第2章 旅人

第5話 夏のはじまり

旅人たびとぉ〜。そろそろ出かけるけど、用意できたぁ?」

 母さんが呼んでる。


 ……あ〜。今、良いところだったのになぁ。

 自分の部屋で本を読んでいた僕は、仕方なく本を閉じた。


「今、行く〜!」

 読みかけの本をディバッグに押し込んで、背負う。


 その夏も暑かった。

 連日、最高気温の更新記録が報じられて、昼間に活動するのは生命の危険を感じる程だった。


 僕は毎年、夏休みをおじいちゃんとおばあちゃんの家で過ごす。

 場所は、山梨県と長野県の境にある六ヶ岳野原村むつがたけのはらむら


「でも、本当にビックリしちゃった。ふたりとも突然、六ヶ岳に引っ越して暮らすとか言い出すんだもの」

「ははは。君のお父さんとお母さんらしいよ。元気で何よりじゃないか」


 数年前に母さんの両親は、六ヶ岳野原村にあるペンションビレッジに移り住んだ。元オーナーさんがペンションとして使っていた建物に住んでいる。もちろん、今はペンションじゃない。

 少し古いけど、木の匂いが気持ちいい家。ちょっと偉そうに言うと、僕もとても気に入ってるんだ。


 —— 中学2年の夏休みのはじまり。


 車が高速道路のインターを降りたあと、僕はいつのまにか眠っていたらしい。

「旅人〜。起きてる? 今、『萌木もえぎの国』を過ぎたよ」

 母さんの声で目を覚ますと、道の駅をとうに過ぎ、「萌木の国」の前を大きく左折して、清国きよくに駅方面に向かうところだった。


 「萌木の国」は、小さなお店がたくさん集まっている施設で、メリーゴーランドもある。ハロウィンやクリスマスシーズンには飾りつけが綺麗だ。

 母さんはこの中にあるレストランのカレーを気に入っていて、きっと一度はまた食べたがるに違いない。いつもつきあわされる僕は、正直言って、長い時間を並んで待って食べたい程じゃない。


 父さんの運転する車は、清国駅を通り過ぎた。駅の周りだけはキレイになったけど、ブームが去ったあと、閉店したメルヘンチックな古いお店がたくさん残ったままになってて、何だかさびれた場所だなぁと思う。


「いつもの清川寮せいせんりょうに寄ってね」

 お約束の清川寮は、僕も大好きな場所だ。


 あたり一面に牧草地が広がる景色が見えると、そこはもう広大な清川寮の敷地なんだ。


 レストハウスではたくさんの観光客がお土産を買い求めていた。

「旅人。ソフトクリーム、食べるよね。お土産を買う間、食べて待ってて」

「うん、わかった」

 きっとまた母さんは、おばあちゃんの大好きなここのパンを大量に買うんだろう。お土産はいつものアップルパイ、かな。


 レストハウスのデッキには足湯もあるけど、さすがに今の季節に利用している人は少ないみたい。僕は混み合うデッキを避けて、外に広がる草原に下りた。

 大きな樹の下のお気に入りのベンチは空いてた。


 ああっと……! 溶けちゃう!


 溶けてたれそうになっているソフトクリームを急いで舐める。

 人気のソフトクリームは大行列になる日もあるらしい。


 ……やっぱり、ここはいいなぁ〜。


 目の前には、さえぎるもののない牧草地が広がっている。

 空が高い。東京の薄ぼんやりした空とは違う、これぞ、ザ・青空。日差しが強いけど、高原の風が心地いい。


 そして、遠く、雲の上に頭を出しているのは富士山だ。


 でも、夏の黒っぽい富士山より、冬の冷たい澄み切った空気の中で見る、真っ白な姿の方がやっぱりカッコいいよなぁ。


 そうしているうちに、父さんが呼びに来て、やっと母さんの買い物が終わったらしい。


 僕達は、野原村へ向かった。

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