第15話 どんな月凪でも受け入れられるから

 頬を押す感覚で目覚めかけていた意識が浮上し、おもむろに目を開けた俺を覗き込んでいたのは、この時間にいるはずのない月凪だった。

 さらりと流れる白銀色の髪。

 長い睫毛を瞬かせながら、空色の瞳を細めて緩く笑む。


 どうやら頬に当たっていた感覚は、月凪の指によるものだったらしい。


「――起こしてしまいましたか、すみません。あまりに可愛らしい寝顔だったので、つい出来心で」

「……可愛い寝顔なわけがないんだがなあ。それを言うなら月凪の方が可愛かったぞ。昨日、映画を観ながら寝落ちしてたし」

「…………やっぱりですか。珀琥が運んでくれたんですね。ありがとうございます」


 照れくさそうに苦笑しつつ、月凪が感謝を伝えてくる。


 ……この分だと昨日口走ったことは覚えていなさそうだな。

 てことは、俺も話さない方がいいだろう。


 不注意で酔ってしまって出てしまった言葉を信じるほど、俺も純真じゃない。

 そうだったらいいなとは思うけど、それはそれ。


「ああ、言い忘れてた。おはよう、月凪」

「おはようございます、珀琥」


 いつものように言い合って、笑みを交わす。


「寝起きでこんな風に言い合えるのって、なんだか新鮮です」

「確かにな。お互いそれなりに用意してから会うわけだし」

「寝起きを見られるのはちょっと恥ずかしいですけど、珀琥の寝顔を見られたのでお相子ということで」


 俺の寝顔が月凪の寝顔と同価値とは到底思えないが、月凪の中ではそうなのだろう。

 それが嬉しくもあり……昨夜、月凪が酔って口走っていた言葉が脳裏を過る。


『こんなにはくとのことがすきなのに、どーしてなんにもしてくれないんですか……?』

『にせものでもだいすきじゃなきゃ、こんなことしないのに』

『はくとはぜったい……ぜーーったい、わたしだけのものなんですから』


 衝撃的過ぎて、一言一句覚えてしまっている。

 なにせ、それが意味するのは俺たちの関係を根底から揺るがす感情であるからして。


「……先に日課のランニング行ってくるけど、月凪はどうする?」

「折角なのでご一緒させてください。私が置いて行かれるだけかもしれませんが」

「置いて行くわけないだろ。ペースは合わせる。真剣にやってるわけでもないから、ウォーキングになっても構わないさ」

「では、先に動きやすい服に着替えましょうか」

「持ってきていたのか」

「備えあれば患いなし、ですから。……一緒に着替えます?」

「脱衣所行け」



 別々に着替えを済ませ、最低限外に出られる程度の身支度を整えてから、月凪と揃って外へ出た。


 俺も月凪も運動に適したジャージ姿。

 走るから月凪の長髪は一つ結びに纏められている……結ったのは俺だけど。


 いつもと違いスポーティーな雰囲気の月凪が、運動前の軽い準備運動をしていた。


「月凪って運動苦手じゃなかったか?」

「……お世辞にも得意とは言えませんけど、走るくらいは普通に出来ます」


 不満そうに見上げられて、それもそうかと納得する。

 そこまでの運動音痴なら日常生活にも苦労しそうだ。


「並走するから、ペース早かったら教えてくれ」

「別に、気を使わなくていいんですけど。私が勝手についてきただけですし――」

「一人にするのが心配だし、俺が月凪と一緒に走りたいんだ」


 手を差し出せば、照れているんだか困っているんだかわからない表情で手を取って。


「……まったく、そういうことを言えば丸め込めると思っていませんか?」

「他に誘い文句を知らないんだよ」


 そんな一幕を挟んで、俺と月凪はランニングを開始した。

 いつもよりは幾分か遅いペースで、月凪と早朝の街を並走する。


 早朝の空気は七月を控えていても涼しく、運動に適した気温だ。

 まだ早朝のため、行きかう人の姿は極端に少ない。

 月凪と一緒だとどうしても人目を集めてしまうから助かる。


 一定のリズムで響く二つの靴音と、息を継ぐ音。

 一人じゃないのは久しぶりだ。

 隣に誰かがいるだけで普段とは一味違うように感じる。


 もちろん、楽しいという意味で。


「無理してないか?」

「だい…………じょうぶ、ですっ!」


 隣を走る月凪へ聞いてみれば、若干息を乱しながらも強気な言葉が返ってくる。

 額に浮かぶ玉の汗。

 髪を結っていることで見えている白いうなじが眩しい。


 こうしてみると、やはり魅力的な異性なんだなと自然に思う。


 とはいえ……ここまで月凪に体力がないとは思わなかった。

 毎日軽くでも走っている男子高校生と比べるのもどうなのかって話はあるが、それにしたって息が上がるのが早い。


 もう少しペースを落とすべきか?

 いや、それは流石に月凪のことを舐めすぎだな。


 倒れそうになったら強制的に止めればいいか。

 連れてきたのは俺なんだから、その責任くらいは取ろう。

 まかり間違ってもこんなことで怪我なんてさせるわけにはいかない。


 それから二十分ほどかけて、いつものコースを走り抜いた俺と月凪がマンションの前に到着した。


「月凪、大丈夫か?」

「はぁっ…………大丈夫、ですけど……ちょっとショック、です。私、こんなに体力がないなんて」


 息を切らして膝に手を突き、汗を浮かべながら答える月凪の表情は渋い。

 悔しそうにも見えるのは向上心の高さが窺える。


「こういうのは積み重ねだからな。籠りがちだと運動不足になるだろ?」

「……流石に、自覚しました。運動は、した方がいいですね……最近、ちょっと太っ――お肉がついてきた気もしますし」

「そうか? ただでさえ月凪は細いんだから、少しくらいは――」

「ダメです。許せませんし、恥ずかしいです。だって、毎日珀琥とくっついてるじゃないですか。その度に『太ったな』とか思われるの本当に嫌なので」


 真剣極まる眼差しには有無を言わせぬ圧があった。


 ……まあ、女性の心理的には太りたくないのもわかるのだが。


 そんなことを言われてしまえば、意識せずとも月凪を抱きしめていた時の感覚を思い出してしまうわけで。


「まあ、俺はどんな月凪でも受け入れられるから安心してくれ」

「それは優しさじゃなく妄信なのでやめてください。あと太ってません。太ってるとしたら珀琥が作るご飯が美味しいのが原因です」

「そりゃどうも。とりあえず帰るぞ。シャワーは先にしてくれ。俺は見ての通り汗一つとしてかいてないから後でいい」

「……別に、一緒に浴びてもいいんですけどね」

「いいわけあるか」


 太ったのを指摘されるのは嫌な割に見られるのはいいとか羞恥心の基準がわからん。


―――

体力はあった方がいいとされているのでね。

次回はそういうことです(?)

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