わたしの覚悟



「はあ? 卒業と同時に、亮太郎先輩と結婚?」


 学校内のカフェで、予想どおりの反応を示す、目の前の楓。


「何? どういうこと? だって、亮太郎先輩はそういうんじゃないって、さんっざん否定してたじゃない」


「……だよね」


 本当、返す言葉もない。


「わたし、花には好きな人でもいるのかと思ってた」


「そう、いる。でも、亮太郎が、それでもいいっていうから」


「何? それ」


 当然ながら、楓はあきれ顔。


「一応、好奇心だけで聞いちゃうけど、誰なの?」


 もう、言っちゃっていいか。


「お父さんの友達」


「え……ああ!」


 どうやら、合点が行ったようす。


「高校のとき、お父さんの友達が来るからって、やたらうれしそうだなと思ったことがあったけど、そういうことだったんだ?」


「そういうこと。まあ、無理だよね。普通に考えて」


「ていうか、妻帯者? 子持ち?」


「……ではないけど」


 いっそ、そういう状況で出会えていたらと考えたけど、すぐに打ち消した。響くんを好きになることすらできないなんて、もっと悲しい。


「そうなの? なら、可能性はなくもないんじゃない?」


「あ。ごめん、待ってて」


 めずらしく、お父さんから電話。


「はい。うん、昼休みだから、大丈夫。え……?」


 それは、ひさしぶりに、響くんがこっちに来るという連絡だった。お父さんと響くんが会う約束をしている店に、わたしも来たかったら、来ればいいという……。





「お父さん」


 夕方、待ち合わせ場所の駅の改札で、お父さんに声をかけた。


「亮太郎とは約束してなかったのか?」


「うん。亮太郎、今日は深夜までバイト」


 つらいとか気まずいとか、そんな感情は忘れて、ここに来ることには何の迷いもなかった。


「店、近いの?」


「ああ。三分くらいで着く、カンボジア料理の店」


「ふうん。おいしそう。お母さんも来たかったんじゃない? 大好きじゃん、そういう店も、響くんも」


 なんとなく、何かをごまかすように、しゃべり続けてしまう。


「璃子は、先に約束があったから」


「そういえば、職場の飲み会があるとか言ってたね」


「よろこんでたよ、響。おまえと亮太郎のこと」


「あ……うん」


 間髪を入れずに、お父さんに切り出された。


「響には世話になってきたんだから、花の口からも直接、きちんと伝えた方がいいだろうと思って」


「わたしが来ることは、響くんも知ってるの?」


 急に、不安になった。


「知ってるっていうか、花を誘っていいか聞いたら、花が来たいって言ってくれるなら、会いたいって」


「……そう」


 響くんは嘘をつかないし、社交辞令も言わない。今、わたしに会いたいと思ってくれている。ちゃんと、わたしの気持ちを尊重してくれたうえで。もう、それだけで……。


「いた。響」


 店のドアを開けてすぐ、お父さんが声を上げた。わたしの方は、響くんの姿がすぐに確認できなくて、きょろきょろと店の中を見回すと。


「花。来てくれたんだね」


 すぐ斜め前のテーブルから、響くんの声。すでに、涙が出てきそうだった。





「乾杯。おめでとう、花」


 お父さんと響くんと三人で、お酒のグラスを合わせる。なんだか、変な感じ。


 サワーに口をつけながら、響くんに見入っちゃっていたら、響くんと目が合った。響くん独特の、ひやかすような笑み。この笑い方は響くんのくせみたいなもので、いつも意味はない。やがて、響くんが最初に口を開いた。


