11.知りたい、の気持ち
慌てた私は、放ってあった携帯電話を握りしめて封筒にあった番号へと電話をかけた。
幾度目かのコールのあと、落ち着いた男性の声が応える。
『はい、境です』
「あ!あの、こんにちは、堀川です」
『どうも、えっと、堀川……ああ、焔さんのところの堀川梨里さんでしょうか?』
「はい!」
『お久しぶり……ってほどでもないですね。どうかされましたか?』
「あの、手紙……書類を頂いていて!これ、間違ってますよね?私……」
『えっ。ああ。給金の……ちょっとお待ちくださいね』
ごそごそ、ぱちぱちと機械を操作しているような音が電話向こうから聞こえてくる。
確認をしてくれているようで、やがてうーんと唸るような声がした。
『……お待たせしました。そちらにお送りしたもの、確認しましたけど特に間違っているところはなさそうですが……』
「そんな!……だってこれ、明らかに金額が多いじゃないですか……!」
『そうですか?』
「そうですよ、だってこんな……。これじゃあ、普通の会社員と変わらないです!」
そうなのだ。書類に書かかれていた、毎月の支給予定額。それが、おそらく一般的な会社に勤めている正社員と同じくらいか、それより多いかもしれない額になっている。
異世界で秘書の仕事を、ということだったけれど、実質は向こうへ行って自由に過ごしている時間ばかりで、仕事らしい仕事もしていない。
元々、生活に困らないくらいは欲しいな……、なんて思っていたけれど、これじゃ図書館に勤めていた頃以上の収入だ。
『ひとまず落ち着いてください。その書類、間違ってはいないんです』
「でも……」
『堀川さん。僕は、仕事柄いろんな世界のことをある程度の概要として学んでいるのですが、あなたの通っているあの異世界においての、あなたの職。それに見合った金額になっていると思いますよ』
少しだけゆっくりと話してくれる境さんの言葉が、焦っている思考を宥めるように耳に届く。
『実際の仕事内容などについては全て焔さんにお任せしてますので、私は存じ上げてないのですが……。それでも、あの世界においての焔さんの地位を考えれば、その秘書という位置付けには、この金額でも足りないくらいだと思いますよ』
「そんなに……偉い人、なんですか」
『え?』
思わずのように、口からぽろりとこぼれた言葉。
ずっと悩んでいた気持ちが、ちょっとだけ言葉になって溢れてしまう。
「焔さんって、あの世界でそんなにも偉い人なんですか?私、何も知らなくて……。焔さんも、そんなに話してくれないんです。……王様から手紙が来たり、図書館の人達があんな風に頭を下げるのも……何も、わからなくて」
『堀川さん……』
「境さん、知っているなら、教えて頂けませんか?なんでもいいんです、あの世界のこと……お願いします」
『ええと……うん、私から聞くというのも、手段なのかもしれないけど……。んー、これは焔さんが何も話さないのが悪いのか……いやでも、あの人だからなぁ……』
境さんの声が困っているのが分かる。それでも、境さんが知っていることがあるなら教えてほしい。
そう思ったのだけど。
随分と悩んだ様子だった電話口の声はやがて、『申し訳ない』と低く響いた。
『堀川さんのこと管理しているのは、焔さんだから。彼が話さないことを勝手に話していいものか、私には判断できないんです』
「あ……。そう、ですか。変なことお願いして、申し訳ありません……」
その返答に、がっかりしてしまう自分がいて――同時に、一度会ったきりの人へ何を言っているんだろう、とちょっとだけ頭を抱えたくなってきてしまった。
だめだ、私。一旦冷静にならないと。
電話越しの会話で、相手に伝わるわけはないと分かっていても、自然と頭を下げてしまう。
「ほんとに、すみません」
『……堀川さんが、何も知らされてなくて不安な気持ちはよくわかりました。そこまでの気持ちで知りたいと思うのなら、焔さんに直接聞いてみるのはどうでしょうか』
「直接……ですか」
頭をよぎるのは、こちらを振り向かなかった焔さんの背中。
『そこまでしっかりした気持ちがあるのなら、きちんとお話して頼めば、あの人も無下にされないと思うのですが……。まだ、本人に聞いていないのでは?』
副館長のロイアーと会ったすぐの、あの時。
