わたしの夢



「響くん……!」


 待ち合わせの初台の駅の改札を出た場所で、響くんに声をかける。響くんはいつものように、ベンチに座って、音楽を聴いていた。


「着替えてきたんだ? 制服かと思った」


「だって、制服じゃあ、ゆっくりできないと思って」


 別の予定が入ってしまった職場の人から、急遽譲ってもらったという、フランスのピアニストのコンサート。響くんは近くのホテルに泊まるっていうし、一分一秒でも長く、響くんと一緒にいたいんだもん。


「よかった。花が俺と遊んでくれるの、あと何年でもないだろうしね」


 立ち上がって、イヤホンをポケットに収める、響くん。


「そんなの」


 思わず、ムキになってしまったんだけれど。


「響くんが声かけてくれるなら、いつでもついていくもん」


「ふうん。一応、聞いとくよ」


 こんなふうに、軽くあしらわれるのにも慣れている。


「じゃあ、会場に向かおうか。そうだ、演奏する曲伝えてなかったね。スクリャービンとプロコフィエフだって。ソナタとエチュードだったかな」


「わたし、両方弾くのは苦手だけど、曲は大好き」


「うん。そう思って、誘った」


「ありがとう」


 小さい頃から、わたしのピアノをずっと聴いてきてくれた響くんなんだから、何の不思議もないんだけれど。


 それでも、わたしのことをわかっていてもらえるのは、うれしい……と、頬が緩むのを抑えていたら、ふと、鏡に映った響くんとわたしの姿が目に入った。


「…………」


「何?」


「ううん。楽しみだなあと思って」


 周りの人には、わたしたちがどんなふうに見えると思うか、聞こうとして、やめた。そういう質問、響くんは多分好きじゃない。


「少し、急いだ方がいいかも」


「あ。そうだね」


 歩調を速めた響くんに、ついていく。こんなとき、数年前なら、何も考えずに響くんの手を握ることができたのに……。





「わたし、こんな大きいコンサートホールでピアノ聴く機会なかったから、感動しちゃった」


 演奏終了後は、しばらく立ち上がれず、感嘆の息をついた。


「ちゃんと曲のよさが伝わる演奏だったね。花もよろこんでくれて、よかった」


「うん。誘ってくれて、ありがとう。響くん」


 なんだか、夢見心地。今日という日のイベントが、少しずつ終わっていってしまうのが寂しい。


「今日は、何時までに帰ればいいって?」


「あ、えーと……」


 お父さんが面倒で、友達と出かけることにしておいたんだけれど。


「俺が来てるって、類と璃子に伝えてないんだ?」


「……うん。だって、お父さん、すぐ変なこと言うんだもん」


“ 変なこと”。


自分で口にして、胸が痛んだ。


「相変わらずだね、類も。まあ、いいや。適当な時間に送るから。花、何が食べたい?」


「そうだなあ……」


 でも、今は、響くんといられることを素直に楽しむんだ。


「そうだ。地下にね、お母さんと昔何回か入ったインド料理の店があるの。そことか」


「インド料理……」


 何やら、考えているようすの響くん。


「響くん?」


「上の方の階にでも行ってみよう。せっかく、花が来てくれたんだから」


「あ……うん!」


 やっぱり、大人っぽい服に着替えてきてよかった。と、そうはいっても。


「うわ」


 エレベーターを降りたのは、同じ建物内の53階。各店の前に掲げてあるメニューに目をやると、どこもコースのみで、地下の店の値段と一ケタ違う。


「どうかした? 花、何がいい? すき焼きとか、中華もあるけど」


「えっと……すき焼き、かな」


 真っ白な頭で答えると、「ん」と返事して、普通に前の店に進んでいってしまう。楽しみというよりも不安な気持ちで、その響くんのあとを追ったんだけど。


「わあ……」


 和風の通路を抜けて、店内に足を踏み入れた瞬間、思わず声を上げた。高層ビルの窓からの夜景なんて、ずっと俗っぽいと思ってたのに、ガラスの壁一面に広がる光景は純粋に綺麗だった。


「花、こっち」


「うん」


 響くんの声にはっとして、席に着く。


「じゃあ、一応乾杯。今日はありがとう、花」


「ううん。わたしの方が、ありがとうだよ。嘘みたいに、楽しい」


 いちばん高いコースをさらりと注文した響くんと、グラスを合わせた。こんなお店、お父さんやお母さんと来るなんて、ありえないし。しかも、響くんとふたりきり。何から何まで、わたしにとっては、夢みたいなのに。


