第64話
ヴェルターの目はそこから貼り付けたように動かなくなってしまった。ちょうどそのタイミングでノックされたドアに正気を取り戻した。
「殿下、そろそろお茶を用意させましょうか」
入って来たエアンに頷くと、エアンはすぐに部屋を出て行った。直ぐに侍女がお茶を持ってくるだろう。早く、席に着かなければ。そうは思ってもヴェルターは目の前が真っ暗になったようで上手く体を動かせなかった。
以前、王太子側ではない馬車庫にリティアの馬車が停められていたあの時もシュベリー卿に会っていたのだろうか。ヴェルターの疑心は募るばかりだった。侍女の持ってきたお茶はリティアがここへ寄ることも想定されたリティアの好みのもの。この香りがこの日ほど苦痛に感じることはなかった。
ヴェルターの脳裏にリティアとウォルフリックが初めて会った時のことが思い出された。リティアのどこか惚けたような顔、“あなたと真逆ね”確かにリティアはそう言った。
「悪い予感というのは当たるのだな」
ヴェルターは、こんなことなら、と後悔した。こんなことなら宮廷に遊びに来るように言うんじゃなかった。ヴェルターは久しくリティアの心から笑った顔を見ていなかった。それどころか、あんなはにかんで高揚した表情は見たことが無かった。リティアが異性を特別な感情で見つめる、そんな顔だった。
ヴェルターはどうしようもない黒い感情に吞まれそうになった。自分の真珠の髪も、淡い色の瞳も何もかも気に入らず手荒に髪をかきまぜた。ヴェルターには苦しい胸の内を打ち明けられる相手は誰もいなかった。
次に侍女がティーカップを片づけに来た際には、乱れを正したいつものヴェルターだった。
「あら、お飲みにならなかったんですね」
「ああ。すまないが、もう一杯お茶を入れなおしてくれないか」
「ええ、冷めてしまいましたね」
「この茶葉以外のもので頼む。出来れば頭がすっきりとするものを」
「かしこまりました」
侍女が出て行くと。ヴェルターは空を仰ぎ、目を閉じた。目を閉じるとさっきのリティアとウォルフリックの姿が浮かび、苦く笑った。自虐的な心情だった。今度は俯きもう一度大きなため息を吐いた。いくら吐いても心の靄は胸にずっと張り付いて出て行きそうには無かった。
ヴェルターは、一、二、と指を追った。リティアと婚約してどのくらいの月日が経っただろうか。そして、リティアと婚姻を結ぶ日まであとどのくらいだろうか。
「あと、半年ばかり。ここまで待ってこんな理不尽なことがあるだろうか」
あと半年。その日をずっとずっと待っていた。ようやく念願叶いこの想いが成就するのだと思っていた。神の前で愛する人に永遠の愛を誓い、両手で、この腕で抱きしめられるのだと。……神は残酷だ。今になってこんな出会いをわざわざ用意するのだから。
ヴェルターはの指折り数えた手は止まったままだった。
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