9.冷めた紅茶と夕暮れ


「……え?」


 我ながら、情けないような間抜けな声しか出てこない。

 こちらを見据える彼女と、見つめ合うこと数秒。


「……ロイアー」


 穏やかな声とともに、私と彼女の間に黒いローブが滑り込んだ。しゃらりと煌めくのは紅い宝石のついた装飾品。

 目の前に焔さんの背中があって、大きなそれが、彼女からの視線を遮ってくれていた。


「君の言い分はわかった。だが、図書館のことも、僕の秘書のことについても、決定権が僕にあることは、わかるね?」


 言い聞かせるような、なだめるような声色。焔さんの背に遮られて全く見えないけれど、しばらくして聞こえてきたのは、衣擦れの音と低く落ち着いた女性の声だった。


「……はい、承知しております。大賢者様」


「うん。それじゃ、僕たちは一旦あちらに戻る」


「はい」


「リリー、案内はまた今度にして、一度帰るよ」


「あ……。はい、マスター」


 焔さんが歩き出すと、その影に隠れていたロイアーの様子が見えた。こちらに向けて、綺麗な姿勢で頭を下げたままだ。

 ふと見れば、周りに集まっていた職員たちも床に膝をついて、頭を下げている。

 その光景に、一瞬だけ足が止った。


「リリー」


「はい!今行きます……!」


 アルトに呼ばれてはっと我に返り二人の背を追いかけながらも、私の頭からは先ほどの光景が離れない。

 焔さんは、この図書館の人達にとってこんなにも敬意の対象となる人なんだ、と。

 自分が全く意識していなかった事実を垣間見てしまったようで――、うまく言えない感情で、なんだかとても心が乱れた。





 その後、終始無言のまま最奥禁書領域まで帰ってきた私は、焔さんの後を追いかけるまま、彼の部屋へと戻って来てしまっていた。

 部屋の扉が閉まるなり、重たそうなフードを背中に落として、焔さんが溜息をつく。


「ふう。……なんだか、中途半端な案内になってしまってすまなかった」


「い、いえ。ありがとうございました」


「どういたしまして」


 ばさりと、黒いローブがソファに脱ぎ捨てられる。しゃら、と音を立てた飾りが絡まってしまっているのが見えて、何となく、そのローブを手に取った。

 絡まっていた飾りを直して、側にあったコートハンガーに掛けて整える。軽装になった焔さんは作業机に座って何やら書類をまとめているようだった。


「……」


 沈黙が、少し居心地悪い。

 さっきのロイアーさんのこと。話題にしたほうがいいのか、それとも何も言わないほうがいいのか。

 ぐるぐると思考が定まってくれない。


「さっきの、ロイアーのことだけれど」


「!」


 考え込みながら掛けたローブを意味もなく整え続けていた私の背に、焔さんの静かな声がかかった。勢いよく振り返るけれど、焔さんは机に座ってこちらに背を向けたまま。

 言葉だけが、こちらに向けられている。


「気にすることはないからね。最初に言った通り、君に頼む仕事は僕の世話と、雑事を頼まれてくれることくらいだから。表の図書館の仕事はしなくて良い。この領域で、『路地裏』で過ごしていた時のように、空いた時間には物語を書いていてくれていいんだよ」


