見放された町

葦名 伊織

腐り、枯れた水

 十月、今宵新月を迎える日の夕刻。綿わた神社にて。

 岩場の地面にぽっかりと穴が空いていた。まるで洞窟のように大きな口を開け、光も届かないであろう深淵が遥か地底へと続いている。

 綿神社の御神体『追立穴おいたてあな』と呼ばれる深き穴の縁にて、三十代半ばの男性と老婆が合掌し、目を瞑って静かに祈りを捧げていた。老婆は慇懃に深々と頭を垂れて祈っているが、男性の方は老婆ほど信心深くはないのか、片目を開けて老婆の様子を伺っている。

 彼らの目の前には様々な供物を並べられ、『追立穴』の周辺は老婆のような信心深い人々の手によって丁寧に掃除されている。しかし、穴の周辺をいくら綺麗にしたところで、穴から漂ってくる腐敗した水の臭いを消すことは出来ない。

 おそらく内部に水が溜まっているのだろう。風が流れた時にふと臭いを感じる事がある。それは滞留の末に腐敗してしまった水の臭い、あの鉄錆にも似た濃密な海水に似た臭いが、風に乗って鼻腔まで届くのだった。




 老婆が深く一礼して顔を上げる。それを合図とみて男性も真似るように一礼した。


「さて、じゃあ帰るとするかね。ケンよ、掃除道具を持っとくれ」


「ああ。そっちの鞄も持とうか? 」


 ケンと呼ばれた男性が掃除道具を拾い上げつつ、老婆の方に手を伸ばすと、ピシャリと掌を叩かれる。


「これくらい自分で持つわい」


「ならいいけど」


 二人は忘れ物がないか確認して、『追立穴』を後にする。

 最後に老婆はもう一度深々と一礼した。




 二人が綿神社の短い石段を下り、鳥居の真下に来たところで、三人の男が騒々しく話しながら二人の前を通り過ぎる。三人とも酒を飲んでいるようで足元はおぼつかず、かなり気も大きくなっているようだった。一人の男が空き缶を潰して、あろうことか綿神社の境内へ投げ入れる。

 草むらか、木の上に落ちたのだろうか、空き缶が何かにぶつかったような音はしなかった。

 男三人はその行為を大声で笑っている。


「えー! 祐介ゆうすけ君いいんすか? 一応神社だけど」


「大丈夫大丈夫。この神社は俺ん家の持ち物だし。それに鳥居ん所にいたババアとかが掃除してくれっから」


 ケンと老婆に聞こえることが承知の上での大声。その狼藉にケンは怒りを滲ませる。


「アイツら――」


「やめときな。アイツは榊のところの祐介だ」


 祐介らを捕まえんとして一歩踏み出したケンの腕を掴み、老婆が制止する。ケンが振り返ると、老婆は嫌悪を色を浮かべて祐介を眺めていた。


「榊って、あの榊グループの? 」


「そう。そこの一人息子さ」


 榊家が取締役を務める榊グループは、製造・サービス・派遣など、多種多様な業種を手掛ける巨大企業。そのトップに君臨しているのが祐介の父である。

 当然、行政や地方自治体、様々な中小企業に対しても顔が効き、その影響力も強い。故に、この町に住む人間は祐介の粗相を見逃すより他にない。


「さっきの空き缶、取ってくるよ」


「アタシも行くよ」


 すでに日は陰り、背の高い林に囲まれた神社にはいち早く夜の帳が下りようとしている。二人は携帯のライトなどを使いながら、神社の境内に投げ捨てられた空き缶を探したが、ついに見つかることはなかった。

 帰り際、笛の音に似た音が響く。それは『追立穴』を風が通り抜けた音だろう。潮の臭いが辺りを包んでいた。



「本当はね。今日はお祭をやる日なんだよ。『寝ずの宵宮』、朝まで灯りを絶やさない綿神社のお祭さ。爺さんと出会ったのも宵宮だったね」


 老婆、宮田春子は懐かしむように口の端で笑みを作る。しかし、その後に続いたのは溜息で、そこには寂しさと呆れが感じられた。

 ケンと春子は並んで帰路を辿り、住宅街の狭い道路を歩いてゆく。

 太陽は沈み、西の空は赤みが抜けた灰色へ、東の空からは黒が進攻して、空は藍色へと変わっていく。やがて黒が全てを掌握するだろう。


「そこで爺さんと出会ったなら、ずいぶん伝統がある祭なんだろうな。どうしてやらなくなったんだ? 去年もやってないよな? 」


 ケンがこの町に来てから二年と少し。昨年の十月も町にいたが、祭の喧騒を感じた記憶はなかった。


「さっき榊の馬鹿息子が『神社は俺ん家のもの』って言ってただろ? アイツの父親、今の榊家当主が独断で祭の開催を取り止めちまったのさ。アイツらは商工会にも町長にも顔が利く。いや、みんなが榊の顔色を窺っている。だから榊が『祭はやらない』と言えば簡単に祭は中止よ。榊家は神社を不良債権ぐらいにしか考えてないのさ」


