後遺症

日向崎萱

 自分は正しく生きてきたと、自分でそう言い切れるか。

 今まで吐いてきた嘘のこと、どれだけ忘れているのか。

 何度も自分を殺したことに、どれだけ目を背けたのか。

 私は今この私のへの問いに、答えることはできるのか。

 


 

 歩道に天井を作るように突き出た、工事現場特有の金属の足場の下。急激に強くなった雨足に、まるで追いやられるようにして駆け込んだ。先程まで霧雨程度だったはずの雨は、もう既にその面影すら残さないような強さを誇っていた。

天気情報アプリがいうには、これはにわか雨ということだったので、少しこの足場の下にお世話になろうと思った。

 

 空白に埋まった時間が続く。滝のように降る雨のノイズにも慣れてきた。もうここだけ時間が止まっているのではないかとさえ錯覚した。

しきりに降りそそぐ、遠くが見えないほど不透明な雨の壁が、私を囲っている。

こうも隔絶されてしまうと、つい己の世界に入ってしまうものだ。自己嫌悪の泥沼の中に、自ら入り込んでゆくかのように。

 ……今まで何をしてきたのだろうか。

嘘で固めてきた道は、もはや自分にさえ真偽を見分けられない代物になっていた。

耐え忍ぶことがどれだけ自分にとって善だっただろうか。

嘘を吐くだけの自己防衛がどれだけ残虐だっただろうか。

一体どこからどこまでが嘘だっただろうか。

自分を含めてどれだけの人を傷つけて回っただろうか。

 

 思えば思うほど、自分というのが途方もなく最低な人間に思えてしまった。

「……もう、嘘は吐きたくない……。嘘ってきっと失敗なんだ……。きっと……」

稀に、『本当は私という生物は、人間を名乗ることさえおこがましいような怪物だったのかもしれない』と、そう思ってしまうこともあった。

 

 「…蛻昴a縺セ縺励※…」

……誰の声がした気がした。高音の、少し耳に障るような電子音のような声が。

「……繧ウ繝医ヰ…豁」縺励>縺ァ縺吶°……??」

……少し色々考えすぎていたのかもしれない。耳鳴りとはまた違う音だが、きっと同じような類のものなのだろう。疲れている。きっと疲れているんだ。

「……U…m…Ca…ou sp…… …lish?」

……英語?三回目となれば、私との会話を試みていることが嫌でもわかった。割と聞き覚えのある単語群から推測して、私はそれに返答をした……日本語で。

 

 「……あなたほど心の荒んだ人間が一人で外に居るってのは、ワタクシも久しぶりに見ましたよ。」

言葉を返した途端、そんな返答が返ってきた。そしてそれと同時に、私は摩訶不思議な現象に遭遇した。

 ……周囲の時間が止まったらしかったのだ。雨粒は宙に止まり、傘を差してひたすら歩みを進める人も彫刻のように動かなくなった。少し世界がセピア色になって、私と声の主だけの空感がつくり上げられていた。

「……初っ端から失礼な方ですね。一体どちら様で?」

「生憎、名乗れる名は持ち合わせておりませんので、お嬢さんがワタクシの姿を見て判断してください。」

そうして私の前に現れたのは、頭が割れて六本の触手のようになった、クリオネのような生物だった。

「クリオネ……?」

「……まあ、あながち間違いでもないでしょう。それで良いと思われますよ。」

正直、この摩訶不思議な状況を飲み込むことはまだできていない。しかし、『周りの時間が止まっている中、目の前に一.五㍍くらいの大きさのクリオネがいて、それが電子音みたいな声で日本語を喋っている』というのは、紛れもない事実だった。

