ニュートラル

祐里

静痛


 紅子べにこが適当に選んだ大学は、お嬢様学生ばかりだった。時々喫煙所でタバコを吸っているはみ出し女学生を見ても、自分はタバコは吸わないからと、遠巻きに眺めるだけだ。

 仲良くしているつもりの女の子たちの話題は、お兄さんの高級外車でどこどこに行っただの、彼氏がヨットに乗せてくれただの、お父さんが海外出張のお土産に高価な化粧品を買ってきてくれただの。紅子は軽く微笑んでうなずいたり、「へぇ、そうなの」と小さく驚いたりはするが、黙り込むこともあり、心の内に少しずつおりが積もっていくのを感じていた。

 通っている自動車教習所の卒業検定の日は近い。アルバイトで稼いだお金を渡すから家の車のお下がりをちょうだいとねだったこともあったが、親からは渋い返事しかもらえていない。特に学費の話を出されると、引き下がらざるを得なかった。


「今日バイトないからどこか寄っていこうよ」

「あれ、バイト休みの日は彼氏と会わないの?」

「今日は彼氏がバイトだから。駅ビルのカフェとかどうかな」

「そっか、じゃあカフェ行こ」

 紅子が誘うと笑顔で乗ってくれる友達は、上下ともブランドの服だ。きっとその上品なライトベージュのブラウスだけでも二万円はするだろう。暑い日でも、しっかりした生地の膝下スカートとストッキングとパンプスをきちんと身につけている。かたや紅子の服装といえば、どこのメーカーだかもわからない、ボタンを全部開けたディープピンクのスリムなポロシャツとブルーデニムのショートパンツだ。足元はシルバーの涼し気なミュールで、肌色を多く見せている。

「勉強してるとおなかすかない?」

「おなかすくよね。いっぱい食べたくなっちゃう」

 その答えとは裏腹に、白い店内で彼女はピンクレモネードだけを注文する。紅子の注文はグラタンとカフェオレ。もう「ごめん、いっぱい食べるね」と申し訳なさそうに言うのも面倒になっているため、当たり前のように店員に注文を告げる。

「紅子ちゃん平日にバイトもしてるなんてすごいよね」

「高校生の頃からやってるから、そうでもないよ。けっこう楽しいし」

「でも、家に帰ると疲れるでしょう?」

「ああ、まあ、それは。何もしないで寝ちゃったりとかね」

 あはは、と明るく笑うと、友達は眉を下げて紅子を見る。アルバイトをしないと自由に使えるお金もないと憐憫の目で見られているのかと思うと、少々腹立たしく感じる。

 カフェには結局一時間もいなかった。彼氏ができたことのない友達には、できる話が限られる。好きな作家の話は、以前したときに黙殺された。二人の間の話題が切れてしまったのだ。駅ビルを出て、改札口で「また来週」と声をかけると、彼女はうなずいてから紅子が使うのとは違う路線のホームへ歩いていった。

 一人になった紅子の頭の中には、地元の駅前の本屋が浮かんできていた。あの本屋に寄ろう、二階の文庫本コーナーで思う存分本を眺めよう、そう決めてつり革をぎゅっと握りしめる。車窓から見える風景にはもう飽き飽きしているのに、つい見てしまう。流れていく住宅街の家々が無遠慮に目に刺さった。


 電車が自宅最寄り駅に到着し、人波に合わせながら外に出ると、紅子は本屋へ直行した。狭い入口の中、午後六時半の客たちは社会人が多い。奥まった店内の棚にぎっしりと本が詰まっている様は、まろやかな安心感を紅子にもたらす。めくられるページや軽くぶつかる棚と本から静謐せいひつな空気が、紙に染み込んでいくせいかもしれない。開け放たれた入口から時折入ってくる駅前の喧騒が、まるで西瓜にかけた塩のように静かな空間の静けさを強調している。

 紅子が行き着いた二階は、更に音が少なかった。ふと気になるタイトルの本を見つけ、手を伸ばす。すると、ブックバンドで留めた辞書や教科書がゴトッと音を立てて木の床に落ちてしまった。大きく響いた音に驚きながらも、冷静にお気に入りの――人には時代遅れとからかわれた――ダークレッドのブックバンドの端を握ろうとして屈んだところ、突然紅子の尻がむんずと掴まれた。下に向けて広げられたであろう大きな手で、力いっぱい。

 痛みを感じたが、静かな場所で声を上げることがためらわれ、紅子は黙って後ろを振り向いた。犯人と思われる背の高い男は一階への階段を降りようとしている。慌てて追いかけてみたが男の足にはかなわない。尻に残る気持ちの悪い感触が後押しする悔しい気持ちを何とか心に押し込め、紅子はレジの店員に、今遭ったばかりの出来事について淡々と話した。店員は申し訳なさそうにかたどった表情で「そうでしたか、わかりました」と言い、黙ってしまった。

 本屋を出て、多くの人が行き交う駅前ロータリーをぼんやりと目に映す。大学のお嬢様たちもこんな目に遭ったりするのだろうか、喫煙所で見るはみだし女学生はこんなときどうするのだろうか、などなど、紅子の頭の中には様々なシミュレーションが展開される。

 少しだけ涙が出てきた。痛かったのに少しだけなんだな、とドライに考えると、紅子はいつものバス停に向かった。


 後日、彼氏に電話したときに痴漢に遭ったことを話してみたところ、「そうだったんだ……大変だったね」とだけ言われた。電話ではわかるはずもないが、あのとき見た本屋の店員と同じ表情だったかもしれないと紅子は思う。

「あのさ、今のバイトやめてこっちでやればいいんだよ。そうすれば一緒の時間も増えるし、ラブホにも寄りやすいだろ」

 タバコを吸わなくてもはみ出し女学生に話しかけてみようかと、電話を切る前から考える。

「そんなの嫌。じゃあね、バイバイ」

 電話を切ったあとの皮膚に鋭く染み込んでくる沈黙を、紅子は快く受け入れた。

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ニュートラル 祐里 @yukie_miumiu

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