第8話

「うっそ、ここどこ……!?」


 いつの間に観光地に迷い込んでしまったのだろうか。整然とした煉瓦造りの建物が並ぶ街の中を、教科書でしか見たことがないような古風な洋装姿の男性やバテンレースの日傘を差したお洒落な和装姿の女性たちが歩いている。ショートカットに昔ながらのワンピースを着た女性が、和装姿の男性にエスコートされながら人力車を降りていれば、暖簾が掛かった食事処らしき向かいの建物からは黒い学生服姿の青年が爪楊枝を咥えて出てくる。

 空気もどこか違っており、街角にはガス灯らしきものまで並んでいる。何もかも神社の周辺には無かったものばかりで、まるで映画の中にいるようであった。

 恐る恐る正面の大きな馬車通りに出れば、肩に天秤を担いだ商売人らしき着物姿の男性とぶつかりそうになる。


「あっぶね~な。気ぃつけな」


 男性は端的に文句を言うと、すぐに目の前を走り去っていく。誰も目を留めていないが、ここでの海音は明らかに浮いていた。先程の霞で道を見失って、どこか知らない場所に来てしまったのだろうか……。

 来た道を戻ろうにも、後ろも同じような煉瓦街が続いており、神社や石碑は跡形もなく消えていた。

 完全に迷子であった。


「そうだ! スマホ!」


 ここが観光地なら、スマートフォンの電波が届くはず。そう思って、ロングワンピースのポケットからスマートフォンを取り出したものの、画面にははっきりと「圏外」の二文字が表示されていた。


「ど、どうしよう……」


 電波が入らない場所となると、相当な田舎に来てしまったのかもしれない。スマートフォンを胸に抱いたまま、助けを求めて四辺を見渡す。


「あ、あのっ、すみません……」


 近くを歩く紳士風の男性に声を掛けるが無視される。他にも老若男女問わず数人に話しかけるが、いずれもそのまま通り過ぎてしまう。中には不審そうに睨みつけてくる者や軽蔑の眼差しを向けてくる者もいたので、やはりここでの海音は周囲とは違う異質な存在らしい。

 徐々に焦り出してくる。このまま自宅に帰れなかったらどうしよう。仕事から帰った父親もきっと心配するはず。視線を彷徨わせて右往左往していると、先程学生服の青年が出てきた食事処の暖簾が目に入る。

 

(あそこに食事処があるよね! 食事処ならきっと電話機が置いてあるはず!)


 人力車や馬車が来ないことを確認してから目の前の馬車道を横切った海音だったが、建物の影から猛スピードで走ってきた馬車に危うく轢かれそうになったのだった。


「きゃあ!」


 馬を操る御者が馬首を右に逸らしたことで、どうにか紙一重で衝突は免れたものの、腰が抜けてその場に座り込んでしまう。騒ぎを聞きつけて、辺りには野次馬が集まり出すと、海音を見ながら口々に話し始める。


「何、あの子。変な格好。西洋の流行かしら?」

「馬車道に飛び出すなんて、常識知らずだな。阿呆か……」

「よりにもよって、華族の馬車の前に飛び出すとはな。今にも官憲が来るぞ……」


 海音を責める心無い言葉の数々に、目を閉じて耳を塞ぐと身を小さくする。息を殺して時間が過ぎるのを待っていると、鈴のような可愛らしい少女の声が真上から聞こえてきたのだった。


「ちょっと、いつまでそこでそうしているつもりなの?」


 瞼を開けると、目の前には赤い鼻緒の草履があった。ゆっくりと顔を上げると、橙色の着物を纏った同い年くらいの少女が不機嫌そうに唇を尖らせながら海音を見下ろしていたのだった。


「全く……。ただでさえこれから人嫌いと噂の青龍さまに嫁入りしなければならないのに、こんなところで足止めをくらうなんて」

「あっ……」

「貴女のせいで馬車が脱輪してしまったのよ。どうしてくれるのよ! 冷酷無慈悲な青龍さまに嫁ぐだけでも憂鬱なのに、約束の時間に遅れでもしたら喰われちゃうかもしれないじゃない……」


 少女のその言葉で周囲の野次馬がまたしても口々に話し始める。「あの娘が、今代の青龍さまに選ばれた『伴侶』なのか」と。


「わ、私、あの……」

「おまけに何よ、その変な恰好。芝居小屋の役者がこんなところにいるなんて汚らわしい。早く元の場所に帰りなさい……」

「あの! ここはどこなんですか?」

「はぁ?」


 声を上げて立ち上がった海音に、少女は訝しむように黒曜石のような目を向ける。腰に流した濡羽色の長髪は少女らしさを、口元の黒子からは妖艶さを感じさせられる。少女と女性の半々の魅力を持った少女は奇妙なものを見るように、海音を頭から爪先までじっくりと凝視しては品定めしたのだった。


「どこって、ここは青龍さまが治める青の地だけど……」

「それは日本のどこですか? 具体的な県名や地名を……」

「ちょっと、何を言っているのか分からないわ。ここは七龍国に七つある土地の一つ、青の地。この国の水の龍脈を司る、青龍さまのお膝元よ」

「しちりゅうこく……? 青の地に……青龍……さま? すみません、何がなんだか分からなくて。もう少し、詳しく教えていただけませんか。ここは日本という国では無いんですか?」

「にほん? 貴女、日本から来たの!?」

「日本を知っているんですか!?」


 海音が「日本」と言った瞬間、少女以外の人たちは化け物を見たように、悲鳴を上げてその場から去ってしまう。すると騒ぎを聞きつけたのか、食事処から店主らしき男性が手桶を片手に姿を現したので、海音はこれ幸いと頼んだのだった。


