【アップ】男山教会2023年1月8日礼拝説教/讃美歌〜Mynote

天川裕司

【アップ】男山教会2023年1月8日礼拝説教/讃美歌〜Mynote

【本日の礼拝メッセージ】

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=vqOuRDOQfHU&feature=youtu.be


【ブログ】

https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12784174095.html

(讃美歌や聖書の内容を閲覧できます)



前奏

招詞 ヨハネの黙示録4章11節

頌 栄

たたえよ、主の民[讃21-24,こども改25]

開 会 祈祷

主 の 祈り

十戒・祈祷

子ども説教

子どもと親のカテキズム問17

「人間を造られた神さま」

こどもさんびか

つくりぬしをさんびします[改4(1節)]

牧 会 祈祷

讃 美 歌 527番(1,2,3節)

聖書

ヨハネによる福音書1章1~5節(新P163)

詩編88編14~19節(旧P925)

説 教

「命は人間を照らす光であった

~御子の内にある真の希望」

宮武輝彦

祈 祷

讃 美 歌 527番(4,5節)

みことばの交読文

詩編23編1~6節

感謝のささげものと執り成しの祈祷

頌 栄  539番

祝 祷

報 告



讃美歌~♬


讃美歌527番(歌詞付)54年版「わが喜びわが望み」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=l042MxxZU28


1

わがよろび わがのぞみ

わがいのちの主よ

昼たたえ 夜うたいて なお足らぬをおもう

2

慕いまつるかいぬしよ

いずこの牧場に

その群れを主は導き やしないたまえる

3

シオンの娘 語れかし

わがいのちの主に

野辺にてか 幕屋にてか 会いまつらざりし

4

主の御顔のやさしさに

みつかいよろこび

御言葉のうるわしさに あめつちうたえり

5

ならびもなき 愛の主の

みこえぞうれしき

わがのぞみ わがいのちは 永久に主にあれや


讃美歌539番

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=RLNZOZY75YY


THE ALFEE - 頌栄539番 (1993)

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=WGLmyfdrb3w

(ブログを見て下さると歌詞も閲覧できます)



2023年1月8日 礼拝説教 中心聖句


言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

ヨハネによる福音書1章4,5節


愛する者も友も あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです。

詩編88編19節


はじめに

世界と個人の災いの中、わたしたちの真の望みはどこにあるのかを問う。

「言(この方)の内に命があった。命は人間を照らす光であった」とは、絶望の世のただ中にお生まれに成った「言(ことば)」であるお方、永遠の御子の命とその光。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るため」(3章16節)。絶望の世のただ中に、御子が遣わされた。事実、「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ」「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないから」。「しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれたということが、明らかになるために」(3章19,20,21節)。人となられた御子、イエス・キリストは、ポンテオ・ピラトはこう言われた。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(18章37節)。ピラトは、「真理とは何か」と問いながら、その実、キリストの声を聞こうとしなかった。「真理を行う」とは、キリストの声に聞くことからすべてを始め、行動すること。ただの善人でもなく悪人でもなく、罪の世のただ中で、キリストの声を聞くとき、キリストに属する者とされる。

「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」とは、絶望の淵におかれている人間(全人類)が、キリストの光に照らされながら、その心の目が見えないために、その光を見ることができないことを明らかにする。人間は神にかたどって造られた。それゆえに、人間は、物事を理由を考えたり、新しい物を発明する。しかし肝心なことは、真の神を礼拝する自由と喜びを知ること。それが失われている世の実態は、堕落以来、災いの渦中にある。「万物は言によって成った(造られた)」「成った(造られた)もので、言によらず成った(造られた)ものは何一つなかった」(1章3節)。しかし、「この方の内に命があった」のである。永遠の神の御子であるお方が、創造主でありながら、被造物の一人となられた。事実、「言は肉と成った(造られた)」。「暗闇は光を理解しなかった」とは、「暗闇を光に打ち勝たなかった」とも訳される。もろもろの災いに打ち勝つ秘訣は、すでに、罪の世のただ中において、十字架の死に至る道を全うされ、死に打ち勝たれ、死者の中から復活されたお方の内に光を見ること。罪からの救いは、災いを克服して余りある大いなるもの。災いは、一時的に福音の光を覆い、人々の心を絶望、罪と死に追いやる。しかし、全能の主は、再び、「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」(5章25節)。ここに、世界の本当の希望がある。

「墓の中であなたの慈しみが 滅びの国であなたのまことが語られたりするでしょうか。闇の中で驚くべき御業が忘却の地で恵みの御業(あなたの義)が告げ知らされたりするでしょうか」(詩編88編13節)と祈る時、復活の主イエス・キリストの光を仰ぎ、この御方のもとに来るとき、天の御国に凱旋する勝利の道を与えられる。

おわりに

「今、わたしに親しいのは」。暗闇を負う、「キリスト」と告白したい。



(Mynote)


二〇二三年一月八日(日曜日)

【今年度の目標と聖句】

「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなた方を満たし、聖霊の力によって希望に満ち溢れさせて下さるように。」

(『ローマの信徒への手紙』第一五章一三節)

〈子供メッセージ〉

『子供と親のカテキズム問一七』

「神様はどのように人間をお造りになりましたか?」

「神様は、ご自分の形に似せて、神様の子供として神様と共に歩むように、また男と女に、人間をお造りになりました。」

この様な事が出来るのは神様しか居られない。生き物や自然の万物を無から創る事が出来るのは神様しか居られない。聖霊に依り兄弟姉妹共に、皆で神様を褒め称える事が大事に在る。

〈公同礼拝〉

『ヨハネによる福音書』(第一章一〜五節)

『詩篇』(第八八篇一四〜一九節)

