第10話 未知

 はじまりは川端康成、伊豆の踊子。次に道尾秀介、月と蟹。そのあとは数冊挟んで、先々週が福永武彦、廃市。

 おおよそ月に一冊、多ければ二冊ほど。マロウドの看板ともいえる出窓に飾られる文庫本は、定期的に表紙を変え、席に座る人々の話題をさらっていく。

 誰がはじめに言い出したのか、知っているひとはいなかった。そもそも寄り集まった数人は、互いの名前も職業も知らないと言って笑った。知らなくても、話題さえあれば話せるものだよ。初老の男はなぜか襟を正しながら、顔を見合わせた数人に視線を送る。ちょっといたずらっぽい顔が胸をくすぐった。知らない物語のなかで盛り上げる大人たちを横目に、俺は中学生のころの読書感想文ぶりにまともに活字を開いた。

 いつの間にかそれが習慣になった。慣れたひとと比べたら、読むのはもちろん一読で入ってくる情報量も圧倒的に少ない。それでも、他人の習慣が自分に入り込んでくることが不思議と心地よかった。一冊読み終えるたびに、窓台に設置された木造りのブックスタンドに新しい本が置かれるのが待ち遠しかった。偶然大人数が集まり、盛り上がる瞬間にわくわくした。知らないことが、徐々に知っていることになっていく。日南ともそこで出会ったのだった。

「これってなんか意味があるのか」

「意味?」

「いや、毎回作家もジャンルも違うだろ。なにか体系的に意味があったりするのかと思って」

「理系一本だった潮見少年が、”体系的”なんていっちょ前なこと言うようになったやん」

「うるさいな」

 知り合ったばかりのころでも、日南がそうとうな読書家であることはすぐにわかった。どんな作家の、どんなジャンルが置かれても大抵は読んだことがあるらしく、久しぶりに顔を出してもすぐに話に乗ってくるのだ。比較的年配の客も多いこの店であっても、日南は浮くことなくすっと入り込んでいく。見た目はまるで夏休みの小学生みたいに、頭は寝癖をつけたまま、手足は焼けすぎて真っ黒なくせに。

 日南は口の端に笑みを引っ掛けたまま首をひねる。

「俺もそこまで知らん。でも最近はわりと古典文学とか純文学っぽいもんが続いとるけど、その前は流行りのハードボイルドとか、サスペンスのときもあったし。単に店長がハマっとるもんなんちゃう?」

 そう言ってコーヒーをすすった。今すぐに飲むわけではないけれど、パラパラと文庫本のページをめくる。好んで活字を手にするなんて、大学に入る前だったら考えられなかった。

「そういえば前にな、ここにレシピ本が置かれたことがあんねん」

 くく、と含み笑いをこらえきれずに日南が口元を抑えた。なんだそれ、と首を傾げると、テーブルを這うように声をひそめる。

「それまでは普通に文庫とかハードカバーとかやってんけど、急にぽんと、レシピ本が置かれたんや。しかも家庭料理とかカフェメニューなんかとちゃうで、お菓子のレシピ本、それもファンシーなピンク色の、対象年齢とか書いてあるやつ。店長、どしてもうたんや! って思うたけど誰も聞けへんやん、あの謎多き店長に。そのうち誰かが面白がって同じの買うてきて、普段は金ないって言うとるやつまで真似して自腹切って。結局菓子作りなんてしかこともないような野郎ばっかでピンク色の本何冊も囲んでなあ」

「想像もつかない光景だな」

「そらそうやろ、お前、うさぎさんのふわふわデコマフィンって言われてすぐに思い浮かべられるか?」

「一ミリも」

「俺かて駅前のクレープ屋が精一杯や。まさに未知の世界。最終的には彼女に作ってもらうならどれが良いかって話で盛り上がってん」

「露骨にモテなさそうな話題でいっそ清々しい」

 ケタケタ笑う顔が親しみやすく目尻を下げる。胡散臭い関西弁を操る日南だが、こういう顔をするところがどこか憎めないのだ。

「で、そういうお前は恋人できてへんのか」

 咄嗟に首のうしろをかくクセがでそうになって、代わりにテーブルのうえで黙って湯気をたてていたコーヒーをすすった。このクセは日南に指摘されてはじめて自覚したのだ。ありがたいような、憎らしいような。もったいぶんなや、と張本人がニヤニヤしながら頬杖をつく。

「そんな気ないですーって顔しておいて、しれっと彼女作ってそうなタイプやからなあ、潮見せんせーは。絶対バイト先の女子高生とかから告られたことあるやろ」

「あるわけないだろ、そんなの」

「隠さなくてもええて」

「付き合ってるやつもいないからな」

「はいはい」

 反論をものともせず日南の手が空を叩く。ひらひらと動く骨と皮ばかりの手。

「じゃあその顔は、好きな子ならおるって顔か?」

 否定の言葉がのどをつかえて、若干むせつつ非難の目を向けると

「ほんま、わかりやすいわ、お前」

 これくらいで勘弁しといたる、というニヤけ顔が癪だったけれど、これ以上追求されても困るので口をつむぐ。

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