わたしのざわつき



「えっ? 菜乃子ちゃんが……?」


 夕食の準備中に鳴った携帯に出た数秒後、お母さんが深刻そうな声を上げた。電話をかけてきたのは、きっと、亮太郎のお父さんと飲みに行くことになっていた、わたしのお父さん。


「う、うん。わかった。気をつけてね。わたしにもできることがあったら……」


 どうやら、途中で切れたらしく、お母さんが不安げに携帯をテーブルの上に置いた。


「亮太郎のお母さんに、何かあったの?」


 このようす、ただごとじゃない。数日前の亮太郎のお母さんを思い出して、なおさら心配になる。


「あ、うん……亮太郎くんのお母さんがね、家で急に倒れて、救急車で運ばれたって」


「それって、まずいんじゃないの?」


 もしかしたら、脳の方の病気とか。


「そう、今は意識があるらしいんだけど、心配だよね。加瀬くんとお店に向かってるときに、亮太郎くんから連絡が来たらしくて……とりあえず、遊佐くんも加瀬くんと病院に行ってみるって」


「そっか……そうだ、響くんには?」


 亮太郎のお母さんは、わたしもお世話になっている、大切な人。何かあったら、絶対に嫌だ。


「あ、そうだよね、えっと……」


 動揺して、お母さんの手も震えてる。


「響くんには、わたしが連絡するよ」


 こういうとき、響くん以上に頼りになる人はいない。多分、今は勤務中。亮太郎のお母さんのわかっている状態を伝えて、手が空いたら、わたしのお父さんか亮太郎のお父さんに連絡してもらえるよう、すぐにメールを打った。


「大丈夫。きっと、響くんが力になってくれるから」


「うん……そうだよね。菜乃子ちゃん、食事も生活もきちんとしてるし、大変なことにはならないよね。だいたい、そんな歳じゃないもん。わたしも、ごはん作っておかなきゃね。ありがと、花」


 自分に言い聞かせるように、何度も「うん」と首を縦に振りながら、お母さんが再びキッチンに立つ。


 気が気じゃないけれど、とりあえずは、病院に寄るという、お父さんの帰りを待つしかないかな……。





「遊佐くん……!」


 玄関のドアが開く音を聞いて、いつも以上の勢いで、お母さんがリビングを飛び出す。


「どうだった? 遊佐くん。菜乃子ちゃんには会えた? 大丈夫そう?」


 わたしも続いて廊下に出たんだけど、お母さんの質問には答えずに、お父さんは深く息をついた。


「遊佐くん?」


 心配そうに、お父さんをのぞき込む、お母さん。


「亮太郎のお母さん、どうなの? お父さん」


「……悪い。ちょっと、頭が整理できない」


「ゆ、遊佐くん?」


「着替えてくる」


「ゆ……」


 お母さんを無視するように、お父さんは寝室に引っ込んでしまった。


「どうしたんだろう? まさか……」


「落ち着いて。亮太郎に電話してみる」


 あのようすじゃあ、お父さんとはまともに話ができない。


「もしもし? 亮太郎?」


『ごめん、花。心配かけて』


 お母さんに見守られながら、亮太郎の携帯に電話してみると、数コール後に亮太郎が出た。声の感じから、一息ついたところという感じ。


「お母さん、どうなの?」


『脳出血だって。早めに処置できて、命には関わらないみたいなんだけど……』


「だけど?」


 明らかに下がった声のトーンに、不安が募る。


『麻痺とか言語障害とか、後遺症がどの程度残るかは、まだわからないって。でも、響くんのお兄さんの専門分野らしくて、明日来てくれることになったから、くわしい話が聞けるかも。ありがとう。花が、響くんに連絡してくれたんでしょ?』