「こんなふうに、花と酒が飲める日が来るなんてね。しかも、結婚祝い。類、よく反対しなかったね。卒業と同時に結婚なんて」


「亮太郎の気が変わったら、大変だからな。こんなのとまともにつき合えるの、亮太郎くらいだよ」


「言い寄ってくる人くらい、いくらでもいるんですけど」


「知ってるよ。だから、心配なんだろ? 変なのに引っかかりそうで」


 そんな会話を楽しそうに聞いている、響くん。わたしへのわだかまりなんて、全然感じられない。


 やっぱり、一過性の感情だと思われちゃったのかな……と、そのとき。


「あ、悪い。仕事の電話」


 携帯の着信に気づいて、お父さんが席を立ってしまった。わたしと響くんが、テーブルに残される。


「……ねえ、響くん」


「ん?」


「やけになってるとか、思ってない?」


「思ってないよ。花は、そんなバカじゃない」


 少し意地悪く、笑われたような気がする。


「花には本当に幸せになってほしいから、心からよろこんでる。いつかは面白くないみたいに言ったけど、亮太郎だったら、俺も相手に申し分ないと思うしね。ああ、この前のコンクールは惨敗だったらしいけど」


「…………!」


 響くんの耳には入らずにいることを祈っていた、その話。


「演奏は聴いてないけど、もう選曲からして、欲が見えちゃってるよね。花のラヴェルには、あまり魅力を感じない。むしろ、える」


「わかってる。自分でも、わかってるってば」


 恥ずかしすぎて、顔を上げられない。そのかわり、前回の告白の気まずさは、うやむやになった。


「賞金、結婚資金にしたかったわけじゃないよね?」


「……違う。亮太郎との結婚は、コンクールのあとに決めたの」


「そう……」


 しばらく、考えたあと。


「花」


 不意に、響くんが真面目な口調で切り出した。


「今度の結婚祝いが、俺から花への最後の大きなプレゼントになるよね。例えば、花に子どもができたとしたら、その子へのお祝いになるでしょ?」


「あ……そっか」


 まだ、想像もつかないけれど。


「だから、何でもいいよ。花への最後のプレゼント」


 わたしの目を見て、響くんがくり返す。


「考えておきなよ、花。俺にできることなら、どんなことでもいいから。留学してもいいし、東京の音大に行き直してもいい。結婚するからって、何もあきらめる必要ないよ」


「留学……?」


「悪い、待たせて」


 そこで、お父さんが席に戻ってきた。


「忙しそうだね、類」


「まあ、いつもこんな感じだよ」


『どんなことでもいい』


 その言葉が、いつまでも頭から離れない。話の流れからすると、わたしにその気があるなら、響くんが留学資金を出してもいいと思ってくれているような口ぶりだった。でも、今のわたしには……。





「じゃあ、ここで」


 今日は泊まらずに家に戻るという響くんを、お父さんとJRの改札で見送る。


「今度、璃子も連れてくるよ。今日も残念がってた」


「そうだね。ひさしぶりだから、普通に会いたかった」


「…………」


 つい、複雑な思いで響くんを見てしまうと、少し迷惑そうな表情を向けられたけれど、ふっと笑うと、以前のように、わたしの頭に軽く手を載せた。


「じゃあね、花。花とは、次は結婚式かな」


「来てね、響くん」


「もちろん」


 会えるのなら、理由なんかどうでもいい。実際に響くんに会ってしまうと、そんな気分になる。


「帰るか」


 人ごみの中に消えていく響くんの後ろ姿をぼんやりと見つめていたら、お父さんに声をかけられた。


「まあ、あれだよ。初恋は実らないってやつだよ」


「初恋ではないと思うんだけどなあ」


「あ?」


 そこで、眉を寄せる、お父さん。


「誰だ? そうか。結局、亮太郎だったのか」


 なぜか、それはそれで面白くなさそうな反応。


「違うよ。お父さんでしょ、どう考えても」


 響くんの存在をはっきりと認識できるようになる前のわたしは、お父さんが大好きだったことをよく覚えている。


「へえ」


「な、何? その顔。気持ち悪い」


 そのわたしと同じ顔で、うれしそうに恥ずかしがるのはやめてほしい。


「いや、可愛かった頃の花を思い出して。そうなんだよな、響に夢中になる前は、璃子が妬くくらい、花は俺にべったりで……」


「いいから、そういう話は」


 よけいなこと、言うんじゃなかった……!





