早苗と成瀬の場合
早苗と成瀬の場合 前編
SNSから嘘が削除されたことにより、急速に発達したものがある。それは、隠語の文化である。元より関係者にしか分からない言葉でやりとりされることがあるインターネットだが、エックスデー以降はその動きがより顕著になった。
嘘が書けなくなったことにより、末端の駒を増やして犯罪行為をさせようとする者にとって、インターネットは少しだけ居心地の悪い場所になったのである。まともな人間が見ればどう考えても怪しげな呼び掛けであったとしても、それに気付けない者達がいる。しかし、呼び掛ける側はそうではない。見るからに怪しいものに引っ掛かるような阿呆をターゲットとし、まともな人間を篩にかけているので多少怪しまれても構わないのである。自らのしようとしていることの善悪も分からない間抜けを集め、逃げられないよう弱みを握って、本格的に犯罪行為を代行させる。それが悪事を働こうとする者達の狙いと言えるだろう。
早苗にとって、いくら話す機会が多かったとしても、クラスメートは所詮クラスメートでしかなかった。些細なことで親ガチャなどと宣う子供と同じところに押し込められていることが、不愉快で仕方ないと心から思っている。そのくせ彼らは、暴力も暴言もないところで個人を尊重されながら、何にも脅かされることなく眠りに就けるのである。十七歳の世界は狭い。実際に見たもの、聞いたもの、触れたものだけが早苗の人生を構成していた。彼女がこの世をばかばかしいとしか思えないのは無理も無いだろう。せめて母がいればと思うが、彼女を生んだ女は物心つく前に家を出ていったので、顔すら覚えていない。
北国の夏、天候によっては夜に一枚羽織りたくなる日も少なくない。寂れた公園のベンチに、出来るだけ小さくなって座る。通行人に見咎められたくない心がそうさせていた。早苗は父を憎んでいたが、スマホを買い与えられたことについては感謝をしている。高校生にもなると、所持していない者は当然居ない。いたとすれば、よほど特殊な事情を抱えているか、過去にゲームのやりすぎ等で取り上げられた者だけだろう。今時は小学生ですら持っているのが普通の代物である。外面を何よりも重んじる早苗の父は、彼女がそういった形で普通の枠から外れることを嫌ったのだ。こんな歪んだ環境でも、傍目に見れば早苗は正常に育っている。非行の傾向も無い。成績も中の上ほどで、平均よりも少し偏差値の高い高校に進学することができた。進学先でも、一年以上の間、成績を大きく落としたことはない。ちなみに言うと男の影も全く無い。要するに、早苗が携帯端末を没収されるような理由を作る子だとは、誰も思えないのである。家庭環境の異常さに勘付かれることを避けたい父は、仕方なく彼女の為に月数千円を支払うことにした。
だから早苗は、ベンチに座ってスマホを握りしめている。帰りたくない気持ちと帰るしかない現状を見つめて、ほとんど日が沈んだ町の中に取り残されようとしていた。
ここに座って、もう二時間が経とうとしている。少し前までは、夕飯の匂いを嗅いで罪悪感に息が止まりそうになっていたが、それも落ち着いた。
早苗はおもむろにスマホの画面を点ける。それは、久方ぶりに時刻を確認する以外の用途で使われようとしていた。
「なんでもいい」
小さくそう呟くと、早苗はSNSを開いた。中学生の頃、もう少しだけ彼女が愚かで誰かに救われたがっていた頃に、こっそりアカウントを作った。こっそりと言っても、早苗の父は機械に疎く、SNSの全てを出会い目的と自己顕示欲に狂った著名人の玩具だと思い込んでいるタイプなので、彼女のアカウント作成が発覚することはなかった。いや、むしろそうでなければ、早苗はSNSに居場所を求めたりしなかっただろう。体に痣が増えることも、自尊心を酷く傷付ける言葉を投げ掛けられることも、早苗が最優先で避けてきた事態である。
