第12話
まだ校庭一週目を走っている途中だいうのに走り疲れたなんて。咄嗟に言ってしまった言葉とはいえ、とても恥ずかしい。
でも、神代くんが怒っているように感じた私は謝罪した。すると神代くんはぎょっとした顔をする。
「ちょ、謝んなよ……。体調が悪いわけじゃねーならいいんだ。俺の方こそごめんな」
私は勘違いしていた。神代くんは怒っていたわけではなく心配してくれていたのだ。
お礼を言おうと思って口を開いたけど、タイミング悪く鼻水が出そうになる。私が鼻をすすっている間に神代くんが話し出した。
「翡翠はさぁ、マジ偉いよね。ちゃんと授業に参加してるし今日だって真面目に走ってるし」
俺らとは大違い、と神代くんはそう言って苦笑した。
その発言に対して頷くことはできず、返す言葉も思いつかなかった私は、神代くんの目をただ見詰める。
それなのに、神代くんは文句を言わなくてにこりと微笑みかけてくれた。
私のことを褒めてくれた神代くんは体育の授業をサボっていて、倉ノ下くん含む友達と一緒にバスケットボールをして遊んでいる。
神代くんたちも五月まではちゃんと授業に参加していた。サボるようになったのは、六月十七日からだ。その前日の体育の授業で起きた、あの出来事がきっかけである可能性が高い。
「さっき疲れてるって言ってたよな? 疲れたならサボっちゃえって言いたいところだけど、翡翠の内申点を下げられることだけは俺は嫌だし翡翠も嫌でしょ? だからさ、提案なんだけど、俺が翡翠をおんぶしてゴールまで走ってあげよっか? それならサボったことにはならないっしょ」
「う、ううん!」
私は何言ってんのと内心激しく狼狽えながら素早く首を横に振る。
「いーよ。遠慮すんなって!」
「だ、大丈夫だから……!」
「……ふーん。断るんだ?」
目が笑っていない神代くんの笑顔も悲しくなるから見たくないと思っていたけど。今みたいに、笑みを消した真顔の神代くんほど怖いものはないと思った。
「なんか鼻すすってたけど、風邪?」
神代くんからの質問に、私はつい先程より大きく首を横に振った。
「ううん、違う。……寒くて」
「確かに今日めちゃめちゃ寒いよなぁ〜」
頷きつつ私は鼻をすすった。お腹は痛くないけど、やばい全然止まんない。
私は、鼻水が止まらないことで、神代くんの口からあの一言が出てくることを何より恐れている。あの一言とは、『鼻水出てんじゃんっ!!』のことだ。
「あっ、唇紫になってんじゃん! やっぱここでちょっと休憩すれば?」
「えっ? でも、先生に報告せずに勝手に休憩してたらサボってるって誤解されると思うから」
「大丈夫だって!」
神代くんが余裕そうな笑みを浮かべる。
「多分、いつものように一回は注意しにくるだろうから。そん時に俺が、子猫みたいにブルブル震えてたからちょっと休憩させてますって先生にちゃんと説明する。……このまま頑張って走り続けても身体があったまる前にすっかり冷え切るだろうし、汗かいたら体温下がってもっと寒くなるだけ。とにかく、一旦休憩して温めた方がいいって。なんなら俺がハグして温めたげる」
はっ、……ハグ!? 神代くんの口からあの一言は出てこなくて本当に助かったけど、予想外すぎるワードが出てきた。
私が動揺して固まっていると、神代くん「あっ!」と小さく声を上げた。
神代くんの視線の先を追うと、生徒たちが走るのをサボって歩いている生徒に向かって、「歩くなッ!」「走れッ!」と大声で注意している男性体育教師がいた。
「どうした……?」
神代くんの顔を見て何かを感じ取ったのか、倉ノ下くんは緊張していると分かる硬い声で尋ねた。
「
神代くんは声を潜めてそう答えた。
神代くんが口にした青海川とは、青海川
声を潜めたのは、もし大声で呼び捨てにして、数メール離れたところに立っている先生に気づかたら最後、説教を食らうことが確定するからだとすぐに察した。
ふと気づけば、神代くんの表情が強張っており、私と同じように唇が紫色になっていて、身体が小刻みに震えている。とても寒そうだ。多分、走ったりバスケをしたりしている時より、こうして立ち止まっている時の方が寒いと思う。
しかし、表情が強張っているのは、寒さのせいだけではなさそうに感じた。
「あっ!」
一回目より大きな声を上げた神代くんがまた拙い発音で私の名前を呼ぶ。
「今、校庭で見張り中の青海川が俺らがいる方に肉食獣のごとく迫ってきてっけど、どうする?」
訊かれてすぐに確認すると、確かに早足でがんがん迫ってきている。それに、肉食獣というのは言い得て妙だ。
笑っている場合ではないので、一気に込み上げてきた笑いを必死に噛み殺してから、聞き返す。
「どうするって……?」
「そろそろ走り出さないとヤバいぞ。翡翠を呼び止めたのは俺だしマジで反省してるけど、もし翡翠が休憩せずに走るつもりだったら、俺らと一緒にあいつに説教されるかも。なんか、今、手が付けられなさそうなぐらいヤバい面してるし」
焦っているからだろう、神代くんは早口で言った。
ヤバそうな顔と言われたから不安になって、目を大きく見開いてよく見てみたけど、いつも怖い顔してるから違いが全くと言っていいほど分からない。
「えっと、じゃあ走ろうかな。……神代くんたちは走らないの?」
私がした質問が予想外だったらしい。神代くんはきょとんとした顔で私を見詰めてきた。
四組には友達が一人いるけど、足が速いその子に迷惑をかけないために別々に走っている。
クラスには友達がいないから一人で行動するのは慣れているはずなのに。神代くんと倉ノ下くんと話した後にこれから一人でゴールまで走らなければいけないことを想像したら。何だか急に寂しくなった。
だから、できれば一緒に走りたいと願い、神代くんたちは走らないの? という質問が私の口から飛び出たのだろう。
「マジごめん……」
神代くんは困ったような表情で手を合わせる。
「一緒に走りたい気持ちは山々なんだけど、どんなに内申点下げられても、この体育の授業と数学の授業はサボり続けるつもりだから。このままだと単位足りなくて留年するって焦り出した蒼壱が今日から参加するって言うまでは」
神代くんがニコッと微笑みかけると倉ノ下くんは気まずそうに目を逸らした。
「俺がサボってんのは俺の意思だ。何度も言ってるけどよ、無理にサボる必要はねぇ」
「何度も言ってっけどさ、俺がサボってんのも俺の意思だ。クソ教師の授業なんざ、誰が受けるか」
チッ、と誰かが突然舌打ちをする音が聞こえて私はびっくりする。
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