「焔、さん……。でも」


「ここは、僕が作った僕の図書館だ。僕がいいと言ったら、いいの」


「……」


 反論は許さないというように強く、それでも優しい口調のままでそんなふうに言われたら。……何も返せなくなってしまう。


「今日はもういいから、自分の机に戻って自由に過ごしてくれ」


 足下に温かさを感じて見下ろせば、アルトが寄ってきていた。紅の瞳と目が合うと、ふいっと扉の方を示される。


「……はい、失礼します」


 促されるままに、焔さんの部屋を後にする。

 扉が完全に閉まるまで、彼は一度も振り返らなかった。





 自分の机に戻った私は、持ち込んでいたノートパソコンに向かうことにした。

 今書いているのは、『路地裏』が閉店するとわかってから書き始めた小説。……なのだけど。


「…………」


 私の指は、もう数十分くらい前からすっかり止まってしまっていた。

 先ほどの出来事が気になってしまって、どうしても集中できない。


「気になるか」


 静かな空気の中に、アルトの声がした。机の端で丸まりながら、紅い瞳だけがこちらを向いている。


「気には、なるよ」


「まぁそうだよな」


 自分から声を掛けておいて、アルトは淡泊な返事しかしない。猫らしくうんと伸びをしてその場に座り直すと、今度は毛繕いを始めた。


「それ、小説か?」


「え?うん」


「今度はどんな話なんだ?」


「ええと……古本屋の店主が、いろんな人と出会う話なんだけど……。まって、今「今度は?」って言った?」


 まるで、今まで私が書いた本を知っているような言い方にも聞こえるけど。まさか……。


「んあー……。あれだ、今までも『路地裏』の店番しながら書いてるって言ってただろう。だから、また何か書いてるんだろうなと思った。それだけだ」


「ああ……そういえば言ってたね。うん、そっか」


 ごほんとアルトが咳払いするのが、何かを誤魔化すためなような気も……しないでもないけど、まあ気にすることでもないか。


「それで、集中できてないみたいだが?」


「……うん。できてない、かも」


 どうしても、瞼の裏に青い瞳がちらついてしまうのだ。

 ……とても、強い瞳だったから。


「もう夕方近いな。あとでどうせ、イグニスの夕飯取りに行かないといけないし。せっかくだから、食堂で茶でも飲んだらどうだ」


「え……でも、焔さんから何か頼まれるかもしれないし」


「大丈夫だ。あいつが俺を呼んだらどこにいてもわかるから。気分転換も大切だろ?」


「うーん……。うん、わかった」


 確かにちょっと、息抜きしたい気もする。人が多いのは嫌だけど、あれだけ広い食堂なら、隅の方に座ればそれも気にならなそうだ。

 それに、モニカの淹れてくれる紅茶の不思議な香りを思い出したら、急にまた飲みたくなってきてしまった。

 アルトについて食堂まで来ると、早めの夕食を取る人やお茶を楽しむ人達で、少しだけざわざわとしていた。

 モニカに声をかけるとすごく嬉しそうな顔をしてくれて、つられてこちらも少しだけ嬉しくなる。2人と1匹分の夕飯の用意とここで飲む分のお茶をお願いすると、さっきとは違ったお茶と、綺麗な焼き目のついたクッキーを出してくれた。

 夕飯はまたあとで受け取ることにして、できるだけひと気のなさそうな食堂の隅の席に落ち着く。温かな紅茶は甘い香りがしていて、一口飲むとほっと息をつけた。

 クッキーは、さくさくでちょっぴり香辛料の香りがする。

 なんだかすごく、贅沢な時間だなぁ……。

 何気なく目を向けた飾り窓からは、夕焼けの空と小さな噴水が見えた。

 ほっこりとしながらそれを眺めている間、だいぶぼんやりとしていたらしい。すぐ側まで人が近づいているのに気づいたのは、その人物が十分近くまで来てからだった。

 はっと顔を上げた私と視線を合わせた青年は、微笑んでちょこんと頭を下げる。


「初めまして、邪魔して申し訳ない。君、大賢者様の秘書さん……だよね?」


「は、い」


 綺麗な赤毛の青年は、他の男性たちが来ているようなベストにスラックス、コートという出で立ちだ。落ち着いた緑色の制服が、彼の赤毛によく似合っている。


「突然すまない。僕はオリバー。オリバー・ブリックス。マナブックの書記員をしているんだ」


 マナ……ブック?って、一体なんのことだろう。

 頭の中で疑問符が浮かぶけれど、取り敢えずは、とこちらも一度席を立って頭を下げた。


「リリーです。よろしくお願いします」


「もし迷惑でなければ、少し相席させてもらってもいいかな?」


「えっ……と……」


 知らない人と話すのなんて、苦手どころの話ではない。それでも咄嗟に断れずにいると、オリバーは「僕も仕事の休憩で。ちょっとだけなので……失礼します」等と言って、さっさと向かいに腰を下ろしてしまった。

 タイミングを逃してしまったのなら仕方ない。ちょっとだけ、だそうだし、ここの職員だというなら、無下にするわけにもいかない。


「…………」


「いやあ、今日の本は600ページもあるものだから、さすがに肩が凝ってしまって」


 これは、仕事の話……ということでいいのだろうか。それとも、彼の読書の話……?