アカウントさえあれば、ログインして人の投稿を見ることができる。ふらふらと動く指先、不規則に思考が切り替わる頭の中。早苗は自らの望みと向き合ってみる。帰りたくないということ以外に何も思い付かなかった。クラスメートと話をして気が紛れることもあったが、数時間後には家に居るという事実を思い出すと素直に笑えなかった。だから、根本の原因はあの家に帰らなければならないことだと考えている。
どうせ自分が口にする言葉は受け入れられない。そんな諦めを小さい頃から植え付けられていたのだ。今日は帰ってはいけない。今の早苗が唯一信じられるのは、その直感だけである。
結果、早苗は数ある中でも最悪な選択肢を選ぶことになる。早急に、住む場所が、つまり金が必要だった彼女は、闇バイトについて調べ始めたのである。援助交際や体を売るようなものが先に頭に浮かばなかったのは、昨日彼女の身に起こったことに直結してしまうから。未遂で済んだが、今日も同じとは限らない。それに、死ぬならもうそれでいいという投げやりな気持ちもあった。だから彼女は今日、やっと立ち上がったのである。
しかし、これまで後ろ暗いことに関心を寄せてこなかった早苗はすぐに落胆した。テレビや学校の防犯指導で、闇バイトをしないよう注意喚起されている場面を見たことがあったので、調べれば簡単に見つかるような、向こうから若い馬鹿を探してくるようなイメージがあったのだ。それは内情を知らない人間の浅い想像である。世界が変わってしまう前の状態を早苗は知らないが、今の彼女から見れば、ブラウザの検索結果も、SNSの検索結果も、クリーンそのものだった。闇バイト等というワードを含んだいかにもな検索をすると、真っ先に警察のアカウントが表示されるほどである。
途方に暮れた彼女は、注意喚起するアカウントの投稿をもう一度見た。さきほどはしっかりと目を通さなかった画像をタップして中身を読んでみると、これらの言葉が含まれる場合は特に注意するようにと書かれていた。しめたと思った。早苗は人の善意を逆手に取って、検索に使用する新たな言葉を手に入れたのである。
検索をしてみると、ようやく「それっぽい」と思える書き込みを探すことが出来た。しかし、隠語が多過ぎて素人には意味が分からないものも多い。それぞれの意味を調べて解読するしかないだろうと、早苗は再び検索ワードを入力しようとした。
「あ」
手元が狂って、検索したワードの履歴をタップしてしまう。つまり、ヒントが何も得られなかった単語を使って、再び検索を掛け直したことになる。そこで、早苗の指先が止まる。頭の中で考えていることと指先の動きがちぐはぐで、座ったままでいるのにどこかフラフラするような調子が抜けなかった早苗だが、ある投稿を視界に収めた瞬間、まるでカメラのピントが合うように何もかもがすっきりとした。
——生体に関わる内職。即金高収入。日当十万。数日間の雇用を予定。今から1時間以内に連絡取れる方限定。DM下さい。
即金高収入、これが間違えて再検索したワードである。素っ気ない言葉だが、事実であれば理想的な条件と言えるだろう。内職というのも早苗には魅力的に映った。
「さっきは、なかった……」
か細い声が空気に染み込む。たった今投稿されたばかりの、高条件のアルバイト。見るからに怪しいのは間違いない。注意喚起する画像の中にも、即金を匂わせる高収入バイトは危険だと書かれていた。
「……生体」
生体に関する日当十万のアルバイトとはなんだろうか。そう考えを巡らせながら、早苗は件の投稿をした者のアカウントを確認する。作られたばかりのもので、他の投稿は無かった。アカウントIDも自動生成されるランダムな配列にしか見えない。まともなネットリテラシーを持つ人間ならば、怪しくない要素が無いと感じるだろう。早苗もそう思った。だからこそ、この募集投稿に惹かれてしまった。