「なるほど。だから神社の管理も杜撰になってるんだな。俺は神社なんかほぼ行かないけど、綿神社にかなりガタが来てるのは分かる」


 春子の話しによると、榊家も先代までは信心深く、畏敬の念をもって神社を管理し、年毎の祭事も欠かすことなく執り行っていたという。しかし現当主に代わると綿神社の扱いはぞんざいになってしまった。そこには畏れも敬いも無く、彼らの中から信仰心は完全に消え失せてしまったのだ。手入れされない神社は急速に老朽化が進み、今では取り壊しの噂まで出ている。

 綿神社がなんとか体裁を保てているのは、春子のような人々の支えあってこそ。

 古くからの風習を尊び、それを守り継いでいこうとする人々の手により、なんとか延命されている状態だった。


「全く罰あたりだよ。あそこに祀られているのは綿神様といって、この町を災いから救って下さった神様なのにね」


「前にも聞いたけど、綿神社が祀ってるのは海の神様なんだろ? 何で海から遠い、山の麓にある神社で海の神を祀ってるんだ? 」


「この地域には古い伝説があってね。いわゆる怪物退治の伝説さ。それが神社の成り立ちに関係してるんだよ」


 古い時代、この地域に『鬼鼠成きそなり』という怪物が現れた。人のように大きな鼠で、人も獣も関係なく命あるもの全てを集団で襲い、その肉を喰らう恐ろしい奴だった。亀裂から来たというこの怪物に、人々が恐怖して困り果てていた時、榊家が神様に助けを求めて幾百回の祈りを捧げた。その祈りを聞き届け、救いの手を差し伸べたのが海の神である綿神様だったという。

 綿神様は高波を使って鬼鼠成を追い回し、その全てを大きな岩穴へと追い立てた。追い詰められた鬼鼠成たちは、その穴に逃げ込むより他になく、次々に穴の中に飛び込んでいき、その姿を消したのだった。

 綿神様は岩穴を水で満たして鬼鼠成が出てこられないように封印し、この土地に根根付くことで、奴らが出てくることがないよう目を光らせてくれる事となった。

 その岩穴が『追立穴』。榊家とこの地域の人々は綿神様に深い感謝の念を示すため、綿神様が宿る『追立穴』を御神体として神社をつくり奉ったという。



「私たちが子供の頃から、つい数年前までは追立穴には綺麗な水が溜まっていたんだ。陽の光で青白く光る、そりゃあ綺麗な水だった。それがいつからか濁りだして、嫌な臭いまで漂いだした。水位もどんどん下がって、もう中に水が残っているのかすら分からんよ」


 ケンは追立穴のから流れてくる腐った水の臭いを思い出した。

 きっと昔は多くの人々が綿神社を敬い、心の拠り所にしていたのだ。人々は参拝や、祭事を通して綿神様への感謝を示していた。その頃は追立穴の水は澄み渡り、清涼で凛とした香りが漂っていたのだろう。

 しかし、今となっては少数の人を覗いて『綿神社』という存在は人心の中から消えつつある。かつて青白く輝いていた水は枯れ、負の気配に満ちた臭いを放つようになってしまった。


「きっとお怒りなんだよ。みんな綿神様を敬うことを忘れちまってるからね。あんなんじゃ鬼鼠成が出てきちまうよ」


「怪物が出てきても婆さんと爺さんは大丈夫だな。きっと綿神様も見てくれてるさ」


 そこまで話した所で宮田家に到着した。古い二階建ての日本家屋で、褐色の木材と褪せた漆喰が、この家の歴史を語り、特有の温かみを醸し出している。家には電気が点いておらず、まだ春子の夫である謙三は帰っていないようだ。


