう。日没を過ぎて足元が悪くなった中、わざわざ和傘を差してまで迎えに来てくれた蛍流の様子を見る限り、きっと和華が嫁いでくるのを楽しみにしていたに違いない。


(全て明日決まる。追い出されるのも、和華ちゃんの代わりでも伴侶として認められるのかも)

 

 息を吐き出しながら窓辺に寄りかかると、寒々とした外気が身体に当たる。体温が奪われていくのを感じながら、春の雨音に耳を傾けつつ、そっと目を閉じたのだった。

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