先ほどまで早苗が見て来た募集ワードは、どれもテンプレートがあるかのように、条件の書き方が似通っていた。箇条書きで無駄が無いのはいいが、単語を書き連ねられると、早苗のような事情通ではない人間は目を回すことになる。しかし、この募集投稿は、きちんと言葉で書かれている。用語を使用することもなく、変に善人ぶることもしない。生体を扱うだなんて書く必要のないことまで書いてある。本物の書き込みを見た後の早苗に言わせれば、これはすごく素人くさい書き込みであると言わずにはいられない。だからこそ切羽詰まった誰かの、本気の募集だと思えた。
蛙の合唱が近くの田んぼから響いてきて、早苗のため息をかき消す。彼女はこの書き込みに、一種の運命のようなものを感じていた。さらに、後が無い自分が己に見せている幻想かもしれないと、そこまで考えながらも、この蜃気楼のような運命に縋ろうとしている。
DM、いわゆるダイレクトメール機能の画面を開く。とりあえずは用件を聞きたい。早苗は恐る恐る、メッセージを入力する。バイトの書き込みを見ました、と入力すると、数ミリ指を動かして送信を押す。たったこれだけで見ず知らずの人と繋がれることを、有り難くも恐ろしくも思った。
早苗は普段、SNSを見ない。見えない誰かと何かに期待を抱いていた頃の彼女だが、すぐに顔の見えない者達を視界に入れないという選択をした。クラスの中でうんざりだと思っていたことが数百人、数千人という単位で行われているのだ。他愛もない家族への不満や些細な喧嘩は、全てが早苗にとって贅沢に見えた。自分を上回る不幸を抱いて生きる少年少女も存在するはずだと、分かってはいた。しかし、あまりにも巨大なノイズの中で、彼女は同志を探す気にはなれなかったのである。
早苗はきちんと理解している。世の中には自分よりも不幸な人間がたくさんいることを。家すら無い子がいる、虐待で殺される子がいる、食うに困ってそのまま餓死する子もいる。半端な不幸というゴミのような揺りかごの中で、早苗の人間性は育まれているところだった。
——080-××××-××××
手元の振動に気付いて視線を落とすと、そこには番号のみが記載されていた。DMの返信である。これはテストだろうかと訝しむ早苗だったが、その動きに澱みはなかった。まるで自分から問い合わせて待っていた番号に連絡するように、早苗は何の躊躇もなく電話を掛けた。
「あの」
「初めまして」
「あぁ。女の子?」
「はい。あの」
ふーっと息を吐く音を響かせながら、ダイレクトメールの相手は早苗に応対した。早苗は、驚いて上手く返事ができないでいる。元々コミュニケーションが得意なタイプではないが、それでも努めて普通に会話しようとしていた筈なのに。理由は明白、電話の相手もまた女だったのである。
「どこに住んでいる? 何県?」
「あの、北海道です」
終わったと思った。四十七ある内のほとんどは県で、相手は県に限定して訪ねた。ということは、この急ぎのミッションに離島はお呼びでないのだと、早苗は即座に察したのだ。しかし、電話の相手は小さく笑った。
「どこ?」
「室蘭、です」
「っはー……」
逸る気持ちが抑えられない、そんな調子で女は早苗に所在を訪ねた。しかし、返答を聞くと深いため息をついてみせる。せっかく北海道のどこにいるか訊いてもらえたのに、と早苗は素直に残念に感じた。相手が胡散臭い女であることはあまり気にしていない。自分をどうにかしてくれるかもしれない相手を見つけて、声を聞いて実在することを確かめたというのに、機会に恵まれなかった。それが滅多に他人を求めない彼女の脆い部分を突っついたのである。
「合格」
「へ?」
