第11話 大人の世界へ

 シロが帰宅したのは、それからおよそ2時間後の事だった。


 部屋で、ゲームをしていた俺は、その気配を片耳で聞いていた。

 ガチャっと部屋の扉が開き「舞は?」と、シロが訊ねた。


「帰ったよ」


 俺は、舞の豹変ぶりをシロには話さなかった。

 多分、シロにもわからないだろうし、めんどくさい事になりそうだと思ったのだ。

 きっと、明日になったらケロっとしてまたここへやって来るだろう。

 学校でも会えるし。

 この時の俺は、まだそこまで大ごとに捉えていなかったのだ。


「どこ行ってたの?」

 ゲームのコントローラーを操作しながらそう訊ねると、シロは後頭部をぼりぼりと掻いた。

 子供の頃から、シロは訊かれたくない事を訊かれた時、そういう仕草をする。


「今日、休みだったんだろ」

 畳みかけるように問いかけた。

 舞の涙のわけは、シロのせいなんじゃないかと、思い至ったからだ。


「休みでも、客に呼び出されたら休みにならないんだよ!」

 シロは苛立ちを隠そうともせず、急に声を荒げてきた


「なんで、そんなに怒ってんの? 何かやましい事でもあるの?」

「は?」

「は?」

 俺はコントローラーを机の上に放り投げた。

 キーボードに当たって、ゴシャンと複雑な音がなる。それが合図かのように俺は立ち上がった。


「なんだよ」

 俺の挑発に、シロは応戦態勢。


「何イラついてんの? ホストだったらもっと上手く嘘吐けよ! 女泣かせんなよ」

 俺は思わずシロの肩を突き飛ばしていた。

「は? 何が嘘だよ。俺がいつ嘘ついた? 泣かせたってなんだよ」

 シロは、俺の胸倉を掴んで、鼻先に顔を近づける。

 俺は一歩も引かない。

「俺は見たんだよ! 女子高生といちゃつきながらお前がどっか行くのをな!」

 シロは、一瞬で顔を強張らせて、しばらく俺の顔を睨みつけていたが、振りほどくようにして胸倉から手を放した。


「それ、舞に言ってないだろうな」

「言うわけないだろ」


 シロは俺に背を向けて、リビングのテーブルの脇にあぐらをかいた。

 しばし、じっと宙を睨みつけていたが、急にテーブルにバン!と、拳を叩きつけた。


「俺だって、必死なんだよ!」


 その背中は震えていて、とてつもない負のオーラを放っているように見えた。


◆◆◆


 あの頃の私は、明らかに情緒不安定だった。心は素直に欲しているのに、体は違う方向に動いてしまう。

 結果、欲求不満で不完全燃焼。

 それはDNAだったのか、あるいは本能だったのか。未だにその答えは見つかっていない。


 ただ、あの時の私は、悲しくて、怖くてたまらなかった。


 昨日までの強固な関係が、一瞬で崩れ去る音が聴こえた気がして――。


 外は、息が白くなるほどではないが、夜風は刺すように冷たい。

 不意に衣服から侵入する冷気が、体を震えさせる。


 心とは相反して、足の動きはスムーズだった。

 自動的に駅の改札をくぐって、3日ぶりに自宅への帰途に着く。

 人がまばらに行き交うホームへと足を進める。


 車内はガラガラに空いていて、私は優先席に座った。

 私には、この席に座る権利があると思う。


 私はただ、クロに聞いて欲しかった。

 どうするべきなのか、一緒に考えて、答えを探す手伝いをして欲しかった。頼れる存在は、私にはもう、クロしかいなかったのだ。


 どうでもいい事かもしれないけど、サスクル教えての、私だからね。

 今日の配信でサスクルやるって聞いてたから楽しみにしてたのに、私の存在は皆無で、ゲーム仲間って事になっていた。

 途中からゲーム、どうでもよくなっちゃってたし。

 一緒にやろうねって笑いあったのは、つい一週間前なのに――。


 季節が移り変わるように、私達の関係も少しずつ変わり始めているのだ。気が付いたら大人の世界の入り口に立たされていた。


 そこは泥沼だろうがいばらの道だろうが、進んでいくしかない。

 いつまでも、子供のままではいられない。

 そんな瞬間が、刻一刻と音もたてずに、けれど確実に近づいていた。


 先月の生理日からの記憶を辿り、指折り数える。

 何度計算しても、もう1週間遅れている。


 それ以外の兆候は、まだ何も見られないけれど、情緒は不安定だった。

 単に遅れているだけなのかもしれないし、妊娠しているのかもしれない。

 先の事が何も見えないまま、未来への答えがないまま、一人でこの事実に向き合わなければならない恐怖に、私は押しつぶされそうだったのだ。


 車内アナウンスが、降車駅を伝えて――。


 電車を降りた。

 そこはイヤと言う程、見てきた風景が広がっている。街は半分眠りについていて、長方形の窓からぽつぽつと温かな灯りが滲んでいた。


 24時間のドラッグストアに寄って、検査薬を買った。色々迷った挙句、1Dayと謳われている物に決める。

 生理予定日の1日目から検査できるという優れもの。

 ネットで調べたら、検査薬の精度は高くて、陽性判定が出れば確実に妊娠しているという事になるらしい。


 制服姿だったからか、レジに入った店員のおばさんが、優しく声をかけてくれた。

「一人で抱え込んじゃダメだよ」って。

 頭の中がぐちゃぐちゃにこんがらがって、泣いてしまいそうだったけれど、ぐっと奥歯を噛んで、涙を堪えた。

 どうしたらいいの? 誰が一緒に抱えてくれるの?

 涙を抑え込んで、ぺこっと頭を下げて店を出る。


 途中、何度かクロから着信があったが、無視した。

 昨夜、赤ちゃんみたいに私のおっぱいを吸っていたクロと、彼女と甘々配信するクロが、私の中でどうしても一致しなかったのだ。

 だから、配信中に部屋に入って確認したかった。

 本当にクロなの?


 結果、本当にクロだった。

 私の胸で甘えていた赤ちゃんみたいだったクロは、先に大人の世界に行ってしまったのだ。

 いや、先にそっちに行ったのは私か。

 シロと付き合って、セックスして、妊娠までしちゃったかもしれない。

 クロは遅れて追いついただけの話だ。

 それなのに、苦しくて歯痒い。

 この感情の名前を、私はまだ知らなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る