「後遺症……」


 亮太郎のお母さん、身体もつらいに決まってるけど、心がまいってるよね。


『花のお父さんにも、伝えてくれる?一応、状態は安定してるって。うちの父さん以上に、重く受け止めてくれちゃってたっぽいから』


「わかった。亮太郎も無理しないでね。わたしにできることなら、手伝うから」


『ん。本当、心配しないで。できることをやっていけば、何とかはなるはずだから。じゃあ』


「お大事にね」


 お父さんゆずりなのか、意外と腰の据わっている亮太郎を頼もしく思いつつ、電話を切った。


「亮太郎くん、何だって?」


「脳出血らしいけど、命に別状はないって。これから、くわしい検査とかしていくんだと思う」


 お父さんにも聞こえるかもしれないから、後遺症のことには触れずにおく。


「そっか……命には関わらないっていっても、大変な病気だね。そうだ、響くんからは返信あった?」


「ううん、わたしには。でも、お兄さんに……」


 と、そこで。


「遊佐くん」


 着替えを終えて、水を飲みにきたお父さんに、お母さんが駆け寄る。


「大変だったね。あ、ごはんできてるよ。結局、何も食べられなかったでしょ?遊佐くんの好きな鶏肉のトマト煮だよ」


 お父さんを元気づけるため、多分あえて、いつもどおりの調子で声をかけた、お母さん。そんなお母さんへのお父さんの反応は、予想どおり。


「いい。今日は、食べられる気分じゃない」


「あ……ごめん。そっか、そうだよね」


 いら立ちさえ覚えたようすで、素っ気なく、お父さんがバスルームへ向かう。お母さんは、気落ちした表情で、お父さんのために準備した食器を片付け出した。


「気にしない方がいいよ?」


 お父さんに、こういうところがあるのは、子どものわたしにもわかってる。普段は感じないんだけれど、大人らしからぬ繊細さというか、弱さがある。今のは、お父さんを気遣っていた、お母さんがかわいそう。だけど。


「えっ? 何が?」


 何もなかったように、お母さんは笑っていた。





「ただいま。あ、おいしそう」


 翌日、学校から帰ってくると、キッチンからビーフシチューのいい匂い。


「そうでしょ?お昼から、念入りに仕込んでたの」


 真剣な顔で味見をしている、お母さん。


「今日は、すごく頑張っちゃった。お母さんは、お父さんの好きな料理を作ってあげることくらしか、できないもんね」


「お父さん、ね……」


 昨日の夜から、ほとんど口をきいていない、お父さん。


 お父さんと亮太郎のお母さんが、いっしょに会って話をしているところは、ほとんど見たことがない。でも、あそこまで平常心を失うなんて、わたしが思っていたより、大学の頃は仲がよかったのかな。


