第53話 親睦会

「呼吸」


 アマンダさんの声に、全身がびくりとする。

 

「した方がいいよ」


 そう言われて初めて、自分が息を止めていたことに気がついた。

 あえぐようにして、酸素を取り込む。


「春奈!? どうしたの? 大丈夫?」

「大、丈夫……ちょっと、気管が詰まっちゃって……」


 私はチラとアマンダさんを見る。

 いつもの鷹揚おうようとした彼女に戻っていた。

 でも……。


(やっぱり、この人は怖い……)


 覚悟を決めたはずなのに、ぐらりと揺らいでしまう。

 でも同時に、再認識もする。


(この人をお兄さんに近づけちゃいけない……)


 どうしよう。

 今からでも追い返すべきだろうか。

 いや、無闇に揉めるのも得策じゃない。


 お兄さんが戻ってくるまで、まだ猶予があるのだ。

 相手を気遣う必要がなく、ただ排除すればいいだけなら、やりようはいくらでもある。


(とにかく、この親睦会さえ乗り越えてしまえば……)


 私はそう、心に決める。

 でもそんな私の思いとは裏腹に、親睦会は終始穏やかなムードだった。


 私たちの共通の話題なんて、二つしかない。

 一つはダンジョンだ。

 さすがは世界唯一の国際ギルド。

 雑談のノリで出てくる話ですら、濃密で興味深かった。


(この人たちと、なんの気兼ねもなくダンジョントークができたらな……)


 もう一つの話題は、当然お兄さんだ。


「ずっと気になっていたんだけど」


 アマンダさんが言う。


「どうしてジローは、自分の凄さにあんなに無自覚なんだい?」


 ギンもうんうんと頷く。


「オレもずっと気になってた」

「それは……」


 少し躊躇ってから、別に隠すことでもないと思い、正直に打ち明けた。

 お兄さんは名前のせいで、子供のころから馬鹿にされ続けてきたこと。

 そのせいで人間関係に疲れて、ソロキャンプに目覚めたこと。

 アンリはそのことが許せなくて、お兄さんの凄さを世間に知らしめたいと思ったこと。

 でもお兄さんは目立つのが苦手だから、地上がパニックになっている事をひた隠しにしていること。


「なるほどね」

「……軽蔑しますか?」

「軽蔑? どうして?」

「お兄さんを利用して、お金儲けをしてるみたいじゃないですか」

「あはは。なにを言ってるんだい。配信の収益なんて、君にとっては端金はしたがねだろ」

「端金ってことはないですけど……」


 当然と言えば当然だけど、ダンジョンリンク社のことは知っているようだ。

 経営をほぼ人に任せて、私は表に出ないようにしているけれど、調べようと思えばいくらでも調べがつく。


「むしろ褒め称えるべき功績だ。ジローが配信をしないなんて、世界的な損失だからね」

「いくらなんでも大袈裟ですよ」

「彼の配信から、どれだけの新発見があったと思っているんだ。彼が配信をしていなかったら、ダンジョンの攻略も研究も、二年は遅れている。これはキャスの言葉だけどね」

「それは、そうかも知れないですけど……」

「なにより配信がなければ、私はジローの名前を知ることすらできなかったんだ。そう考えると、君たちは私の恩人とすら言える。ありがとう」

「…………」


 そう言われると、お兄さんに配信を勧めたのが今世紀最大のミスのように思えてくる。

 こんな怪物を引き寄せてしまったのだから。


「でも、不思議だね」

「なにがですか?」

「配信が話題になっている事を知らない理由はわかった。でもジローは、自分の強さにも無自覚だろう? 今の話じゃ、そこを説明できない」

「それは私もずっと不思議でした」


 あんな飛び抜けた強さをしておきながら、自分のことを特別だと微塵も思っていない。


「お兄さんは、そういう性格だからとしか」


 アマンダさんは納得いっていなさそうだったけれど、


「まあそういうことなら、私たちも可能な限り話を合わせるよ」


 とまとめた。


 そんなふうになごやかな、それこそ本当にただの親睦会のような時間を過ごす。

 漫画とかでよくある心理戦とか駆け引きみたいなことが繰り広げられるんじゃないかと、密かに覚悟していたのに、そんなことは一切ない。

 ただただ、のんびりとした時間だけが流れていく。


(もしかして、私の取り越し苦労だったのかな……向こうは本当に、親睦会のつもりで……)


 それも、ない話ではない。

 向こうにとって、お兄さんと近しい私たちと仲良くなるのは、決して無駄ではないはずだから。


(それならいいんだけど……)


 もちろんまだ気は抜けない。

 彼女たちが帰るまでは。

 でもどうしても、張り詰めていた緊張の糸が、少し緩んでしまう。


(アマンダさんの時計、可愛いな)


 ふと、そんなことを思った。

 ローズゴールドのシンプルな腕時計だ。

 きっと高級品なのだろうけど、無駄な装飾が一切ないから、素人目には高いのか安いのかよくわからない。


 アマンダさんなら、男物のゴツゴツした『ザ・高級腕時計』みたいなやつでも似合いそうな気がする。

 でもそのシンプルなレディースの時計は、不思議と彼女に馴染んでいた。


(……あれ? なんで私、時計になんて興味を持ったんだろ?)


 これまで一度も、腕時計に興味を持ったことなんてないのに。

 しばらく考えてから、その答えに思い当たる。

 アマンダさんはこれまで何度も、腕時計で時間を確認していたのだ。

 それが無意識のうちに、引っかかっていて……。


「……この後に、何か用事でもあるんですか?」

「いや? 特にないよ」

「そう、ですか……」


 不安と疑念が胸のうちに広がっていく。

 それが実像を結ぶより早く……。


 カチリ——


 玄関の鍵が開く音が、リビングにまで届く。

 アマンダさんの口元が微かに——けれど確かに、緩むのがわかった。

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