 咄嗟に判断がつかず、当たり障りない答えを探す。


「あ……そう、なんですね。お疲れ様です」


「ありがとうございます」


 なんと返すのが正解なのかもわからない。いざとなったらアルトが助けてくれそう……だけど、等の本猫は今のところ、素知らぬ顔で自分の分の紅茶を飲むばかりだ。


「…………」


「…………」


 私が何も言えないせいで、会話は続かない。ずっと俯いたままでいる私に、オリバーがふうっと息を吐いた音が届いた。


「実は、さっきの騒ぎ、僕も見ていたんです。それで、どうしても声を掛けたくなってしまって」


「?」


「副館長――シャーロットが、貴女へ大分きつめに詰め寄っていたでしょう?怖がらせたようで、申し訳なかった」


「え!……そんな、頭を上げてください!」


 突然頭を下げられてしまって、びっくりした。私が慌てて顔を上げると、苦笑しながら顔を上げたオリバーと再び目が合う。


「あの、どうしてあなたが謝るんですか?」


「副館長のシャーロットは僕の幼なじみなんですよ。あいつが小さい頃から一緒に育ったから……。あいつのこと、誤解しないで欲しくて」


「誤解、ですか」


「あいつは、あの若さでこの図書館の副館長になった、本当に努力家ですごいやつなんです。勿論、ロイアーの家出身だから、というのもありますが、決して家の力であの地位についたわけではなくて。貴女のことを教育すると言ったのも、きっと貴女のためを思ってのことなんです!あんな態度でしたけど、本当にこの図書館のことを真剣に思っているからであって、だから……」


 突然勢いよく喋っていたと思ったら、オリバーは俯いて、苦しそうな声になる。


「……だから、誤解しないで欲しいんです。貴女くらいの年齢で、あいつと同じくらい高い役職に就ける女性なんて、滅多にいないから……」


「ええと……いえ、私なんてそんな……」


「何を言っているんですか。あの大賢者様の秘書でしょう?並大抵の才能では務まらないはずです」


 首を傾げて当然の様に投げかけられた言葉に、思わず口をつぐんでしまう。

 私は、努力なんて全然していないのに。

 何も言わない私には構わず、彼は思い詰めるような表情でテーブルの上の拳を握りしめた。


「突然こんな話してすみません、本当に。あの大賢者様の秘書をされるほど優秀な方なら、あいつと仲良くしてくれたりしないかと思って……僕……」


 一体、どんな言葉を返したらいいんだろう。そもそも、よくわからない言葉も多い。

 マナブックとか、書記員とか。ロイアーの家出身だから、という言葉も理解できていない。

 それに、彼にとって大賢者の秘書という立場は、とんでもなく優秀な人間が務めるということになっているらしい。そんな自覚は、勿論まったくないわけで。

 困ったまま黙り込むしかない私の向かいで、オリバーは自分のカップを一気に煽るとがたんと席を立った。


「突然すみませんでした。貴重なお時間、ありがとうございました」


「あ……いえ……」


「僕は仕事に戻ります。それでは失礼します」


 ぐっとこちらに頭を下げて、オリバーは早足で去って行ってしまった。


「…………」


「リリー?」


 アルトに呼びかけられるけれど、すぐ返事をする気持ちになれない。

 さっきまで見ていた窓の外は、もうオレンジ色が見えなくて、すっかり薄闇に染まっている。

 手元に残った紅茶に口をつけると、すっかり冷めてしまっていた。

 紅茶が喉の奥に落ちていくにつれて、心もすうっと冷えていくような気分になる。


「……アルト、夕飯持っていこうか」


「おう」





 私はまだ、この世界のことを何も知らない。

 ロイアーとオリバー。

 二人との出会いで思い知ってしまった事実が、急に重たく感じられて。

 今夜は眠れそうにないなと、ぼんやり思った。



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