突然告げられた合格という言葉に、早苗は硬直する。インターネットで、偶然のタイミングで、北海道の室蘭市が合格になるような場所で、妙なアルバイトの募集を掛ける。再び運命という言葉が頭を掠めそうになった。しかし、次に何を訊かれるかを考える方が先だと判断する。もしかすると二十歳以下は弾かれるかもしれないので、嘘でも二十歳と答えようと決心した。
しかし、相手のトリッキーさは、早苗の予想をいつも超えてきた。ごそごそと電話の向こうで音を響かせると、相手の声がする。女性にしては低い声で、少し元気が無いようにも聞こえる。
「三時間で行くから待ってて。人目に付かない場所で待機するように」
「え、あの」
「自分の居場所を知らせる機能があるから。DMで送って」
「ま、待って下さい!」
何も問われない。それが逆に早苗の不安を煽った。本当に連れ去られて酷いことをされるだけかもしれないと思う。何故ならば、内職をさせようというのに、早苗のプロフィールについて一切触れようとしないからだ。そしてすぐに、ただの誘拐は有り得ないと思い至る。待てと言った直後に気付いたのでもう遅いが、SNSでは嘘がつけなくなったのだ。必ず仕事は用意されている、少なくとも今の段階では。
「なしたの?」
「あ、あの」
電話の女は、見方によっては自分よりも切羽詰まっているかもしれない。早苗はそう感じた。声の雰囲気や話し方から大人の女性であることが想定されるが、それ以外は何も分からない。悟らせないように振る舞っているというよりは、そこまで気が回っていないような印象を受けた。
そうして何を訊くべきか悩んでいると、女は低い声で短く笑った。
「言い忘れていた。私は
名前はこの場において最もどうでもいい要素の一つであったが、それを優先したところに、早苗は成瀬の人柄を見た気がした。
「あ、わたしは、その、早苗」
「今どき本名でSNSをするなんて。まぁいいや。したっけ」
「え、えっと」
「早くGPSを送ること」
「は、はい」
そして呆気なく通話は終了した。未成年であることを告げられなかった、それが早苗の心残りである。もちろん、告げない方が都合がいい可能性もある。しかし、制服を着ているので偽りようがないことに気付いたのだ。悶々としながら顔をあげると、少し離れた街灯に、大きな蛾が勢いよく突進しているところだった。
「……きしょ」
早苗は周囲を見渡した。何処から来るかは分からないが、三時間の内に、成瀬という女が自分を迎えにくるらしい。GPSでデータを送ることは簡単だが、早苗は成瀬を待つ場所としてここが適切かを悩んでいた。しかし、近くに制服を着た子供が居て違和感の無いスポットなどない。
室蘭は港町であり、北海道全体で見れば比較的栄えている方と言えるが、夜に人通りが多い土地柄ではない。札幌のように人が多い都市であればまだ紛れ込めたかもしれないが、それは不可能である。早苗にとって都合のいい起こり得ることと言えば、成瀬が到着するまでの間、誰もこの公園の前を通らないことである。新たな居場所を求めるよりもそちらの方がよっぽど可能性が高い。
下手に移動して面倒なことになるくらいなら、ここに留まる。そう決断した早苗は、ついに成瀬にDMを送ってしまった。早苗は電話に非通知設定をしていない。つまり、電話番号を知られ、現住所も自ら知らせてしまったということになる。自宅の住所ではないだけマシだが、だとしても正気の沙汰とは思えない行動である。
思い切った行動を取った早苗は、改めて周囲を見渡した。すべり台、ブランコ、球体のジャングルジムのような遊具の他、アスレチックがある。身を隠す場所として、彼女が選んだのはアスレチックだった。周囲の気配を窺いながら近くまでやってくると、木製の器具が早苗を出迎える。煤けて少しほつれたロープを見てたじろいでしまったが、他に選択肢は無い。音を立てないように小さな階段を一段飛ばしで登ると、筒状のトンネルを目指す。覗き込んでみると、早苗が想像していたよりは綺麗な状態だった。見つかるリスクの高いベンチと、この中では発見される確率が格段に違う。細く長いため息をつくと、早苗は覚悟を決めた。
