第4話
3 日常生活
定期テストが始まった日は暑かった。まだ5月だというのに、教室は蒸し風呂のようで、制服にはうるさい先生も上着を脱ぐことを許可してくれるくらいの暑さだった。教室の後ろと横についている扇風機が試験用紙を飛ばさないくらいの微風で動いていて、試験監督の先生はワイシャツの首元を開いた状態で、扇子であおぎながら監督していた。
「まったく、冷房くらい入れてくれてもいいのに!」
俺達は試験初日を終えて、早々に帰ろうと帰り支度を始めていると、クラスのだれかが言った。
「ほんと、ケチだよなぁ」
「冷房って使用していい時期とか決まってんのかなぁ?」
「そうかもね、公立学校は税金で運営されている訳だし」
「そうかなぁ、単に忍耐を学ばせるとかって言うんじゃない?」
「それって、何か将来に役立つの?」
「大人になって我慢強いと給料高くもらえるとか?」
「絶対にないな!さっき職員室の前を通った時、扉開いたらすごく涼しい空気が流れてきたから、職員室は冷房が入っていたよ」
「はぁ~?」
俺も“はぁ?”と思った。生徒には蒸し風呂の教室で試験を受けさせて、自分達は冷房の入った職員室で快適に仕事をするなんて、それはひどいだろう。下校時刻になった教室では、だれもが今日の試験環境の疑義を口にしていた。
「おい、下校時刻になってるからな」
そういって、見回りの先生が声をかけてきた。どうやら学年主任の金田先生だ。
「先生、明日も暑かったら冷房って入れてもらますか?」
学級委員の綿田さんがクラスを代表するようにその先生に言った。
「ああ、そのことか」
「暑いのは仕方ないと思います、でも職員室では冷房を使用していた、ということを聞きました。職員室では使用できて、教室では使用できない事情を教えてください」
俺はその意見を聞きながら、学級委員をするだけあった、意見の仕方もただ文句をいうのではなく、理由を聞こうとしながらすこしばかり金田先生に詰め寄っている言葉が聞かれる。
「ああ、そのことか」
金田先生は少し間をおいて、廊下から教室に入ってきた。
「今日は突然に暑くなっただろ?全学年とも試験前に教室にも冷房を入れてみたんだが、2年生の校舎がどうも上手く作動しなくてね、しかも同じ校舎の1年生ももちろんダメで、校舎の違う3年の教室だけ冷房を使用するって訳にはいかなかったんだ、職員室も2年生と同じ校舎だから不具合があったんだけど、教室は試験中に修理をしてもらうわけにはいかないしね、午前中に修理の済んだ職員室は試験運転も兼ねて冷房が入っていたんだよ、決して先生たちだけ快適にしていたわけではないんだ」
金田先生のいうことはわからなくもない、でも、3年生の校舎は使用できたのであれば、他の学年が我慢するのだから一緒に・・・という発想がどうにも腑に落ちかねた。
「3年生だけ使用するっていうのはできなかったんですか?」
綿田さんはすかさず聞いた。
「えーと、そうだなぁ、使えるか使えないかっていえば、使えたけど、生徒間で差をつけるのは教育的には好ましくないと思うんだ」
教育的配慮っていうのだろう、でも、1、2年生の教室の冷房が不具合だったのは偶然で、3年生の教室の冷房が使えたのも偶然だ、その偶然を教育という事情であえて3年生が不利益をこうむるのは、3年生に対する教育的配慮はないのだろうか。
「つまり、差をつけなかった、ということですね」
「そうだね、どの学年でも同じようにしていたと思うよ」
金田先生が諭すように綿田さんや、その周囲の生徒を見回して言った。
「わかりました、でも」
綿田さんは少し間を置いたかと思うと、先生の方に一歩進んで正面に向いた。
「世の中には“差”ってあっちこっちにありますよね、受験も人との差で決めるんですよね?なんだか一部分だけ切り取って平等にする社会的な意味をあまり感じません」
俺はその意見に納得もしたし、驚きもした。でももっと驚いていたのは金田先生だ。
「・・・」
「すみません、“差”のない社会って、理想だと思いますが、社会って“競争による差”でできていると思います、だから私は勉強をするし、受験をします」
綿田さんのするどい表情に金田先生は言葉に詰まっていた。
「・・・、えーと綿田さん」
「はい」
「君の言うことは正しいし、その通りだと思う、でも、たとえ一部分でも社会に平等ってないといけないものだと思う、と僕は思う」
金田先生が絞り出して伝えた言葉も一理あるように聞こえたが、綿田さんが言っているのはきっとそんな物理的な平等は本来の競争や差を隠すための、大人の都合の見せかけの平等で教育指導をしたということに不満を抱いているのだと思えた。