「なんか、いやらしい医者の典型って感じだね。クラシックのコンサート行ったあと、こういう店入るとか」


 そんなことを言って、嫌そうに顔をしかめる響くんがおかしい。


「可愛い女子高生もいるし?」


「誰かと同じ顔のね」


「お父さんのこと? それ、気にしてるのに」


 目の前で、わたしの受け答えを楽しそうに聞いている、響くんを見た。


 今日は、カーディガンの下に、いつもよりもきちんとした白いシャツを身につけているせいか落ち着いて見えるけれど、昔のライブ映像の中の響くんも、わたしが小さい頃の響くんも、今の響くんも、ほとんど印象が変わらない。


 ただ、繊細そうなのに、きつく鋭かった目元だけは、少し柔らかくなった気もする。


「わたしとお父さん、そんなに似てる?」


「似てる。俺の大好きな類と同じ顔。よかったね、璃子のよけいな遺伝子が入らなくて」


「よくないよ。この前も、お父さんと言い合ってたんだよ。鏡見てるみたいで、気持ち悪いって」


「へえ」


 おかしくてたまらないようすの響くん。


「そうだ。お母さんに聞いたの。響くんが、わたしに絶対音感の訓練してくれたっていう話」


「ああ……そんなこともあったっけ」


 なつかしそうに、響くんが目を細めた。なんとなく、子どもに向けられる愛情に近い感情が伝わって、複雑な気持ちになったけれど。


「わたし、うれしかったんだ。今日もそうだけど、わたしの大好きなピアノで、響くんとずっとつながっていられる気がして」


「花と比べたら、俺のピアノなんか、全然だけどね」


 肩をすくめながらも、わたしの発言をまんざらでもなく思ってくれている気がした。そんな響くんに、今日も、わたしの心が幸せで満たされる。


「花は、演奏家になることとかは考えてないの?」


「わたし?」


 響くんの質問で、我に返った。


「花にその気があれば、そっちにも進めると思うけど。そういえば、花は将来の夢とかあるの?」


 わたしの思い描く将来。それは……。


「ピアノを職業にすることは、ないと思う。わたしにとってのピアノは、そういうんじゃないから」


「やっぱり。そんな気はしたけど」


 少し残念そうに笑う、響くん。


「……職業とか仕事は関係なく、夢ならあるの」


「何? 聞きたい」


 響くんが身を乗り出した。そんな響くんの目をまっすぐに見すえて、わたしは口を開いた。


「好きな人に、好きって言いたい」


 たとえ、受け入れてもらえないことがわかっていても。冗談めかしたり、ごまかしたりすることなく、いつの日か……と、そこで。


「……ああ」


 微妙な空気で、視線をそらされた。もしかして、響くんに気づかれた……?


「あの、えっと……」


「わかってるよ。なんとなく」


「あのね、響くん……!」


 今じゃ、だめなの。わたしがもっと大人になって、そして……。


「亮太郎でしょ?」


「はい?」


 今、響くん、何て?


「そういうところまで類に似てるのかもね。好きなくせに、邪険に扱わずにはいられないの」


「ど……どうして、亮太郎?」


 よりによって、響くんにそんな誤解されるの、耐えられない。


「いっしょにいるところも何回か見てるし、わかるよ。ちょっと面白くないけど」


「響くん? 亮太郎はね、そういうんじゃなくて……」


「あ、ごめん。電話。類から」


「…………!」


 お父さん、こんな大事なときに。


「え? 花? いるけど。そんなこと、まだ考えてんの?」


 げんなりした調子で応える響くんに、お父さんへの恨みが募る。


「あ、そう。わかった。じゃーね」


「……お父さん、何だって?」


「璃子と迎えにくるって」


「お母さんと?」


 それ、わたしをお母さんに押しつけて、自分が響くんと遊びたいだけでしょ。


「面白いくらい、予想どおりの行動を取るよね、類は」


 わたしの思いとは裏腹に、お父さんと合流することになった響くんがうれしそうで、お父さんに負けた気分。でも、響くんもお父さんを好きでいてくれていることは、わたしもよくわかってるから……。


「改札で待ってるって。俺は、類と新宿に移動しようかな」


「うん。また誘ってね、響くん」


「もちろん」


 待っててね、響くん。いつか、わたしが想いを伝えるその日まで、どうか響くんに運命の人が現れませんように ――――。



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