あんな風に言われてしまったけれど、思い返してみれば、確かに自分からあの世界について尋ねたり、教えて欲しいとお願いしたことはなかった気がする。
「はい……」
『色々と難しいこともあると思いますが、まずは話をしてみるのがいいと思いますよ』
「そう、ですよね……ありがとうございます」
簡単な挨拶で通話を切ると、大きな溜息が勝手に漏れた。
変に気疲れをしてしまった気もする。取り敢えず握りしめてしまっていた書類の皺を伸ばして片付けて、新しい紅茶を入れた。
椅子に座って、マグカップに揺れる綺麗な赤茶色を見つめる。
この紅茶は、あの世界の紅茶のような香りはしない。
「……」
マグカップを両手で包み、じんわりした温かさを感じながら目を閉じた。
いくら考えたところで、ずっと答えにはたどり着けていない。
きちんとしたお給料をもらえているのなら、図書館の仕事……はちょっと、気が進まないけれど。あの世界のことをしっかりと学ぶことくらいは、しなくちゃいけないと思う。
仕事のことを抜きにしたって、何も知らないままで秘書の仕事をするのは嫌だと思う自分もいる。
そして――たぶん、だけれど。
あの穏やかな笑顔の彼のこと、もう少しだけ知りたいと思っている。
「……明日」
ことりと、マグカップを机に置く小さな音が部屋に響いた。
明日、焔さんに言ってみよう。
この世界のことを、知りたいって。
休日が明けて、私は決意を胸に異世界へと出勤していた。
モニカに会いに行って、焔さんとアルトと朝食を済ませた後。
いつも通り食後の紅茶で寛いでいる焔さんの姿に、朝からずっとそわそわしている私は――声を、掛けることができずにいた。
どうして……!?一言、知りたいですって言うだけなのに!
先ほどからタイミングを見計らっているつもり――なのだが。朝食中からずっと、よし今だ!……と思う度に、焔さんが急に席を立ったり、何か話題を振ってきたりと。
なんだかとてつもなく、タイミングが掴めないでいる。
何かを察しているのか、朝からたまにアルトの呆れたような視線も感じるし。
今もこっちを見て、あからさまに溜息まで吐かれてしまった。
――あああ、もう!タイミングとかいい!言う!
「っあの!焔さん!」
「ん?」
勢いに任せて呼びかけると、焔さんはまさに手元の本を開いた所だったらしい。
彼の視線は本に落ちたまま、こちらを見ることはないけれど。
ぎゅっと、拳を握りしめた。
「あの、私――」
言いかけた、その刹那。
焔さんとアルトの顔がほぼ同時に跳ね上がったことに驚いて、一瞬の間が空く。
続いてどこかから、しゃらんしゃらんと、ガラスがぶつかり合うような涼やかで微かな音が響いてきた。
「え?」
この最奥禁書領域は、基本音がない。そんな空間で初めて聞く音に戸惑っていると。
「ああ、ロイアーか。そういえば、資料を頼んでいたんだった」
焔さんが何でもないように言って、また本に視線を戻した。
「え、えっと、今のは?」
「来客のチャイムのようなものだよ。ロイアーが、届け物をしに来てくれたみたいだ。……ああちょうど良いね。元々、来客の対応は梨里さんに頼もうと思っていた仕事だから、受け取ってきてもらってもいいかな?」
「あ……はい、わかりました」
「アルト」
「へいへい。……残念だったな、行くぞ、リリー」
やっぱりアルトは何かを察していたらしい。
肩を落としてアルトについて行く私を、焔さんは本を見つめたままひらりと手を振って送り出してくれる。
……本当に今日は、タイミングが悪いようだ。
アルトと供に扉の空間まで歩いてくると、一番手前にある扉がぼんやりと光っているようだった。
「そこが応接室。誰が来たのかは俺様やイグニスがわかるようになってる」
「便利だね」
さっき、焔さんはロイアーって言っていた。
ドアの前に立ちながら、あの強い青の瞳を思い出す。
少しだけ緊張する手でノックして、そろりと扉を開けた。
扉の先は、小さな小部屋になっていた。中庭の見える窓から日差しが差し込んでいて、表の図書館のような壁紙が見える。
ソファの横にぴしりと綺麗な姿勢で立っていたのは、今日も綺麗な金髪に鮮やかな青の制服の女性。
女性は私の姿を見ると、目を閉じて小さく息を吐いた。
「……やはり、貴女がいらしたのですね」
これは、がっかりされている……のだろうか?
