そして世界は全て変わる
伊東ミヤコ
第1話 日常からの脱出
もっとも、小日向くんに彼女がいてもいなくても、わたしには何の関係のないことに違いないのだけれど……それでも、日に何度かは、その事実を、なんとなく心の中で確認してしまう。
あいさつすらしたことのない小日向くんは、名前を太陽の「陽」と書いて、ハルと読む。小日向
光に透ける茶色の髪も、ビー玉みたいな綺麗な瞳も……そして、小日向くんの存在そのものが。それは、この高校に入学して、小日向くんを認識した日から、約一年間ずっと変わらない。
一年生のときは隣の隣のクラスで、廊下で時折見ることのできた小日向くんの姿に、幸せを見出していた。
だから、二年生に進級する、今日のクラス替え。仲良くなりたいだなんて、図々しいことは言いません。お願いです。ただ、同じ教室で小日向くんを見られるようにしてください ———— と、掲示板のクラス発表を見上げた。
「…………」
何度も確認したあと、小さくため息をつく。一組と四組。教室ひとつ分、さらに離れちゃった。二年から三年は持ち上がりだから、クラス替えはこれが最後。現実なんて、こんなもの。ドラマみたいなこと、起こりっこないんだ。
でも、本当は少しだけ、期待していたんだ。どこかで見ているかもしれない神様が、こんなわたしにも、ひとつくらいはプレゼントを用意してくれていたんじゃないかって。
ざわついた新しい教室を見回してみると、同じクラスだった子は何人かいるけれど、なんとなく取っつきにくい子たち。自分の席について、読みかけの本を取り出した。
結局、三年間、小日向くんとは口もきけないまま、ひっそり卒業していくんだ……。そんなことを考えながら、しおりの挟んであるページを開くと。
「おはよう」
突然、声をかけてくれた、前の席の女の子。
「あ……お、おはよう」
よりによって、小日向くんの彼女の間中さんと同じクラスだなんて。しかも、出席番号まで前後だったとは、掲示を見たときには、全然気がつかなかった。
「どうしたの?」
「ううん、何でも……」
やっぱり、可愛いなと思う。小日向くんとつき合い出す前から、名前くらいは知っていた。同性ながら、透明感あふれる雰囲気に目が奪われる、
小日向くんと一緒にいられるのは、こういう女の子なんだと、嫌でも納得せざるをえない。
「ねえ」
もう一度、親しみを込めた笑顔で、間中さんがわたしの方を振り返った。
「難しそうな本、読んでるね」
「そんなことないよ」
恥ずかしくなって、本を閉じる。
「本、好きなんだ?」
「あ、うん。まあ……」
人なつっこく話しかけてくる間中さんに戸惑いながら、あいまいに返事する。
「名前、何ていうの?」
「
「皆川、何ちゃん?」
「……ハル」
なんだか気がひけて、小さな声で答えた。皆川
「ハルちゃん? どんな字書くの?」
「波と、流れる」
「わあ。なんか、いい感じだね」
「そう、かな」
昔から、名前だけは他人にほめられる機会も多かったけれど、全然よくなんかないと思う。だって、波に流されちゃうんだよ?
「わたしの彼氏も、ハルっていうの。知ってる? 小日向陽くん」
「うん、知ってる」
間中さんの言葉で、我に返る。小日向くんのことは、多分ほとんどの人が知っているから、ためらわずに答えた。
だけど、小日向くんが間中さんとつき合っているという、まぎれもない事実を改めて本人に突きつけられて、今さらながら、わたしの心臓はトクンと音を立てた。
と、そこで。
「ごめん。わたし、自己紹介もしないで」
はっとしたように、わたしに謝る間中さん。
「わたし、間中
「沙都……」
いったい、何の因果で、たいして目立ちもしないこんなわたしに間中さんが好意的なのか、わたしにはわからないけれど。
「あ。波流ちゃん、ひいちゃってる?」
「ううん! そんなことないよ」
心配そうにのぞき込んでくる間中さんに、あわてて首を振る。
「よかった」
心底ほっとしたように、間中さんは笑った。
「わたしね、波流ちゃんの雰囲気、いいなあって思ってたの。前から」
そんな、信じられないような言葉まで続ける、間中さん。
「仲良くしてね、波流ちゃん」
「……うん。わたしの方こそ」
複雑な思いを抱えながら、返事した。なじみのないクラスで、歩み寄ってくれる子がいるのは、単純にうれしい。でも、どうして、間中さん……?