 「……十三ヶ月ぶりの食事なのですから、大人しくしていてくださると助かります。」

状況を飲むのに必死で目の前の生物(?)の話を全く気にかけていなかった。しかし聞こえた。そのクリオネは確かに今、『食事』と言った。

「食事?私を食べるということ…で……?」

徐々にこの状況に恐怖を覚えるようになった私には、もう語尾までしっかり発音するほどの気力もなかった。

「ああ、いえ。ご安心を。生物の血肉を啜るような趣味はございませんので。

 ワタクシが食べるのは、言わば『後遺症』というやつでございます。」

「コウイショウ?」

思わず聞き返した。特に大きな病気、それも治療後も尾を引くような重篤なモノなんて尚更罹ったことのない私からしてみれば、本当に無縁の話だと思ったからだ。

「……いやいや。相手を間違えたんじゃないですかね。私はあなたに食べられなければならないような後遺症なんて持ってないですよ。」

「……ああ、なるほど。自分でも気が付かないほど重症だったとは……かなり荒んでいると思ってはいましたが、これは想定外のボリュームだ。いやはや、ワタクシとしたことが。食べ切れなくても後々面倒なのですが……」

「は?」

もう何が何だか。全てが理解できなくなってきた……。思考が追いつかない。追いつかなすぎて、もはやあのクリオネに何を質問していいかも、なんならここに居ていいのかすら分からない。

「いいですか?よく聞いてください。これはきっと大事なことでしょうから。」

そう言うとクリオネは光を放ち、その光は徐々に視界を覆った。そうして次に見えた景色は、私のよく知っている景色らしかった。正確には、この世界で私しか知らない景色。この足場の下に来るよりも前の、私しか持ち得ない私だけの記憶だった。

「自分を傷つけた数だけ、後悔が残る。

 他人を蔑ろにはしない嘘でも、嘘をついた事実は変わらない。

 加えて、そういった嘘というのは特に、どこから、そしてどこまでが嘘だったか分からなくなってゆく。」

クリオネの説明とともに、世界の見た目がどんどん変わってゆく。クリオネがひとつ喋るたび、世界はまた別の記憶を映し出していく。

……傲慢で自分勝手な記憶だ。

「己を押さえ込んだ分だけ、相手に合わせた分だけ、あんた様は嘘をついてきたことになる…………。

 『自分も相手も傷つかない』は選べなかった…というわけでございます。

 そうして自分ばかりを傷つけて、気がついた頃にはもうあなた様の心身は疲れ果ててズタボロ。

 ……こんな不安定な足場の下で雨宿りをするなんて。自分がこれから存在するはずだった未来さえも、『嘘』にしてしまうつもりだったのではございませんか?」

「…………」

私は声を出すことができなかった。今までの回想の中で、最も生々しく、最も自責の念を強める回想だった。

「これで何となくわかったでしょう?ワタクシの言う『後遺症』と言うのがどういったモノか。痛いでしょう?苦しいでしょう?ですからさぁさぁ、どうぞこちらに。そんなモノ、食って無くして差し上げましょう。そうすれば、あなたの心身は自然と回復してゆくはずですから。」

……クリオネの言っている後遺症というのがどういったものかはわかった。それに苦しめられていることも、事実なのかもしれない。しかしそれと同時に、私はこの後遺症を無くすというのが何を示すのかをふと考えてしまって、そしてそれが怖くてたまらなくなった。

「……いや、結構です……他を当たってください。」

私は今、自分を、過去を、『嘘』にしてしまおうとしていたのだ。それが本当に救済と言えるのか、私には疑問だった。『もう嘘は吐きたくない』と、そう思っていたところだったのに。

「……あなや。それは非常に残念だ。ワタクシといたしましても、これはあなたにとっても、せっかくのチャンスなんですがねぇ……。

……まぁ、いいでしょう。こう言う結末も、今まで一度もなかったわけではないですし……。

また死にたくなったりでもしたときには、ワタクシのことを思い出してください。

 ……この結末が『本当』であったことも、忘れないでください…ね?」

クリオネがそういうと、世界がまた白く光出した。白い光は次第に視界全てを覆い、また私をもの世界に引き戻した。

 

 気がつくと、時の止まっていたのは解け、周囲の色も元の色に戻っていた。何も変わっていない世界だが、確かに私にはあのクリオネとの記憶が刻まれていた。不意に、天井から金属の擦れる音が聞こえた。ここは危険だ。別の場所で雨宿りをしよう。未だ降り続く雨の中、目星をつけて走り出した。長い長いにわか雨だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

後遺症 日向崎萱 @kaya_hinatazaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