13.真夜中の温もり<前編>



「はぁー……」


 最後のページを閉じて、長く息を吐き出した。

 夢中になって、一気に最後まで読んでしまった。……翻訳ノートと行き来しながら、だったけど。

 ノートがわかりやすくまとまっていたおかげか、読んでいるのが絵本だったおかげか。そこまで躓いたりせずに、割とすんなり読めた気がする。

 絵本の余韻に浸りながら、うーんとひとつ、伸びをした。

 終わりの見えない本棚の先を仰ぎ見ながら、思考に耽る。 

 この絵本の魔法使いって、やっぱり焔さん――なんだろうか。

 絵本の通りだと言うなら、王女様のお願いを聞いて隣の国をやっつけて、この国を建てた人物こそが焔さん、ということに――。

 いやいや、そんなまさか。

 にわかには信じられないのだけど、もしそれが本当に事実なのだとしたら、焔さんって一体……歳いくつ……?

 って、前にアルトが言ってた、なんだっけ……何百年も引きこもってて?っていうのももしかして本当……。

 確かに、この世界での彼は、周りからは大賢者と呼ばれてるわけで。

 私が世界を行き来できるようにしたり、こんなとんでもない空間を作ることができたりする人物だということは、確かなのだ。

 私が信じられていないことがみんな――本当のこと、なのだとしたら。

 焔さんって、本当に本当に――この世界の人たちにとって、とんでもなくすごい人物、なのでは。


「……あ、読み終わったのか?」


 そんな人の「秘書」という立場は、他の人たちからどう見えるだろう。

 絵本になるくらい当たり前にみんなが知ってるお話の魔法使い。

 そんなすごい人と一緒にいる人なら、その人だってなんとなく、すごい人なんじゃないかと思われるのではないだろうか。


「おーい、リリー?」


 食堂でオリバーから、優秀な人だなんだと言われたのも、つまりそういうことで。


「これ、聞こえてないだろ。あいつにそっくりだな」


 私はそんなにすごい人間でもなんでもないというのに。

 周囲は、そういう目で私を見るのだ。

 周りから自分がどう見えるのか――そこに考えが至った途端、ちょっとだけ血の気が引く音が聞こえた気がする。

 ……私、こんなに何も知らないで焔さんの秘書って……やっぱり、かなりまずいのでは。

 来月の舞踏会だって、今日ロイアーさんから言われた通り、その、振る舞いとか?色々できないと、なんだこいつは、とか思われてしまうのではないだろうか。


「……ん?なんで青くなってるんだ?おい、おいってば」


「ちょ、ちょっとそれはまずいのでは……」


「ああもう、おいってば」


「うあ!」


 ぺしりと、もふもふしたものが頬に当たって驚く。

 はっと見れば、だいぶ据わった目をしたアルトがこちらを見て尻尾を振っていた。

 先ほどぺしっとやられたのはこの尻尾らしい。


「あ、アルト。どうしたの?」


「どうしたの?じゃねえよ!さっきから俺様が話しかけてんのに、気づきもしないで百面相しやがって」


「ひゃく……え?!そ、そんなことしてないよ!」


「まったくお前、本に夢中になると周りが見えなくなるとこ、イグニスそっくりだな」


「う……」


「いいから、取り敢えず時間見ろ、時間」


「時間?……ってあああ!!」


 思わず声を上げてしまって、誰に咎められるわけでもないけど咄嗟に手で口を塞いだ。

 図書館ではお静かに、というのは本好きの鉄則だ。急に声なんて上げてはだめ。

 一度深呼吸をして、気持ちを落ち着けてからもう一度、時計を確認した。

 時計の短い針は、てっぺんをわずかに越えてしまっている。


「え、う、嘘」


「嘘じゃない。集中してるみたいだから放っておいたが……まさか本当に気づいてなかったのか」


「そんな、ごめんアルト!あああ、焔さんの夕飯も!」


 すっかり忘れてた!食事運ぶのも仕事なのに……!

 慌てて立ち上がる私に、待て、とアルトの声がかかる。


「落ち着け、あいつの夕飯なら俺が持って行ったから」


「あ……そう、そっか。ごめん……、ありがとうアルト」


 立ち上がったのと同じくらい急に足の力が抜けて、すとんとまた椅子に腰を下ろす。ふと思い出したのは、いつも楽しそうに食事をしている焔さんの顔。

 『誰かと食べる食事はおいしいね』、と……どれだけ忙しそうにしていても、食事を持って行った時には必ず手を休めて、嬉しそうにしてくれていた。

 今日は、ひとりで食べたんだろうな……。と考えて、ちょっとだけ胸が軋んだ気がした。

 後で謝りに行こう――ああでも、こんな時間じゃもう会いに行くのは迷惑、かな。

 ふあ、と急にこみ上げてきた欠伸が口から漏れる。

 時間を意識した途端、感じたのは眠気と――。

 ぐう。


「!」


 盛大にお腹が鳴って、静かな空間に響く思いがけない大きな音に、思わずお腹を押さえた。


「――っふはっ」


「っ!?」


 と同時に、背後から聞こえた笑い声に、びくっと飛び上がる。


「ふっふふ……そんなに、飛び上がらなくても」


 くすくすと笑いながらこちらへ歩いてきた人物が視界に入って、さらにびっくりして声を上げかけ――すんでのところで、声を抑えた。


「ほっ――!!っ、焔さん……!」


「こんばんは、梨里さん」


 ほわ、といつもの柔らかい微笑みを浮かべてちょこんと首を傾げているのは、紛れもなく焔さんだ。

 慌てて席を立ち上がる。


「え!ど、どうして――こんな時間に!」


「夕飯の時にアルトから聞いてはいたんだけど、まだこちら側に残っているようだったから気になって。これ、持ってきたんだ」


 そう言いながら軽く持ち上げられた彼の手には、見慣れたバスケット。


「あ――」


 ぐううう。


「!!」


「ふふ……ちょうど良かったみたいだね?」


 バスケットに気づいた途端、先ほどよりさらに大きく鳴り響いたお腹の音に、顔が真っ赤になるのを感じた。楽しそうに笑いをこらえるという貴重な焔さんの表情すら見ていられなくて、両手で顔を覆う。

 もう、こんな……いたたまれない!