 この前も、亮太郎のお母さんは、お父さんのことをかばような発言をしてたし…と、そのとき。


「…………!」


 わたしのiPhoneが、電話の着信を知らせた。 響くんだ。


 こんな状況の中、不謹慎だとわかっていながら、うれしくてたまらない。忙しいことがわかっていて、なかなか電話もかけられずにいたから。


「響くん……!」


 抑えきれず、声が上ずってしまった。


『よかった。花が元気そうで、安心した』


「うん……」


 この声を聞くたび、自分の気持ちを思い知らされる。


『ようすを見に、加瀬と優に病院に行ってもらって、今電話で話を聞いた。優が見たところ、予後はよさそう。リハビリ後は、ほぼ元の生活に戻れるんじゃないかって』


「そう……よかった。ありがとう、響くん」


 一言一言、かみしめるように、響くんの話を聞いた。本人も、亮太郎のお父さんも亮太郎も、響くんのお兄さんのおかげで少しは安心できたはず。


『それよりさ』


「ん?」


 声の調子を変えた響くんに、聞き返す。


『大人になりきれない永遠の繊細少年の類くんが、動揺して、大変なことになってるんじゃないかと思って』


「よくわかってるね、響くん」


 お父さんとは、いちばんつき合いが長いんだから、当然か。


『ちゃんと、仕事には行った?』


「一応ね。お母さんが、お父さんの好きなビーフシチューを作って、待機してる」


『へえ。成長したね、二人とも』


「うん……」


 ふと、お母さんの方に視線をやった。代わってほしそうに、目をキラキラさせて、こっちを見てる。


「お母さんと話す?」


 しょうがないから、わたしから切り出してあげたんだけれど。


『いい。シチュー、焦がしそうだし。またね、花。心配なことがあったら、いつでも連絡しなよ』


「あ……」


 切れちゃった。iPhoneを受け取ろうと両手を差し出していた、お母さんが肩を落としてる。


「ごめんね。もっと早く代わればよかった。忙しかったのかも」


「ううん。どっちにしても、わたしと響くんで今話しても、わたしにできることはないだろうしね。でも、何か言ってた?響くん」


 気持ちを切り替えたように顔を上げる、お母さん。


「うん。響くんのお兄さんが来てくれて、話を聞いた限りでは、後遺症とかも大丈夫なんじゃないかって」


「本当? よかった……あのお兄さんがそう言うなら、安心だよ」


 お母さんは、心底ほっとしたようす。


「お母さんは、響くんのお兄さんに会ったことあるの?」


「一回だけね。お父さんとの結婚式の日に、車で送ってもらったの。優しくて、頼りになりそうで、ものすごく格好いい人だよ。顔は響くんにそっくりなんだけど、雰囲気はちょっと違って、もう、本物の王子様みたいな……あ、おかえりなさい、遊佐くん」