中に足を入れてトンネルの中に寝そべってみると、早苗の背丈より少しだけ筒のほうが長かった。こうして彼女は新たな待機場所を得た。隠れていることをDMで成瀬に伝えると、ゆっくりと目を瞑る。
必要なことを終えると、それを待ち構えていたかのように、早苗の心に嫌な記憶が広がる。癇癪を起こす父の機嫌を損ねないよう、彼女は常に選択を迫られていた。腹が減ると面倒が起こる確率が上がるので早めに何か食べさせること。机に向かっている間は小言を投げかけられることはあれどトラブルにはなりにくいので、宿題は父が帰ってきてからすること。生活のサイクルが父の機嫌を基準にして定まっており、リスクを最小限にした状態で、話しかけられたことについて応対する。それだけではまた機嫌が悪くなるので、一晩に一度は早苗の方からも話しかけることにしていた。話題も言い回しも、全て嫌な洗練のされ方をしていた。それでも彼女が暴力から逃れられなかったのは、勝手に機嫌を悪くして帰ってくる日が多いからである。雰囲気から、宥めるべきか、気付かないふりをして夕飯の支度をすべきかを判断し、大体が失敗に終わる。そもそも正解が存在しないのだ。それが彼女の日常だった。
しかし、昨日は違った。泥酔して遅くに帰ってきた早苗の父は、やけに機嫌がいい。この時点で、早苗は妙な予感に緊張していた。眠れる気はしなかったが、早めに布団に潜り込むことにした。いちいち物音の大きい父のせいで、早苗には頭まですっぽりと布団の中に入れて、隠れるようにして寝る癖がついている。しばらくすると、間仕切りの引き戸が開く音がした。居間の他にある一室は早苗に与えられていたが、この父がプライバシーを尊重するわけもなく、勝手に戸を開けられることは日常茶飯事だった。寝ていると知った時の父の反応は二つである。大抵は怒鳴って早苗を叩き起こして用事を言いつけ、運がいいと舌打ちをして戸を閉める。だが、この日はどちらでもなかった。父は「寝てるのかー?」等と声を掛けながら、早苗の部屋に入ってきたのである。イレギュラーに早苗の身は固くなる。次に彼女が感じたのは衝動だった。思わず「ひっ」と声を上げて、布団越しに感触を確かめる。父は早苗に覆い被さって息を荒くしていた。酒の臭いを漂わせて、接ぎ取るために布団を掴む。早苗は頭の上に手を構えて布団を死守しながら叫んだ。
何をしようとしているのか、分からないほど子供でもない。性暴力だけはされないからまだマシと考えることもあった。どれほどそうしていたかは分からないが、とにかく父は早苗から離れていったのである。布団越しに殴られても大声を上げ続けたお陰かもしれない。虫の居所が悪ければ娘を殴ればいい、殴れば言うことをきくのだから、という彼の中にあった構図が崩れたのが要因の一つである可能性はあるが、早苗にそれを確かめるつもりも術も無かった。
最低な夜を過ごして、次に奇妙な夜を迎えている。今頃早苗の父が帰宅し、彼女の不在を確認している頃だろう。大変なことをしているというのに、どこかふわふわとした調子で、早苗には実感が無かった。昨日の夜から、ずっと夢を見ているような心地で生きている。
ミイラが柩に収まるような格好で、胸元にスマホを構えて物思いに耽っていた早苗だったが、電話が鳴って意識を引き戻された。見ると、ディスプレイには父の文字。着信拒否というボタンを押してまたスマホを胸の上に置く。平時であれば恐ろしくてできなかった事が、非現実的な状況が早苗を大胆にさせた。もっと早くにこうしていれば昨晩の不要な悪夢を体験することはなかった、という後悔がないと言えば嘘になる。しかし、このまま大人しくしていれば悪夢はさらに早苗を蝕んだだろう。だから彼女はこの夜を手遅れだとも、無駄だとも思わなかった。これから自分がどうなったとしても、この決断を悔やみたくないと考えている。
