松の香りも届かぬ内に

nns

プロローグ

 デジタルの言葉に重さがあるとするなら、例えば一バイトが一グラムだとしたら。あの日、世界から何トンの質量が失われたことになるのだろうか。


 それは大いなる意思により敢行された。SNS上の書き込みが、世界中から一斉に削除されたのである。

 消えた投稿には一つの共通点がある。それは、嘘が含まれていること。普段何気なく使用していたツールの在り方が唐突に変わってしまったのである。人々は、国籍・身分・性別問わず混乱した。

 削除対象となった個人のやりとりは、ほとんどが第三者には関係のない些末なものである。本人にしてみれば一大事かもしれないが、嘘が発覚して困るのは当人同士のみで、人命に関わる可能性は極めて低い。最も注目されたのは芸能ゴシップの類い……ではなく、政治家の発言である。ある者は家族と円満である様子が、ある者は会合に出席する旨の投稿が削除されていた。個人であればその投稿自体が他人の記憶にない場合もあるだろうが、注目される立場にある人間は違った。国のトップによる、和平を望む投稿が消えて大問題になるケースもあった。

 誰が定めたか分からない嘘の検閲は、大変厳しいものだった。写真投稿がメインのSNSでは、加工した画像が使用されている場合は問答無用で削除された。動画投稿専用SNSでは、子供や動物など家族の動画を投稿する者のアカウントがまるごと削除されるケースがあり、理由について物議を醸している。

 こうして波及した騒動により、インターネットは混沌を極める。まるで数十年前のようだと、その空気を歓迎する者もいたが、彼らは少数派と言わざるを得ない。多くの者は不安を煽られ、嘘が発覚することや、嘘の痕跡を見つけてしまうことに怯えた。SNSを辞める者も少なくなかったが、それも全体で見ると半数以下の派閥であった。面倒を抱えるリスクを負ってでも、インターネットを通じて人と繋がりたがる者が大勢存在するのだ。人は愚かだと、世界から嘘の投稿を消した者は笑っているかもしれないが、その姿を確認できた者はいない。

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