説教題『命は人間を照らす光であった〜御子の内にある真の希望』

この言(ことば)に命があった。そしてこの命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。

「主よ、なぜ、あなたは私を捨てられるのですか。なぜ、私にみ顔を隠されるのですか。私は若い時から苦しんで死ぬばかりです。あなたの脅かしにあって衰え果てました。あなたの激しい怒りが私を襲い、あなたの恐ろしい脅かしが私を滅ぼしました。これらの事がひねもす大水の様に私を巡り、私を全く取り巻きました。あなたは愛する者と友を私から遠ざけ、私の知り人を暗闇に置かれました。」(『詩篇』第八八篇一四〜一九節口語訳聖書では一八節

命・人間と言うのは神様に依る被造物である。人はいろんな説を唱え、人を含む生き物のこれまでを様々な角度から説明付けようとしたがる。しかしどんな情報や時代資料を以てしても、それらは全て曖昧なものと成る。何故なら人は太古に辿る過去を知らず、自分の事・身の周りの自然の事についてさえ、一から(或いは無から)説明出来ないからである。

教会とはどう言う場所か?礼拝をする場所、神様の事を知る所。「初めの愛から離れてしまった」と言う原点を、全ての人は心に留め、考えねば成らない。クリスチャンも、日曜だけクリスチャンや、ゴッコ(形だけで終わる信仰)、人前では体裁を繕い良いクリスチャンを演じるが陰で人の悪口を言う等、初めの愛から離れた姿とその内実を持ち続けては成らない。それは偽善者のする事である。

本当の絶望や恐怖とは何か?神様は初めに世を愛された。ひとり子を信じる者が一人も滅びないで天に上げられる様に、神様は様々な御計画を以て、人を信仰を以て救われようとして居る。この場合でも、初めの愛から離れては成らない。これは全ての人がせねば成らない事(この事から悔い改めに繋がる)。

聖餐式の後の事。聖餐式はただの習慣ではない。聖餐式が出来なくても、我ら(クリスチャン)は信仰に於ける共同体である。イエス様はパンと葡萄酒だけではなくて、言葉と聖霊と命を以て、聖餐式(それ)に依る恵みを全ての人に伝え与えて居られる。聖餐についても信仰に於いても、全ての人は自己吟味が必要である。初めの愛から離れず、その初めの愛の場所に立ち返る事は、神様とイエス様が人を愛されたその原点に立ち返る事。それは暗闇から光に帰る事。そしてこの「闇から光へ辿る経過」は全て、神様が成される事。その御計画の内にて、聖霊の働きに依り成る事。人間が自力で出来る事には無い。弱い人達の為にこそ聖餐式がある、と言うのも一理言える。

ピラトはイエス様に「その真理とは何か?」と問うたが、その真理が何かについては、聴く事をしなかった。詰り、問う事と、聴く事とは、別の事である。

「光は闇の中で輝いている」(『ヨハネによる福音書』第一章五節)

これは御子に依る救いの事を述べて居る。

「そして、闇はこれに勝たなかった」(暗闇は光を理解しなかった)(『ヨハネによる福音書』第一章五節)

光が輝いているけど、その光が見えない。信仰とは、ただ神様に寄る事だけでなく、神様の御言葉、イエス様の教えられた事、聖書の言葉に聴き、それぞれを理解しようと努力する事である。それぞれの御言葉を心に留める事である。その御言葉を日常生活に適用する事である。

人はどんなキッカケで福音の機会に与るか分からない。戦争の時、自然災害の時など、特に非日常的な窮地に於いて、その機会が与えられる事もある。

人間とはどれほど傲慢で、堕落し、日常では神様の御言葉を聴こうとしないものか。神様に依る恵みをさも当り前に受け取って居るのか?言葉は肉となった。

イエス様は十字架に掛かられ、三日目に死人の内より甦られた。これが全ての人々にとって希望であり光である。死んだ者達が生ける者(イエス様)の救いを聴く時が来る。今もう既に来て居る。

『詩篇』のこの箇所では、ずっと人の絶望が叫ばれて居る。しかしそんな絶望に在りながらも、ずっと神様を呼び続けて居る。本当の絶望に遭った時、人間にはそれしか出来なくなる。神様に助けを求める事しか出来ない。詰りこの姿が本性である。他人からは、個人のこの姿が現実に於いて、果して見えない事も多い。日本では一時(いっとき)から自殺者がかなり増えてしまった。詰り何らかの事情で絶望して居る訳である。その時でもこの『詩篇』の様に、神様に助けを求める事しか、他に救いに辿る法は無いのである。

〈御言葉の交読文〉

主は羊飼い、私には何も欠ける事がない。

主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせて下さる。

主は御名にふさわしく、私を正しい道に導かれる。

死の陰の谷を行く時も、私は災いを恐れない。あなたが私と共に居て下さる。

あなたの鞭、あなたの杖、それが私を力づける。私を苦しめる者を前にしても、あなたは私に食卓を整えて下さる。

私の頭に香油を注ぎ、私の杯を溢れさせて下さる。命のある限り、恵みと慈みはいつも私を追う。

その家に私は帰り、生涯、そこに留まるであろう。


【日本キリスト改革派 男山教会】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【最寄りの教会検索用】

https://www.rcj.gr.jp/



Table Café~


「ボキャブラリーの乏しさ」アーサー・ホーランド師

(2022年12月2日収録/2023年1月13日配信)

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=eMM_gQo2PfI&t=3084s


ハーベスト・タイム・ミニストリーズ

https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin?app=desktop


不思議のパルプンテ

https://www.youtube.com/@user-vh3fk4nl7i/videos

(お暇な時にぜひどうぞ)






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