「すみません。スマホが繋がらないので電話機をお借り……」

「いつまでもうちの店先にいるな! お前のせいで客が誰も来ないんだよ!」

「えっ……馬車を停めてしまったからですか? ごめんなさいっ! すぐに離れま……」

「口答えをするな! さっさと去りな!」

「きゃあ!」

 

 そういって店主が手桶に入った水を海音に目掛けて放ってくる。咄嗟のことで避けきれなかった海音は頭から水を被ってしまうが、次いで背中に固いものが当たる。後ろを振り向くと、薄汚い格好をした子供たちが遠くから石を投げてきたのだった。


「あっち行け! 早く消えろ!」

「何をするの!? こんなことをしたらダメでしょう!」

「不吉っ! 不吉っ! 消えろっ! 消えろっ!」

「いたっ!?」


 海音は子供たちを怒ったが、子供たちの「不吉」の言葉と石は絶えず飛んできた。海音を遠巻きに見ている大人もいるが、誰も助けてくれる気は無いようだった。それどころか汚いものを見るように、海音に向けて嫌悪感をあらわにしている。虐めも同然だった。

 ここがどこか知りたいものの、その前にこのまま突っ立っていたら命を脅かされると直感が告げてくる。

 海音は「逃げたぞっ!?」という鋭い声を背中に浴びながら、あてもなく駆け出したのだった。


(どうしてこうなったの……? 私が何かやったの? 馬車を停めたのがそんなに悪いことだったの……? ただここがどこか、知りたかっただけなのに……)


 海音の呼吸が荒くなる。どこかの薄汚い路地裏に逃げ込むと、自分をきつく抱き締めながらその場に座り込む。先程から身体の震えが止まらないが、頭から水を掛けられたのが原因ではないだろう。


(怖い……誰か助けて……お父さん、お母さん……)


 じわりと涙が溢れてその場ですすり泣いていると、今度は頭上から「ぎぁああ!?」という耳をつんざくような悲鳴が聞こえてきたので、海音は一瞬息が止まりかけたのだった。


「ああ、アイツだよ。さっき青龍さまの伴侶の馬車を止めたっていう噂の忌まわしき異邦人は!!」

「なんだって! じゃあうちの畑が連日の大雨で泥にまみれて農産物が駄目になったのはアイツが原因だったのか!?」

「とうちゃん、かあちゃん……怖いよ……」

「誰か官憲を呼んでおくれ! 二度とこの地に足を踏み入れるんじゃないよ! いいやっ! ここであたいが叩き斬ってさらし首にしてやるね。生かしておく価値もない不吉な存在だよ! 坊、炊事場から包丁を持ってきな。あの忌まわしい異邦人から目を離すんじゃないよ!」

「どうして……そこまで……」


 しかし海音の呟きは聞こえる者はなく、またしても海音はその場から逃げ出さなくてはならなかった。少しでも目立たないように身を小さくしながら、路地の先に見える光に向かって足を動かし、そのまま大きな道に飛び出す。

 正面を見ていなかった海音は勢いのまま誰かとぶつかって尻餅をつき、相手の「きゃあ!?」という悲鳴が辺りに響いたのだった。


「いった~い。もう気を付けなさいよ……ってあら、貴女はさっきの」

「あっ……あなたはっ……!」


 海音がぶつかったのは海音が飛び出した馬車から降りてきた少女だった。今度は何を言われてどんな目に遭うのかと、海音の顔が恐怖で歪んでしまう。早く逃げなければと思うが、転んだ時にすっかり腰が抜けてしまったようで足に力が入らない。

 尻餅をついた状態でじりじりと後ろに後退していた海音だったが、ふと少女が懐に手を入れたので反射的に両手で頭を庇ってしまう。

 衝撃に備えて歯を食いしばっていた海音だったが、何も起こらなかったのでそっと目を開けると目の前には花柄の手巾が差し出されていた。

 おそるおそる顔を上げると、そこには先程の少女が心配そうに覗き込んでいたのだった。


「驚かせちゃったわね。あれから貴女のことをずっと探していたのよ?」

「私を、ですか……?」

「ええ、心配してたのよ。貴女、一人でここに来たの? ご家族やご夫君は?」

「一人です。神社でお参りしていたら霧に巻かれて、気付いたらここに居て……。家族は仕事に行っていて、夫はいません。結婚をしていなければ、彼氏もいないので……」


 周囲がぐるぐる回っているようで何も考えられず、海音は聞かれたことを正直に答えてしまう。

 そんな海音の言葉を聞いた少女は急に目の色を変えたかと思うと、人懐っこそうな笑みを浮かべる。汗が浮かぶ海音の額を拭いてくれながら、少女が話し続ける。


「それは大変だったわね……良かったら、うちに来ない? 洋装も濡れてしまったし、着替えも必要でしょう? わたしのものを貸してあげるわ!」

「でも、そこまでお世話になるわけには……」

「いいのよ、遠慮しなくて。たまにいるの。貴女のように、日本という国からこの国に迷い込んでしまう人」

「それじゃあ、やっぱりここは日本じゃないんですか……?」

「そうよ。詳しく教えてあげるわ。 私は灰簾子爵家の和華よ。貴女は?」

暮雪くれゆき海音です。子爵家ということは貴族なんですか? 灰簾さんは……」

「和華でいいわ。灰簾家は華族の一員よ。お父様が貴族院の政治家なの。だから貴女のように、日本という異なる世界からのこの世界に来てしまった人たちのことも知っているわ」

「そうなんですね。私の他にも日本から来た人が……」

「わたしたち華族はそういった人たちを保護する役目も担っているのよ。だから安心して頂戴。何も不自由にはしないわ」

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