「そっか、お父さんと響くんと」


「うん。親と飲むなんて、新鮮ではあるけど、変な感じだね。亮太郎は、そういうことしないの?」


「うちは、父さんが壊滅的に酒だめだからなあ」


 翌日は、亮太郎と居酒屋で会っていた。こっちは、純粋に楽しい。


「そういう亮太郎も、お酒弱そうだよね」


「そうなんだよね。そろそろ、やめておこうかな」


 何杯も飲んでないのに、そんなことを言っている。なんだか、可愛い。


「ねえ、花」


「ん?」


「本当に、いいの? 留学。後悔しない?」


「うん。それが、全然いいの。本当に」


 響くんにもあんなことを言われてるし、申し訳なくなってきた。


「例えば、籍だけ先に入れておいて、ピアノの勉強したいだけしたら、帰ってくるとかでもいいと思うよ。お父さんも、ああは言ってたけど、花が本気なら援助してくれるだろうし、俺もできることはする」


「……ありがとう、亮太郎」


 会うたび、わたしの心が亮太郎の優しさと温かさで満たされていく気がする。


「でもね、今はピアノへの興味が薄れちゃってるのが、正直なところなの」


 結局、響くんのためだけに弾いていたのだとは思いたくないけれど、亮太郎とのことを決めてからは、ピアノへの熱が冷めてしまったのは確か。それこそ、気がすんだということなのかもしれない。


「なら、何も言わないけど。気持ちが変わったときは、ちゃんと話して」


「わかってる」


 そして、わたしの気持ちを大切に考えてくれる亮太郎に、報いたいと思ってる。ただ、その思いと体の問題は、また別で……。





「おいしかったー。ゆっくりできたし、いい店だったね」


 外に出ると、ひんやりとした外気が気持ちよかった。


「たまには、ぜいたくもしないとね。いつも、たいした店に連れていけなくて、ごめん」


「亮太郎が謝ることないよ。レストラン・ウェディングとはいったって、お金かかるもんね。節約しなきゃ」


 亮太郎のお母さんも交えて、式の時期や場所を相談しているうち、現実味も帯びてきた。住むところは、社宅が安く借りられるみたい。


「花」


「ん?」


 亮太郎の唇が、わたしの唇にそっと触れる。もちろん、嫌じゃない。嫌なわけない。それなのに……。


「また、そんなすごい顔して」


 弱った調子で、いつもと同じことを言われてしまう。


「す……すごい顔なんて、してないもん」


「してるよ。こんな顔」


 ギュッと目をつぶって、顔中にしわを寄せる、亮太郎。


「いくら何でも、そこまでひどくないでしょ?」


「ううん。こんなもんじゃない。もっとすごい」


「…………!」


 わたしが反撃しづらいのをわかってて、からかってくる。


「どうせ、わたしは……」


 二十歳を過ぎてるのに、キスすらまともにできない。


「嘘。いいの。そういう花が、最高に可愛いから」


 今度は、そんなふうに言って笑ったあと、ふわりと亮太郎に抱きしめられた。


「亮太郎……」


「好きだよ、花。絶対、幸せにする。大丈夫。いつまでも待ってる」


 婚約までしておいて、あんなキスしかしないでいるカップル、普通じゃないよね。我慢させてることも、よくわかっている。


 でも、何から何まで亮太郎に悪いと思いつつ、わたしもちゃんと決めてるよ。式までには、必ず亮太郎に抱いてもらうこと。わたしの全部をもらってもらったうえで、籍を入れること。


「花の可愛いところはね、世界でいちばん、俺がわかってると思うよ」


「ううん。それは、きっと」


 握られた手を、しっかりと握り返した。


「こんなわたしのいいところを、亮太郎があきらめないで、ずっと探し続けてくれるからだよ」


 どんなわたしにもあきれることなく、根気よく、ずっと……。



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