第6話
6 柳田花音
「さっき事務所からメールが入って、来週、先生が戻って来られるそうよ」
「・・・」
「予定では成田から直接、横浜と大阪の公演先に行かれて、その後にこちらに戻って、夏休みの半分はこちらで過ごす予定ですって」
「・・・」
「先生が帰られている間は、私は全くの通いになるわ」
「・・・」
「花音ちゃん」
「は・・・い」
「そんな顔をしなくても、今回は1人、もしよかったら公演を聴きに行ってもいいなじゃない?」
花音は食卓に出された食事の手を止めて、津田さんの話を聞いていた。
津田さんは父親の所属する音楽事務所の人で、元々は事務所に来ていた家事代行サービスの人だったが、家事以上の事務能力の高さを買われて、事務所に直接採用され、所属する音楽家の留守番、自宅管理などを担当している女性だ。年齢はどうやら40代後半のようだが、見た目は30代に見える。
「去年のクリスマス公演の時は聴きに行くのも気を遣われたと思うけど」
「・・・どうしてかしら?」
「何がですか?」
「どうして1人なのかしら?」
「それはきっと、花音ちゃんとゆっくり過ごす予定なんじゃないかしら?」
「津田さんはそう思う?」
「ええ」
「そう」
「もう、11月のコンクールの準備も本腰を入れないと、きっと先生もそれを考えて今年は夏に帰国されたんじゃないですか?さ、冷めないうちに食べましょう」
津田さんは花音を励ますように話をまとめて、食事を勧めた。
花音の家は、学校からは少し離れた地域にある。この地域は町の中心街や住宅街からは物理的な距離だけでなく、お金で広大な土地を購入し、そこに贅沢な家を構えるような人が住む場所なのだ。花音は4歳の時のここに引っ越してきた。当時はまだ母親もいて、母の友人やその家族が訪れていて、賑やかだったことを覚えている。でも母が亡くなって、父と2人になった頃から、この家は静かになっていった。
「津田さん、私、練習するから」
「ええ、わかったわ、私は適当な時間に休ませてもらうから、何かあれば声をかけてね」
練習に使う部屋は3階にある。ゆうに20畳はあるこの部屋には、グランドピアノが2台にソファに本棚、机、コピー機と、ピアノを弾くための環境が保証されている。防音なので外に音が漏れないし、逆にノックされても気がつかないこともある。扉にはめ込んであるガラス扉が、外からの気配や明かりを通している。なので、ピアノを弾くだけなら何時間でも籠もれる。
以前は父がほとんど使っていて、まだ幼かった花音はレッスン中の部屋には入れてもらえなかったが、父が1人で弾いている時はこの部屋のソファで遊びながらそのピアノを聞いていた。その時間が好きだった。
「津田さん、エールって曲知ってる?」
花音が上がろうとしてた階段で足を止めて聞いた。
「エール?」
「うん」
「知ってるわ、良い曲よね、うちの事務所のオケでも演奏したことがあると思うわ」
「そう」
「どうかしたの?」
「ううん、有名な曲なんだ、と思って」
「ミュージックアプリにもあると思うから、聴いてみたら?」
「そうね、そうする」
花音はそう言うと2階へ上がり、ピアノ部屋に入った。
ピアノ部屋に入った花音は机に置いてあるパソコンでミュージックアプリを開いた。母がいたころはこんな整理された部屋ではなかったが、母がいなくなって父はこの部屋をレッスン室として改装した。花音も今は自由に使っている。
「これがエール・・・」
花音はエールを再生し、その夜は何度も何度も聴いて時間を過ごした。
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