 こんな時でも直接お腹の音には触れてこない焔さん……うう、紳士だ。


「梨里さんさえよければ、一緒に夜食、どうかな?」


 優しくそんな風に言われてしまったら、頷く以外の選択肢がない。


「……ありがたく、頂きます」


「うん」


 元々ひとり用には大きい机の上を片付けて、いつも私が座っている長椅子に二人で並んで腰掛けた。

 机の上に並ぶのは、まだ温かい具沢山のクリームスープとほわほわのパン。それから、温かなホットワイン。


「梨里さん、成人してたよね。――はい、どうぞ」


「あ、ありがとうございます」


 手渡されたホットワインはハーブが入っているのか良い香りがする。以前にも、夕食にと添えてもらったことのある、モニカ特製の逸品だ。

 渡されたマグを両手で包むと、いつの間にか冷えていた指先にじんわりと熱が沁みる感覚があって、心地良い。

 一口飲んでほっと息を吐くと、ふわりと肩に柔らかな感覚が触れた。


「ここ、本のために少し室温低いから……身体冷やさないように」


 顔を上げて、思っていたよりも近くにあった焔さんの綺麗な横顔に、一瞬どきりと心臓が跳ねた。

 肩に、焔さんのローブが掛けられている。


「あ、りがとう、ございます……」


「うん」


 本人は特に気にした風でもなく、シャツにベストという軽装のまま、優雅にホットワインを傾けている。

 掛けられたローブがまだ温かくて、どぎまぎする私はなるべく意識しないように、とスープとパンを手に取った。

 こんな時間だけど、このバスケットで持ってきてくれたということは、モニカが作ってくれたのだろうか。

 そんなことを考えながら温かなスープの最後のひとさじを飲み終わって、やっと私はあることに気がついた。


「……あれ?」


 アルトは、ずっとここにいたはずだ。

 ということは、このバスケットはアルトでも私でもない誰かが、モニカから受け取ってきた、ということになる。


「……あの、焔さん。つかぬ事をお聞きするのですが……」


「うん?」


「この、バスケット……って、モニカがいつも食事入れてくれるやつだと思うんですけど……あの、もしかして焔さんが……?」


「ああ、うん。そうだよ。場所は知っていたんだけど、初めて自分で行ってみた」


「な……なん……」


 私も驚いたけれど、アルトが。アルトが目を丸くして、口をあんぐり開けて絶句している。

 ほとんどアルトから聞いただけ、だけど……ひとりでいると食事になんて頓着しないという焔さんが、わざわざ自分で取りに行ってくれた、なんて……。

 スープで温まっていた胸のあたりが、ふわりと温かさを増した気がする。


「さっきも言ったけど、アルトから聞いてはいたんだ。君が読書に夢中になってるって。でも、本当に何時間も食事すら取ってないみたいだったから、気になって。……顔を見る理由にちょうどいいかなとも思ったし」


「え」


 ちょっと照れたようなはにかみ顔で、そんな事を言わないでほしい。

 頬の熱がぶり返してしまいそうだ。


「あの、そうだ、夕食……すっかり忘れてしまっていて、本当に申し訳ありませんでした」


「いいよ、読書に夢中になっちゃうのって、よく分かるから」


 ぽんぽん、と。

 下げた頭に温かな感触。

 ……これは毎回、撫でられている、のだろうか。

 温かくて、ちょっとだけ恥ずかしいような、嬉しいような気持ちになる。


「それで、なんの本を読んでたの?」


「あ……。これ、です」


 机の上の本立てに置いてあった『オルフィードの魔法使い』を取り出して素直に手渡すと、焔さんが少し目を見張った。


「これ……」


「実は今日、書類を受け取ったときに、ロイアーさんから頂いたんです」


「この絵本、君の言葉じゃないものだけど」


「ロイアーさんが、一緒に翻訳のノートもくださったので、なんとか最後まで読めました」


「……」


 ぱらぱらと、焔さんの長い指が絵本のページを捲る。

 絵本に落とされた彼の瞳は凪いでいて、何を考えているのか読み取ることはできない。

 少し表情が固い気もするけれど――でも、嫌な顔をされてる訳じゃ、ない。

 肩からずり落ちないように焔さんのローブを掴んでいた手に、無意識に力が入った。

 今なら、お願いできるかも。


「焔さん、私、お願いがあります」


「……ん」


 焔さんの静かな黒い瞳がこちらを向いた。

 これから私が言おうとしていることを、見透かされているかのような深い瞳。

 机の上に置かれているランプの明かりが映り込んで、一瞬焔さんの瞳の奥に、ちらりと紅い色が覗いた気がした。

 これまで沢山、みんなに背中を押してもらったから。

 今が、言わなきゃいけない時だ。

 底知れない彼の瞳に吸い込まれそうで、少しだけ怯みそうになるけれど。

 ぐっと耐えて、私なりの決意を込めて、その瞳をまっすぐに見返した。


「私、この世界のこと、もっともっと知りたいです。――ロイアーさんに指導を頂く許可を、頂けないでしょうか」


 この世界のことも、貴方のことも、もっと知りたい。

 気持ちが伝わりますようにと、縋るように彼のローブを握りしめた。




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