 響くんのお兄さんの話を知って、安心しきったお母さんが、リビングのドアを開けたお父さんにも、笑顔を向けた。でも、今のタイミングって……。


「今日は、お腹空いてるよね? あのね、ビーフシチュー、すごくうまくできたの。菜乃子ちゃんなら、きっとよくなるよ。いっしょに食べよ?」


 ちょうど、お母さんがはしゃいでるみたいに見えたのかも。お父さんが、あきれた表情で、お母さんをちらりと見た。


「それで、えっと……」


「今日も、菜乃子のところに寄ってきたけど」


 言葉を探していたお母さんが、お父さんに遮られる。


「見てられないくらい、つらそうにしてる。菜乃子は何も悪くないのに、自分を責めて。よくそんな、軽く適当なこと言えるよな」


「…………」


「お父さん」


 今の発言は、さすがに、お母さんの気持ちを考えなさすぎ。


「亮太郎のお母さんのことは、お母さんも心配してるよ。お父さんも、ある程度は、亮太郎のお父さんと亮太郎に任せるべきだよ」


 そもそも、毎日のように仕事帰りに亮太郎のお母さんに会いに行っている、お父さんの方に違和感を覚える。


「や、ううん……! 花、それは違う。亮太郎くんのお母さんも、お父さんがお見舞いに行けば、うれしいと思うから。ね? 遊佐くん。元気づけてあげなきゃね」


 あわてて、わたしとお父さんの間に入る、お母さんに。


「言われなくても、そう思ってる」


 息をついて、そんなふうに返したあと。


「食べるよね? 半日煮込んだ、ビーフシチュー……」


 また、お母さんを無視して、お父さんはリビングを出てしまう。


「ちょっと、お父さん」


「いいの、いいの。あまった分は、冷凍しておけばいいもん。食べよっか、花」


「ん……」


 お父さんに甘いのか、脳天気なだけなのか。あんな態度を取られて、お母さんもよく笑っていられる。





「こんにちは」


 少し緊張しながら、病室のカーテンを開いた。


「花ちゃん……来てくれて、ありがとう。起き上がれなくて、ごめんなさい」


「そんなことで謝らないでください。亮太郎、このお花、お願いしていい?」


「ん。ありがとう、花。花びんに水入れてくる」


 お見舞いの花を亮太郎に託すと、亮太郎のお母さんの横の椅子に座った。


「大変でしたね。ごはんは食べられてますか?」


「昨日から、少しずつ……ね。まだ、重湯みたいなものだけど」


「そう……ですか」


 弱々しい声。もちろん、体もつらいに決まっているけれど、気力が持てない感じ。


「あの……花ちゃん?」


「はい?」


 わたしは、いつもどおりの調子で返事する。


「あのね、花ちゃんのお父さんって、最近……」


「なんか、毎日仕事帰りに寄ってるみたいですね。かえって迷惑なんじゃないかって、それが心配」


 今、なんとなく、探るような雰囲気だった。そうだよね、わたしのお母さんのこととかも考えて、気を遣っちゃうよね。


「迷惑だなんて、とんでもない。わたし、本当に、うれしいの。ただ……」


 と、そこで。


「おまたせ。よかったね、母さん。この花、好きだったよね」


 戻ってきた亮太郎が、カーテンを開く。


 なんとなく、助かった。亮太郎のお母さんの言おうとしていることに、どう答えていいのかわからなかったから。


「ね、すごく綺麗……ありがとう、花ちゃん。花ちゃんのお母さんにも、よろしく伝えてね。亮太郎、花ちゃんと、一階のカフェにでも行ってきたら?」


「ああ、そうだね」


「あ……じゃあ、お大事にしてくださいね。よかったら、お父さんに、何でも言いつけてください」


「顔を見せにきてもらえるだけで、十分すぎるくらい」


 一瞬、大学生くらいの顔に見えた、亮太郎のお母さんに。


「そうですか」


 笑って会釈をしてから、亮太郎と病室を後にした。





「はい、花」


「ありがとう」


 亮太郎から、自販機のホットロイヤルミルクティーを受け取った。


「いやー、びっくりしたよね。まさか、自分の親がいきなり倒れちゃうとかさ」


 空いている席に向かい合わせに座って、亮太郎が話し出す。


「結局、検査の結果は悪くなくて、最低限のラインですんだみたいだよ。リハビリの病院も響くんのお兄さんが手配してくれることになったし、安心かな。でも、気持ちの方がね」


「そんな感じだったね」


 昔から、亮太郎のお母さんといえば、わたしのお母さんと違って、しっかりした人という印象だから。


「母さんの方の親戚、一度はその手の病気で倒れてる人多いから、遺伝的なものだと思うんだよね。でも、ほら。うちの母さん、料理に絶対的な自信持ってるでしょ? 味でも栄養面でも。どうも、そのへんのところが自分の中で崩れちゃったことに、すごくショックを受けてるっぽくて」


「なるほどね……」


 その気持ちは、理解できる気がする。


「でも、わかると思うけど、うちの父さん、あんなでしょ? 楽観的で。多分、弱音を吐きにくいというか、母さんのほしい反応が返ってこないというか」


 どこの夫婦も、似たようなすれ違い要素があるのかな。


「だから、花のお父さんが来てくれると、うれしいんじゃない? 不安を共有してもらえて。でも、俺も気になってるよ」


「ん? 何が?」


 亮太郎の言葉で、我に返る。


「花のお母さん、どう思ってるかなって」


「ああ、うん」


 亮太郎になら、話してもいいよね。


「お父さんがお見舞いに寄ること自体は、普通に賛成してるの。でも、お父さんのために明るく振るまってるのが空回りしちゃって、それがね……」


「そっか。花のお母さん、寛大なんだね」


 いやに、感心しているようすの亮太郎。


「寛大? ちょっと、大げさじゃない?だって、同じ大学の友達だったんでしょ?こんな大変なときなんだし」


「え? あ……そっか、そうだったね、うん」


 そこで、はっとした表情で、亮太郎に視線をそらされた。


「亮太郎? 何か、隠してない?」


「いやいや、隠してない……!」


 ぶんぶんと首を振りながら、明らかに目が泳いでる。


「俺、そろそろ、帰ろうかな。一回、病室に荷物取りに行かなきゃ。じゃあね、花」


「亮太郎……!」


 いったい、何なの?



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