「今日はもう帰るのかい? 茶でも飲んでいったらどうだい」


「ああ、明日も仕事があるから。茶は神社に行く前に飲んだだろ。三杯も」


 玄関に持ち帰った荷物を置いて、玄関前のスペースに止められた黒いピックアップトラックに乗り込むケン。春子の顔は少し残念そうであった。


「爺さんにはお大事にって伝えておいてくれ」


「言っとくよ。まったく、こんな日に捻挫とはね」


 やれやれと首を振る春子に、ケンは微笑みながらエンジンを始動する。


「またご飯でも食べにおいで」


「ああ、また来るよ」


「じゃあ気を付けて帰るんだよ。今日は爺さんの代わりにありがとね」


 ケンは春子に手を振って、宮田家を後にした。

 

 

 宮田家からケンの自宅に帰るには一度街の方へ出なければいけない。暗く人通りもない住宅街を抜け、明るく賑わう街の中心を通り過ぎる。

 繁華街を抜けて、再び人通りが少なくなる外れさしかかった時、道路の先で赤い光が瞬いていた。


「あそこは……」


 市街地から離れ、喧騒とは距離を置いた閑静な土地に建つ豪邸。そこに数台のパトカーと救急車が停まっている。何人もの警官が敷地を出入りし、規制線が張られ、一種の緊張感が辺りを包んでいる。

 そこは榊家の邸宅だった。この町の人間ならば誰でも知っている町一番の豪邸。

 パトカーだけでなく救急車もいるという事は、少なくとも怪我人がいるのだろう。

 榊邸の前の道路は片側一車線をパトカーが塞いでいるため、警官の交通整理で片側交互通行となっていた。警官の手信号に従い、ゆっくりと榊家の前を通り過ぎる。その時、ケンの目に一瞬ある物が映った。普段ならば見過ごしていたであろう物。しかし、今日に限ってはそれに強い印象が残っていた。

 潰れた空き缶。

 それが庭にポツンと転がっているのが見えた。缶の柄に見覚えがある。それはきっと榊の息子が綿神社へと投げ込んだものと同じであった。

 たった一瞬の見えたにすぎない。さらに榊邸の前は渋滞になりかけているため止まる事も出来ない。何か引っかかるものを感じながらもケンは自宅へと車を走らせた。




 ケンの自宅は郊外にある小さな平屋建ての一軒家。敷地内には彼が建てた手製の小さい納屋が隣接している。駐車スペースに車を停めて、鍵を開けて真っ暗な家の中へ入ろうとしたところで、ズボンの左ポケットで携帯が振動している事に気づく。

 取り出してディスプレイを見ると『宮田 謙三』の文字。宮田家にいなかった春子の夫からの電話だった。

 『応答』を選択して携帯を耳に当てる。

「もしもし、どうした爺さん? 」

 いつもの調子で話しかけたケンへ、謙三の意気消沈した声が返ってくる。謙三の話しを聞いて、彼はすぐに車に戻りエンジンを点火した。





 ■■町立病院の病室。真っ白いシーツの上には、身体の至る所に包帯やガーゼが巻かれ、点滴と空気呼吸器を付けられた痛ましい宮田春子が横たわっている。

 たった今、手術が終わり病室の方へ移された。

 容体は安定し、峠は越えたという。

 ベットの横にはケンと謙三が並んで椅子に座っている。

 依然として沈んだ表情の二人を唯一慰めるのは、眠っている春子の顔には苦痛の色がない事だけだった。

 春子の状態を見て、ケンはすぐに察することが出来た。『これは暴力を受けた跡だ』と確信を持って言うことが出来る。


「爺さん。一体なにがあったんだい? 」


 ケンは自分でも驚くほどに弱弱しい声で宮田健三へ問いかけた。


「分からん。儂が帰ってきたら居間に倒れていたんだ。部屋の中は滅茶苦茶で、婆さんは血まみれだったよ」


 謙三は一度顔を手で拭った。ふう、と大きく息を吐く。


「強盗か? 警察には? 」


「連絡したよ。でも来てくれるのは明日になりそうだ。電話に出たのが知り合いの警官でな。色々と教えてくれたんだが、もう一つ大きな事件が起きていて、そっちに人が取られていると言ってた。榊家で酷い事件があったらしい。殺人事件だと。一家全員が亡くなったらしい。それも結構酷い状態みたいだ」


 ケンは帰宅途中に見た榊邸の光景を思い出す。アレは殺人事件の現場を封鎖していたのだ。


「救急車を呼んだ後に、家の中を確認してみたんだ。廊下に足跡が残っていて、それは寝室の方から居間へ続いていた。もしかしたら、靴を履いていなかったのかもしれん。人間の素足みたいな型をしていた。その足跡は寝室の押し入れの中から始まっていたよ」


