第7話

 片付けなければならない書類は山ほどもあるのに、思った以上に仕事は進まなかった。

 どれも単純な案件ばかりで、深く考えなくても決裁できるというのに、これもヘドリックがあんなことを言ったからだと、心の中で責める。


 セレニアのことは気の毒だと思う。

 近しい身内に頼るものもなく、鵜の目鷹の目で財産を狙ってくる者を相手に一人立ち向かわなければならない。

 助けを求められたら隣人として協力は惜しまないが、彼女の様子やヘドリックの口振りから安易な手助けは受け入れないだろう。


 すっとお茶の入ったカップが目の前に差し出され、驚いて見上げると母の乳母の娘で現在はメイド頭をしてくれているメリッサが立っていた。


「お声をお掛けしたのですが、何やら思案されているようでしたので、申し訳ありません。少し休憩されてはいかがですか?」

「いや、気づかなくてすまない。ありがとう」


 亡き母の輿入れで夫と共にこの地までついてきてくれた彼女は、この地から子どもたちを一人立ちさせ、十年前に夫を亡くし母がその後すぐに亡くなってからも甲斐甲斐しく世話をしてくれる。自分に取ってはもう一人の母のような存在だった。


「どうされましたか?」


 ひと口飲んで、違和感を感じて眉をしかめたのを彼女は見逃さなかった。


「いや、いつもの茶葉ということは、ドリフォルト家の茶葉だな?」

「そうです。ジーンクリフト様のお召し上がりになるものはいつも同じです」

「そうだな。味がなんだか違う気がして」


 生まれたときから飲んできて、討伐先でもほっとしたいときにはよく飲んでいた味だが、何か違う気がした。


「もしかして、セレニアさんの煎れたお茶を召し上がりましたか?」

「今朝、ドリフォルト家でご馳走になったが」

「ああ、それでですね。彼女は良い茶葉を育てますが、煎れ方にもこだわりがあって、腕もかなりのものなのです。彼女が催すお茶の講習会は、この辺りの女性たちに人気なんですよ。お茶だけでなく、一緒に出されるお菓子も彼女の手作りで、皆花嫁修行の一環でこぞって参加したがります」

「そんなことまで手を広げていたのか」


 邸や茶畑の切り盛りの他に、そのようなことまでしていると聞いて驚いた。


「確かに、需要を広げるためにも、有効な手だな」


 感心して呟く。


「彼女のお茶を飲まれたのなら、私の淹れたお茶は美味しくないですね」

「そんなことはない。普通に煎れてもドリフォルト家のお茶は充分に美味しい。彼女が特別上手なんだろう」

「あんな良い娘はいませんよ。なのにこの辺りの男たちときたら、自分より背が高いとか見栄ばっかりで、情けないったら」


 メリッサが忌々しげに言う。


「お祖父様が亡くなって、お金目当ての親類やら男やらが砂糖に群がる蟻のように彼女にまとわりついて、ゆっくり亡くなったドリフォルト卿を偲ぶこともできないんですよ」

「メリッサも彼女を心配しているのだな」


 まさに書類仕事が進まない原因である、セレニアの窮状をまた聞くことになった。

 メリッサも小さい頃から彼女を知っている分、とても心配しているのがわかる。


「当たり前です。去年の冬から私もあちこち神経痛で苦労しておりましてね。色々と心配してあれこれと世話を焼いてくれるんですよ」

「神経痛。知らなかった。かなり酷いのか」

「ジーンクリフト様に心配していただく程ではありません。寒くなると年で膝が少しね。ですが仕事ができないわけではありません」


 五年の歳月は自分も歳を取ったが、周りの人たちも同じだけ歳を重ねている。

 メリッサの茶色い髪にも、白いものが混じっているのを見つけた。

 セレニアの祖父母も亡くなり、大人しかったセレニアも立派な領主となっている。五年という年月の重さを、染み染み感じる。

 少女が女性へと変わるには、十分な年月だ。


「メリッサはもう一人の母だと思っている。無理はせず体を労ってくれ」

「そう思うなら、早く身を固めてください。討伐から無事に戻られて、すぐに首都へ赴かれたから、てっきり国王陛下あたりから紹介されて、花嫁の一人や二人連れて帰ってくると思っていましたよ」


 メリッサの体のことから自分に話が回ってくるとは思わなかった。やぶ蛇だったかと思う。


「花嫁二人はないだろう」


「言葉のあやですよ。それくらいの気合いで見つけてきて欲しいというね。十代の頃はもっとお盛んで、すぐに結婚されると思っていましたのに。やはりティアナ様のこと、今でも?」


 久し振りに聞いた名前だった。

 もう殆ど思い出すことはないと思っていた彼女の姿が目に浮かぶ。


「懐かしいな。だが、ティアナのことは関係ない。私も彼女も幼すぎて、結婚というものをよく理解していなかった。家名を背負った者の結婚というものが、互いの感情だけではうまくいかないと悟る、よい教訓になった」


 その激しい気性を表しているかのように、艶やかな赤毛に緑の瞳をしたひとつ年上の従姉妹を思い浮かべる。


「確かに、あの方はどこか夢見がちで地に足がついていないような、浮世離れした方でした。ビッテルバーク辺境伯閣下の奥方になられても、あの方には重荷だったでしょう」


「単に私と彼女にそういう縁がなかったのだ。そして全てを捨てて二人だけで生きていく力もなかった」

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