「しつこ……」
また胸の上で端末が振動する。着信拒否などしたことがなかった早苗は違和感に気付けなかった。指定した番号からの着信で振動することは無くなるのだが、知らなかった早苗はのんびりとした調子でディスプレイを確認して驚いた。そこには父の名前ではなく、番号が表示されていたのだ。
「これ……さっきの、人?」
視線を右斜め上にずらすと時刻が表示されている。約束の時間まであと三十分ある。DMに表示された番号はタップするだけで電話が架けられる仕様になっている。そのため番号は暗記していないが、数字の配列が似ている気がした。
「はい……あの、もしもし」
「あ、もう見つけたから平気」
「はい?」
トンネルの中で反響した音は、二重になって早苗の耳に届く。見つけた、その言葉の意味を問うよりも先に電話が切られ、トンネルを抜け出すよりも先に「げ」という声が響く。
「高校生?」
「あ、はい……」
SNSでアルバイトを募集した愚か者と、それに乗った愚か者の邂逅である。小島同士を繋ぐように設置されたアスレチックのトンネルは、ちょうど成瀬の視線の高さに存在しており、中から顔を出した早苗と目が合った。首周りが特徴的な衣装は、明らかにセーラー服のそれである。成瀬は想定よりも若い人材を引き当ててしまったことに、深いため息をついた。しかし、彼女の頭の中にあるのは未成年を巻き込んでしまったという自責の念などではない。目的を果たせる人材ではなさそうという落胆と、確認を怠った後悔であった。
「親は?」
「父だけ。その、家に帰りたくなくて」
「……分かった」
トンネルから這い出た早苗は階段へと回り、成瀬の前に戻ってきた。並ぶと、早苗は子供のようであった。まだ未成年であることを差し引いても、小柄な早苗と、長身の成瀬が並ぶと、早苗の未熟さが目立つ。
早苗の見立てでは成瀬は二十代後半から三十代前半であり、スキニージーンズにVネックのシャツという軽装だった。夏とはいえ肌寒そうに見えるが、早苗を回収したあと、すぐに車に乗り込む予定なので本人はあまり気にしていない。遠くにある街灯の明かりだけを頼りに、早苗は成瀬を見つめる。どうにでもなれと思う反面、成瀬がどんな人物であるかを分析していた。
「行こう。そこに車停めてあるから」
「……はい」
成瀬はちらりと路肩に停めた自身の車を見やる。はっきり言って、成瀬は美人だった。ただそれだけのことが、早苗にいい印象を与えている。本人も見た目に絆されている自覚があった為、見る目が濁らないように厳しく成瀬を監察しようとしたが、今のところ怪しげな募集をかけて片道三時間掛かるところからすっ飛んでくる以外に妙なところは見当たらない。緩くウェーブした髪はパーマか天然か判別がつかない。長い髪を片側だけ耳にかけ、ポケットから煙草を取り出して口に銜える姿を見て、ドラマのようだと思った。
煙草に火を点けた成瀬は、細く煙を吐き出した。その姿を見て、早苗は漠然と不安に感じる。しかし、早苗の心が決まるまで成瀬は待つつもりはない。煙を吐き出すと、早苗を先導するように歩き出した。
早苗のスマホのディスプレイは二十二時過ぎであることを示している。帰りたくないと願う早苗だが、帰れる場所もなかった。父の着信を拒否した挙句、この時間まで帰宅していないのである。早苗はすたすたと車に向かう成瀬に声を掛けた。
「あ、あの!」
「何?」
「スマホ、壊した方がいいですか?」
「……え、なんで?」
成瀬は何も知らされていない。聞こうとも思わなかった訳だが、こうなると事情を聞くしかないだろう。彼女は早くこの場を離れたかったが、早苗の思い詰めた表情を見ると、ただ事ではないように思えた。
「いや、あんまり詳しくないですけど、GPSとかで、追われないかなって」