「押し入れの中から? じゃあ犯人は――」


「婆さんが帰って来た時にはもう家の中にいたのかもしれん。押し入れの中を見たら天板が外れていてな。そこから天井裏に行けるんだが、おそらくそこに隠れていたんだろうな。婆さんの隙を見て逃げ出そうとした時、運悪く鉢合わせてしまったんじゃないかと思う」


「そんな……」


 ケンは頭を抱えた。『帰って来た時にはもう家の中にいたのかもしれん』という言葉がケンの心臓を貫いていた。


「すまない爺さん。俺がもう少し婆さんと一緒にいれば」


「なんでお前が謝ることがある。こんな事は誰にも予想出来んよ」


「でも、俺が付いていながら……」


「ケン、ケンよ。悪いのは犯人だ、落ち着きなさい。それにお前が残っていたら、怪我をしていたのはお前だったかもしれない。どっちにしろ儂は辛いよ」


 謙三は優しくケンの肩を撫でた。その手の震えと、萎れた花のように生気を失った謙三の顔。妻を傷つけられて、一番辛いはずの謙三に気遣われている。その事実を認識した時、ケンは猛烈に自分を恥じた。『俺の後悔など今はどうでもいい。今は俺が爺さんを支える時だ』


「爺さん、俺に出来ることがあったら何でも言ってくれ」


「ありがとうなケン。でも明日も仕事があるだろう。ひとまず婆さんは大丈夫だ。今日はもう帰りなさい。儂は泊っていくよ」


 謙三は春子の顔を眺めながら答える。その顔により深く皺が刻まれ、急激に歳をとった様に見えた。


「仕事なんていいんだ。明日から警察の捜査だって始まる。精神的にも辛いのに忙しくなるんだ。俺が傍で手伝うよ」


「儂は大丈夫だ。手伝ってくれるなら、週末にでも来てくれたらいいさ」


 その後も謙三は頑として譲る事はなかった。

 今晩、謙三は病室に泊って春子を見守るという事で、ひとまずケンは帰宅することになった。

 ケンが椅子から立ち上がった時、春子の顔を眺めている謙三の手に、お札のような物が握られている事に気づく。


「それは? 」


 ケンが聞くと謙三はそれを持ち上げて見せた。綿神社のお札だった。


「春子の顔の横に落ちていたんだ。危ない所を綿神様が護ってくれたのかもな」


 お札は飛び散った春子の血で黒く汚れていた。




 再び自宅へ戻る道中も、自宅へ帰ってからも、ケンの心中は波立っていた。

 『何故婆さんが襲われなければいけないのか』という犯人への怒り。

 そして『何故、もう少し婆さんに付き合ってやらなかった』という自身への怒り。

 

 行くあてもないケンがこの町に流れ着いた時、名も素性も知らぬこの男に春子は臆することなく声をかけた。


『アンタは飯を食わないといけないねぇ。ウチにおいで食わしてやる』


 別に食うに困っていたわけではない。こんな誰とも分からぬ老婆に付いていく理由もない。しかし、その時のケンは導かれるように宮田家へと招かれ、たらふく飯を食らった。料理から顔を上げた時に見た宮田夫婦の微笑みが、今も心に焼き付いている。



 気持ちは一向に凪に転じる気配が見えず、意識は内向きのまま、いつまでも回転を続けている。無意識のうちにダイニングテーブルの周りをぐるぐると歩いていた。テーブルの上にはまな板と包丁、今朝食べたリンゴの皮が置きっぱなしになっている。気分を落ち着けようと冷蔵庫からビールを取り出したが、やっぱり飲む気にはなれずシンクに捨ててしまった。爺さんから助けを求められた時、すぐに駆け付けられるようにしておきたかった。

 潰した空き缶をシンクへ投げ捨て、カランという空虚な音が鳴った。その時――


 ミシっ…


 天井から軋む音がした。一人暮らしの静かな家で、その音は明瞭に耳に届く。

 家鳴りだろうか。しかし、今までこんな音がした事はなかった。そして今日は風が強いわけでも、雨が降っているわけでもない。ケンが訝しんでいると再び。


 ミシ……ミシッ


 規則的に聞こえる軋み音。


 ミシッミシッ……


 それはまるで誰かが動いているような。

 その考えが浮かんだ時、ケンの脳裏に謙三が言っていた事が蘇る。


『天井裏に隠れていたんだろうな……』


 まさか、この家に?

 そんな事があり得るのだろうか? 婆さんの家からは結構な距離だ、わざわざ此処まで来てもう一度人家に潜伏する? わざわざまた天井裏に潜むか? 

