忘れられない夜④

 どうやら穂乃香はこの男性に元婚約者の件で愚痴ってしまっていたらしい。


 見ず知らずの男性。しかも、ナンパ男から助けようとしてくれた親切な人にカクテルをぶちまけるという、恩知らずにも程がある仕打ちをしたというのに、愚痴まで零していたなんて……。


 いくら酔っていたとはいえ、何という大失態。


 もう恥ずかしいやら情けないやらで、今すぐ消え去りたい心境だ。


 ーーいっそ床に穴でも掘ってしまおうか。


 おかしな思考が浮かんだが、我に返った穂乃香はすぐさま頭を振ってそれらを追い払った。


 これ以上ここにいたら、何が飛び出してくるかわからない。


 バーで意識を失ってからの記憶がすっぽりと抜け落ちているのだ。生きた心地がしない。


 生まれてこの方、二十七年の人生を歩んできた穂乃香は、絵に描いたような優等生ぶりを発揮してきた。


 大失態を犯したことなど一度もない。


 こういう時の対処法など取得していないので、頭には一刻も早くこの場から逃げ出す算段しかなかった。


 ガバッと起き上がった穂乃香は、背筋を正し綺麗な正座の体勢に持ち込むと、神妙な面持ちで深々と頭を下げる。


「この度は多大なご迷惑をおかけした上に、醜態までさらしてしまい、申し訳ございませんでした。ここの宿泊代はもちろん、クリーニング代も支払わせて頂きますので」


 謝罪の言葉をつらつらと並べ立てている途中、男性から制止の声が割り込んできた。


「いえいえ、その必要はありませんよ。バーでのことは私のお節介が招いたことですので、どうぞお気になさらないでください。あなたも色々とご入り用のようですし。実は私も嫌なことがあり、憂さを晴らすためにバーに立ち寄ったのですが、あなたのような綺麗な方と出会えて、愚痴を零し合うことができたのですから、それで充分ですよ」


 ーーなんて優しい男性ひとなんだろう。


 穂乃香は元婚約者としか交際経験がなく、こんなにも誠実な対応をされたことがなかった。ゆえに、感動さえ覚えつつあったのだが、いつもの頑固さがひょっこりと顔を出す。


「いえいえ、そういうわけには。それでは私の気が収まりません」


 男性のほうも、一度口にした手前撤回するつもりはないようで、しばらくは互いに平行線を辿っていた。


 このままでは埒があかない。


 穂乃香がそう思っているところに、男性から折衷案が放たれる。


「では、提案なのですが。実は、あなたの香りが、私の好みでして。今夜こうして出会えのも何かの巡り合わせでしょうし、どうか今夜一晩だけ、私と一緒に過ごして頂けませんか?」


 しかし、彼からの思いもよらない誘いの言葉に、穂乃香は瞬時に凍り付いた。


 バーでチラッとしか見てはいないが、身に纏っていたスーツも磨き上げられた革靴も、元婚約者と比較するのも烏滸がましいほど、高級そうなモノだったように思う。


 なによりゆったりと落ち着いた所作や立ち居振る舞い。醸し出す雰囲気が上品で美しく、知らず目を惹きつけられる。


 入社して以来、秘書として重役の下で働いている穂乃香には、この男性が相当な肩書きを持っているであろうことは容易に想像できた。


 なものだから、こんな豪華なホテルの宿泊代なんて目が飛び出るほどの金額に違いない。そう案じていたため、太っ腹発言と男性の紳士的な対応に感動さえ覚えていた。


 だというのに、ここにきての変態発言。


 男性に対する感謝の気持ちも、抱いていた紳士なイメージも、瞬時に消え去っていた。


 ーー私の匂いが好みって、どういう意味? 今夜一晩だけってことは、つまり……。


 酔い潰れた穂乃香をこのホテルに連れ込んだのも、身体が目当てだったに違いない。


 酔っていたはずの頭が瞬時に覚醒し導き出した答えに、真っ青になった穂乃香はすっくと立ち上がる。そうして男の前を素通りして部屋から立ち去ろうとして、突然目の前がぐにゃりと歪んだ。


 ーーあっ、ヤバい!


 そう思った時には、バーでの二の舞を演じる羽目になってしまっていた。


 結果として、穂乃香が再び目を覚ました頃には窓の外が白みかけていた。そうして隣には、水も滴るいい男から変態へと格下げした全裸の男の姿があり、記憶がないながらも昨夜の出来事が夢ではなかったのだと思い知る。


 それも束の間、裸の男同様何も身に纏っていない自身のあられもない姿にショックを隠しきれぬまま、ベッドの下に散らばった服を掻き集め素早く着替えると、逃げるようにして部屋を後にした。


 エントランスまで辿り着くと、ちょうどいい具合にたった今客が降車したばかりのタクシーへと乗り込んだ。


 運転手に行き先を告げてシートに深く身を沈めた穂乃香は、二日酔いで痛む頭と沈んでしまいそうになる気持ちとを少しでも紛らわすため手でこめかみを押さえて瞼を閉ざす。


 そして、もう二度と、男なんて絶対に信用してなるものかーーそう心に固く誓ったのだった。


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