「あぁ……貸して」
成瀬が手を差し出すと、早苗は素直にその上に自身の唯一であるライフラインを預けた。成瀬は受け取った端末を頭の上まで振りかぶり、全力で地面に叩き付ける。地面に当たったスマホから、何かが破損する音が鳴った。成瀬と早苗は目を見合わせ、成瀬の方がスマホを拾い上げる。画面を見ると、ディスプレイが粉々になってはいるが、まだ電源は点いていた。成瀬は車へと歩き、早苗も後を追う。
成瀬の車は黒いSUVだった。ノーマルではあるが、元のデザインのせいで早苗には少し威圧的に見える。ロックを解除して後ろの席のドアを開けると、早苗に手招きをした。
「先に乗ってて」
「あ、はい……」
車の中には、誰もいない。仲間が待ち伏せしている可能性も考えた早苗だったが、とりあえずは成瀬と二人のドライブになるらしいことを察すると、彼女は大人しく車に乗り込んだ。成瀬はドアを閉め、早苗から預かった端末を前輪のすぐ前に置く。
車に乗り込んだ成瀬はすぐにエンジンをかけた。思っていたよりも派手な音に、早苗は肩を震わせるたが、成瀬は構わず車を少し前進させる。開いてた窓からパキャっという音が響いた。音を確認すると、成瀬は車を降りて、今度こそ再起不能になったスマホを回収した。
「ほら」
「わぁ……」
運転席に戻った成瀬は、今度こそ車を発進させて、粉々になった端末を左手で早苗に渡す。外面を気にする父が買い与えてくれたものが、ものの数秒で全壊したのは少し爽快だった。
「早苗は、本当に家に帰りたくないんだね」
「はい」
「……こんな得体の知れないおばさんによくついてくるよ」
「お姉さん、です」
「今年四十のおばさんを捕まえてお姉さんとは。早苗は見る目が無いね」
「四十!?」
早苗が四十前後の女性についてほとんど見た事がない、ということはない。それくらいの年齢の母を持つクラスメートはこれまでに何人も見ている。彼女が知る中で、成瀬は最も綺麗な四十歳、もといまだ三十九歳である。
「あの、これからどこに?」
「滝川」
「あー……」
早苗は反応に困っていた。てっきり札幌と言われるとばかり思っていたせいで、不意を突かれたような気持ちになっていた。根拠と言えば、成瀬が美女であるということと、後ろ暗いアルバイトは都市に多いだろうという完全な偏見である。HTBで聞いたことがあるだけの土地の名は、たったそれだけで早苗を不安にさせた。
二人が話をしている間にも車は進む。すでに交通量が少なくなっている時間であり、成瀬は早苗がヒヤヒヤするほど飛ばしていた。見覚えのある通りを走るこの車が、目下どこを目指しているのか、早苗には消去法で想像が付いた。
「高速、乗るんですか?」
「当然。全線高速で行く」
成瀬の言う通り、室蘭市から滝川市までは高速が通っている。この間、一度も降りることなく市内に入ることができるのだ。二つの市は距離としてはかなり離れているが、成瀬が三時間足らずで室蘭まで到着したのにはこういったからくりがあった。後部座席は広々としているが、ガラスにスモークが貼ってあり、外の景色がよく見えない。外側からも然りで、だからこそ成瀬は早苗を後ろに乗せたのである。
「あの、助手席行っていいですか?」
「高速に乗ってからなら」
涼しい顔をしてハンドルを握る成瀬だったが、高速道路の入口を目指し、気は急いていた。一刻も早く滝川に戻りたい気持ちと、早苗を逃げようのない場所に連れ込みたい気持ちがない交ぜになっている。これから何が起ころうとしているのか早苗には一切想像がつかないというのに、スマホを破壊して昂った表情が未だに崩れていない。若さとは愚かしさだ。成瀬は早苗の横顔から、そんな分かり切った教訓を得たような気がした。
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