 ケンの脳内に様々な疑問符が浮かんでいる間にも断続的に音は続いている。

 何かは分からない。しかし、天井裏には何かがいる。それは確実だった。 

 ケンは物音を立てないように移動して物置部屋へ向かう。そこには天井裏へ登るためのハッチが取り付けられていた。

 上にいるモノに気づかれないよう部屋の電気は点けない。懐中電灯をポケットに突っ込んで脚立を設置し、静かにハッチを開く。闇を湛える天井裏から、顔をしかめたくなる獣臭と、それに混じって微かな海水の臭いが降りてきた。

 ケンの脳内で一瞬、天井裏の闇と、何処かで見た闇が重なる。

 野生動物が入り込んでいるのか? と考えつつ、天井裏の梁の上へと身体を持ち上げた。

 ケンが乗っているのは、屋根の骨組みの下を渡っている頑丈な梁の上。縦横に走る梁の下には細い格子状の骨組みが一面に走っていて、そこに天井パネルが取り付けられている。骨組みとパネルは見るからに脆弱で、人が乗ったら簡単に崩壊するだろう。

 天井裏は完全な闇に包まれていた。逃げ場のない臭いが空間を満たしている。思わず顔を歪ませるケンの耳に再びあの音が聞こえた。


 ミシ……ミシッ

 ぶちっぶち……


 軋みと共にキッチンでは聞こえなかった音も聞こえる。何か弾力のあるものを引き千切っているような、そんな音。

 ケンはポケットから懐中電灯を取り出す。先ほど軋みを聞いたのはキッチンの真上。それは現在音がしている方向と一致している。

 そちらの方角に懐中電灯を向けて点灯させた。スポットライトの如く、光が円形に暗闇を切り抜く。

 いた。

 梁の上に人間大の黒い塊が蠢いている。よく見れば、それは黒い服を着た人間ではないか。コチラに背を向け、時々肩を揺らして何かをしている様子。突然ライトに照らされたというのに、全く気にする素振りを見せない。


『何をしている? 何が目的なんだ? 』


 ケンは最大限警戒しつつ、ゆっくりとソレに近づいていく。依然としてソレは振り向かない。

 黒衣の人間の細部が良く見える距離まで近づいたところで、ケンは驚愕した。


「なんなんだ……コイツは」


 黒い服だと思っていたのは全て黒い体毛であった。一本一本が太く、針のような体毛に全身が覆われている。

 毛並みはまるで、そう、鼠のようだ。


『人のように大きな鼠で――』


 ソイツが濃密な獣の臭いを放っている。皮脂を腐らせたような密度の高い不快臭。そして潮のような血液の臭い。

 ケンの動揺を知ってか知らずか、ソイツはゆっくりと振り向いた。

 口に咥えていたナニカが水風船のような音を立てて梁の上に落ちる。おそらく艶やかな毛並みの犬だったモノは喰いつくされ、もはや皮しか残っていないようだった。


『人も獣も関係なく――』


 べったりと血が付いた口には唇がなく、剥き出しになっている歯に付いた血液を、細長い舌が綺麗に舐めとっていく。

 人間だ。頭は完全に人間の形をしている。

 唇がないとはいえ口があり、鼻、耳も確認できた。

 怪物に一つだけないもの。目のある場所が完全に塞がっていた。目があるはずの場所には眼窩もなく、つるりと皮膚が伸びているだけ。

 頭部も真っ黒な体毛で覆われている。人の形をした獣の様相。ライトに照らし出されたそれは、人影が形を与えられたような姿であった。


 ミシ……ミシッ

 

 異様な怪物の姿に魅入られいると、 また音がした。目の前の怪物は動いていない。その音はケンの背後から。

 目の前にいる怪物の口の両端が、にちゃりと、音を立てて吊り上がる。

 ケンがゆっくり振り返ると、全く同じ姿、同じ顔をした怪物が、梁の上をケンの背後に迫っていた。ソイツも口の端を吊り上げている。


『命あるもの全てを集団で襲い、その肉を喰らう』


 ケンを前後で挟んだ怪物たちが、連続で息を吐き出すような不可思議な音を出し始めた。


「こいつらはまさか……鬼鼠成? 」


 それはきっと、この怪物たちの下卑た笑い声。


 この獲物はもう我らの手の中に。


 不安定な梁の上、前後に正体不明のバケモノ。ケンはまな板の上の鯉だった。


「榊を殺ったのも、婆さんを襲ったのもコイツらなのか……」


 そうなって真実に辿り着いた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る