「わかりました」
たぶん不満が解消された訳ではないと思うが、綿田さんは学年主任の先生にお礼を言って自分の席に戻り、帰り支度を始めた。
「ほら、みんなも時間だ、教室は閉めるからな」
金田先生の口調は後味の悪さがにじみ出ているように感じた。
テスト2日目は昨日の暑さが嘘のように涼しくなり、窓を開ける事もなく試験が終了した。
「全く、昨日がこの天気だったら最高だったのに」
健はそんなことをいいながら試験が終わった教室の窓際から外をうらめしそうに眺めていた。
「しかも、せっかく晴れたのに俺達の部活は休み、家に帰れば塾に行けと言われるだろうし、全くついてないよ」
「そうか、俺はこれから部活、と言ってもバレー部との半面だから俺は物品の整理係かな」
「俺は雑用でも、勉強よりは部活だな、来月の大会で負けた日からサッカーができなくなるかと思うとゾッとする」
「まぁ。俺も勉強がしたい訳ではないけど・・・」
「だろ?」
「でも俺は勉強しないと、進路が決まらないから」
俺は健とは違って決して余裕の成績ではない、高校を選びたいなら勉強は必要だ。部活も好きだけど、引退することを想像して恐怖を感じるほど部活に捨てがたい魅力はない。
「そうかぁ?まだ受験の本番は夏!部活は今が天王山だ!」
健はどうだ、とばかりに俺の背中を叩いた。
「痛いなぁ、じゃあ俺は行くから、明日な」
そういって俺は教室を出た。
体育館の半面しか使用できない日の部活は、順番で部室の清掃と物品の手入れをする部員を決めている。今日は俺を含む3人が当番の日になっていた。俺は更衣室でジャージの着替え、通称西棟といわれる運動部の部室が並んでいる校舎に向かった。更衣室の時計をみると、まだ集合時間には少し時間があった。俺は何となく音楽室に行ってみようという気になり、工作室の横の階段を上がった。
音楽室の入り口は2箇所、後ろの扉は全く窓がない、前の扉は人がちょうど覗き込めるような丸い窓ガラスから中の様子がうかがえるようになっている。工作室から上がってくると、ピアノの音がかすかに聴こえてきた、エオリアンハープだ。俺はドキドキしながらも、その窓ガラスに顔を近づけた。
ピアノを弾いていたのは意外な人だった。柳田さんだ、俺は彼女とはこの3年間ずっと同じクラスだった。でも俺は彼女のことを名前で呼んだことがない、そう、顔だけを知っているクラスメイトだ。だって彼女は・・・。なんとなく考えていると、いつの間にかピアノの音が止まっていた。
「あっ」
そう思った時には彼女が俺を見ていた。俺は逃げようかとも思ったが、その時の彼女の表情は驚くというより、笑って見えた。そのせいか笑い返してしまった。
「うるさかった?」
彼女が音楽室から出てくると、俺に言った。
「いや、ごめん、覗いたりして、ピアノ、だれが弾いてるんだろうって、ほんと、ごめん!」
「・・・」
「ごめん、邪魔してしまったよね、ごめん」
怪しげなことをしていたと思われないように、俺は必死に頭を下げた。
「ううん、大丈夫、そろそろやめるつもりだったし」
必死な俺とは対照的に彼女はえらく冷静だった。まるで機械のような口調だ。
「やめなくても、音楽室だれも使ってない日だし、お、俺も部活だし」
「・・・」
「ほんと、うるさくなんかないよ、エオリアンハープを弾いているのが誰かなぁって、ほんと!」
「知ってるの?」
「えっ?」
「この曲」
「あ、あの友達が結構詳しくて、本屋で教えてもらって、だから、その、知ってた」
俺は自分の言っていることがすでによくわかっていないくらい動揺していた。
「俺、ピアノ全くわかんないけど、や、柳田さんが弾いてたんだ、すごく上手いんだね、ごめん、続けて」
「・・・」
「じゃ、じゃあ」
俺はとにかくその場を離れようとした。
「ありがとう」
「えっ?」
「弾いているのを、のぞき込む人はたまにいるけど、私が話しかけると皆逃げるし、仕方ないけど・・・」
彼女の声をまともに聞いたのは初めてだ。
「お、同じクラスに健ってやつがいて、そいつがチェロをやってて、そんでもって、妹がバイオリンやってたりするから知ってたんだよ、こ、この曲のこと」
俺はどうでもいいような解説を彼女にした。
「そうなんだ、だろうね、この曲、聞いたことがある人はいるけど、エオリアンハープって曲名まで知ってるって音楽をやってる人しかいないと思うな」
「や、柳田さんがピアノ弾くって知らなかった、う、うまいのに、知らなかったよ」
「学校、来ない日も多いしね・・・」
彼女は苦笑した。
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