「あ、陽くん」
そのときだった。教室の前を通り過ぎようとしていた小日向くんのことを、間中さんがうれしそうに呼び止めたのは。
「ああ、沙都」
ゆっくりと振り向いて、笑みを浮かべながら、小日向くんがこっちに近づいてくる。それは、わたしにとって、あまりに現実離れした光景。まるで、何かの映像を見ているみたい。
「同じクラスがよかったなあ」
気持ち、頬に赤みのさした間中さんが、背の高い小日向くんを見上げて言う。
小日向くんは、わたしの席の真横にある廊下の窓から顔を出したから、小日向くんとの距離は、間中さんよりもわたしの方が近かった。
「まだ言ってんの?」
決して、投げやりな言い方ではなく、小日向くんの口調はむしろ優しい。そんな小日向くんの声に、わたしはどう動くこともできず、ただ固まる。
想像どおりの高い身長と、バランスの取れた骨格。そして、抑揚のあまりない、心地よく落ち着いた話し方。ひとつひとつ、遠くからではわからなかったことが明らかになっていく。と、そこで。
「そうだ。陽くん、波流ちゃんだよ」
「…………!」
心の準備もなかったのに、間中さんがいきなり、小日向くんにわたしを紹介した。
「ハル……?」
小日向くんは少しだけ驚いたように、わたしの名前をゆったりと
「……うん」
思いきって、顔を上げる。
「
わたしに向けられた小日向くんの声に、時間が止まったような感覚を覚える。
「ううん。波と、流れる」
女の子みたいに綺麗だと思っていた小日向くんの瞳は、間近で見ると、どこか印象が違っていて、ひんやりとした、人を踏み込ませない何かがあるような気もした。
「へえ。負けたかも」
小日向くんが、ふっと力を抜いて、笑う。信じられない。わたし、あの小日向くんとしゃべってる。
「そんなことない。小日向くんの名前の方が、よっぽど……」
「波流ちゃん、か」
つい、初対面なのに小日向くんのことを前から知っていたような発言をしてしまったけれど、べつに気にも留めないように、小日向くんは遮った。
「波流ちゃん……は、やっぱり、ちょっと呼びにくいな。変な感じ」
「そう? せっかく、可愛い名前なのに」
間中さんが、口をとがらせる。
『波流ちゃん』———— 小日向くんの声を、頭の中で繰り返した。わたしの名前が、夢みたいな響きに変わった一瞬。
「皆川……です」
もう、十分。勝手に憧れていた小日向くんと、一度でも言葉を交わすことができた。それだけで、わたしの日常は……と、そのとき。
「よろしくね、皆川さん」
そう、わたしをのぞき込むようにして、笑った小日向くん。
……これで、終わりにしたくない。そんな図々しい期待が、わたしの中に生まれた瞬間だった。
「ただいま」
今日は始業式だから、学校は午前で終わりだし、いつも帰りに寄っている図書館も、館内整理で休み。
「……早いのね」
家に着いて、リビングに顔を出すと、ソファにもたれかかったお母さんがわたしを見て、小さなため息をつく。
「ごめんなさい」
「何が?」
「早く帰ってきちゃって」
「…………」
お母さんの表情を見て、よけいなことを言ったのを後悔した。
「嫌味のつもり?」
「違う、ごめんなさい」
いつまでたっても、わたしは上手に立ち回れない。
「謝ってばかりね、波流」
お母さんの冷笑を背中に向けて、階段を上り、自分の部屋へ急ぐ。バッグを置いて、ふと鏡に映った自分の顔を見た。
お父さんに、そっくり。だけど、わたしはお父さんじゃないから。だから、お母さんは、わたしをあんな目で見るんだ。でも、大丈夫。そんな重苦しさから逃げる
物心ついたときから、お父さんが家に帰ってくることは、めったになかった。お母さんに直接聞いたことはないけれど、さすがに今はもうわかる。お父さんは、他の女の人のところにいるんだって。
小さい頃は、お母さんに笑ってほしくて、テストで百点が取れるように勉強したり、面白い話を覚えてきたりして、頑張っていたっけ。
でも、全部裏目に出た。元気にふるまえばふるまうほど、お母さんを面倒がらせて、自然と図書館や自分の部屋にこもり、一人で本を読むことが多くなった。
だけど、お母さんは、お父さんを今でも待ち続けているんだ。毎日、三人分の完璧な夕食を用意して……と、そこで。
「間中さ……沙都?」
メールの着信を見て、驚いた。携帯のアドレスを交換はしたけれど、まさか本当にメールが来るとは思っていなかった。 しかも、明日の休み、買い物につき合ってほしいだなんて。
絵に描いたような、
強引に、わたしには呼び捨てにさせたがるのに、自分は “波流ちゃん” と呼ぶ。どうしてなのか聞いてみたら、そのうち、小日向くんを “陽”って呼ぶようになるかもしれないからって。恥ずかしそうに、そう言ってた。
素直で、可愛くて、きっと誰からも愛される、沙都。小日向くんも好きになるわけだよね。幸せそうな、沙都と小日向くん。これ以上ないっていうくらい、お似合いの二人。
だけど、それでも、小日向くんと初めて言葉を交わした今日のことを、わたしはこの先ずっと忘れることはないと思う。
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