「あ……の。私で、すみません……」
「構いません。最初からこうなるだろうとは思っていましたから」
扉の辺りでおどおどとする私を見かねてなのか、ロイアーのほうから近づいてくると厚みのある小包を差し出される。
「これが、イグニス様から頼まれました資料です。届けてくださる?」
「はい、勿論……お預かりします」
受け取ってみると、堅い手触りに重さがあってそれは本のようだった。
両手で持ち直すと、ふと視線を感じて顔を上げる。
「……」
なんとも言えない表情で、あの時とはまた違う、静かな青い瞳がこちらを見つめていた。
「あの……?」
「……あの時にも申しましたけれど、私は、貴女が異世界からいらしているということを聞き及んでおります」
「!」
「来月の陛下主催の舞踏会にも、出席なさると聞きましたけれど……貴女、ワルツは踊れて?」
「あ……ええと……」
「貴女の世界では、舞踏会はあまり馴染みのないものなのでしょう?……イグニス様から、この世界のことや城でのマナーについて、教えてもらっていますの?」
「……いえ」
答えながら、視線がどんどん俯いていってしまうのを感じる。
「舞踏会に着ていくドレスや、装飾品は……持っていないのでしょうね。その制服のままでは行けないということくらいは、おわかりなのでしょう?」
「……」
来月に行かなければならなくなった舞踏会について、あまり考えていなかった。
ロイアーの静かな声が並べる現実を見ていたくなくて、俯きすぎてずれた伊達眼鏡の奥で、ぎゅっと目を閉じる。
真っ暗になった視界の向こうで、しばしの沈黙の後に、小さな溜息が漏れた。
「イグニス様は、こんなにも気の利かない方でしたのね……お仕事はしっかりなさるのに。こんなに何もわからない子をあんな社交場に連れて行ったところで、腹の黒い老害たちに嫌な思いをさせられるに決まってます」
彼女の声が少しだけ呆れたように、ちょっぴり柔らかく聞こえるのは、気のせいだろうか。
「あの方の隣に立つのに、知識すらないなんてことが知れたら恰好の的ですわ。そうでなくても、あの大賢者様に秘書がついた、ともっぱらの噂ですのに……私だって、あの方の評判に関わるような立場にいる人間が、ただの無知な女性だなんて……そんなの納得できません。――貴女」
「!」
ぽん、と。頭に何かが軽く当たる感覚がして、恐る恐る顔を上げる。視界に差し出すように、その何か、を差し出されていた。綺麗な青い布の小包だ。
「そちらは、貴女に差し上げますわ。……イグニス様に気に入られるくらいですから、本はお好きなんでしょう?」
「え、えと……はい、好きです、けど」
「時間があれば読むといいわ。……気が向いたら、相手をしてあげないこともなくてよ」
「え、と」
「貴女の力になってあげなくもない、と言いましたの。……私の用は済みました。届けもの、頼みましたわよ」
彼女はそれだけ言って瞬く間に踵を返すと、二つの包みを抱きしめて立つ私を置いて凄い早さで部屋を出て行ってしまった。
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