第27話 名前、言葉
そんなある日のことだった。
「オレー! オレー!」
拠点近くの山の中から、少女の声がする。
切羽詰まった様子ではないから、放っておいたんだけど……。
山から少女が駆け降りてきて、俺に詰め寄ってきた。
「オレ!」
なんだかとても怒ってるみたいだった。
「俺?」
自分を指差して、そう尋ねる。
もしかして俺を呼んでいたのだろうか?
そう思ってから、ハッとする。
(もしかして、俺のことを『オレ』って名前だと思ってる……?)
「オレ!」
少女が責めるように、俺を指差す。
どうやら、間違いないようだ。
俺は現地の言葉で否定する。
でも俺の言語スキルでは、上手く説明できない。
そもそも少女も、現地語が理解できるわけじゃないのだ。
俺は腕を組んで、うんうんと悩む。
そんな俺の様子に、少女も首を傾げていた。
日本語を教えてしまうと、彼女の今後の生活に支障が出ると思って、できるだけ日本語を喋らないように心がけていた。
俺の計画では、とっくに村に住んでいるはずだったのだ。
そこで一緒に、現地の言葉や常識を学んでいくはずだったんだけど……。
まさか
(さすがに、名前くらいは教えておくべきだったかな……)
でもそれはそれで、また別の問題が起きるのが目に見えていたし、二人きりの生活だから呼び名がなくても特に
俺は自分のことを指差す。
「ジロー」
すると少女が俺を指差して、
「オレ!」
「…………」
ちなみに彼女の指差しは、俺を真似して身についたものだ。
「えっと……」
困った。
名前を教えるだけなら簡単なんだけど、勘違いを正す方法が思いつかない。
今更ジローと教えても、じゃあ『オレ』はなんなんだと混乱させてしまいそうだ。
俺は自分を指差して、
「俺」
と言った。
それから少女を指差して、
「あなた」
と言う。
それを真似て、少女は俺を指差しながら、
「オレ」
自分を指差しながら、
「アナタ」
と言った。
俺は現地の言葉で、違うと否定する。
(『あなた』も、現地の言葉に置き換えるべきだったかな……)
そう思ったけれど、『俺』が日本語なのだ。
それはそれで、またややこしくなる。
うんうんと散々悩んだけれど、もうこうなったら仕方がない。
考えてみたら、俺の人生が計画通りに行ったことなんて、これまで一度もないのだ。
(あぁ……人生で一度くらい、ニヤリと笑いながら『計画通り!』とか言ってみたい……)
少女の手をとって、自分自身を指差させる。
「俺」
今度は俺を指差させて、
「あなた」
少女の手を離して、俺は俺を指差す。
「俺」
少女を指差して、
「あなた」
最後にもう一度、自分を指差して、
「俺、ジロー」
全力の「はぁ?」顔が返ってきた。
うん、俺もこれが最善ではないと、薄々気づいている。
でももうどうしようもない。
引き返せないところまで来てしまった。
それに一緒に生活していて痛感したことだけれど、この子は頭の回転がものすごく早いのだ。
少なくとも俺よりは。
だから通じるかなと思ったんだけど……。
少女は腕を組んで、頭を左右にブンブンと振り回す。
多分これも、俺の仕草から学んだのだろう。
(……俺って悩んでる時、こんなヘンテコな動きしてるんだ。やめよう……)
少女のふり見て我がふり直す俺だった。
うんうんと悩む少女を見守ること数十秒。
彼女の頭の上にピコーンと電球が
彼女はとても表情が豊かなのだ。
俺をピッと指差すと、
「アナタ、ジロー!」
「っ! そう! そう! 俺、ジロー!」
「アナタ、ジロー!」
「俺、ジロー!」
伝わったのが嬉しくて、二人でキャッキャ、キャッキャとはしゃぐ。
俺は子供と同じ熱量ではしゃぐことができるのだ。
それを美点と見るか、汚点と見るかは、人によるだろうけれど。
でもすぐに、少女はピタリとはしゃぐのをやめた。
それがあまりに急だったせいで、俺一人だけがキャッキャとはしゃいでいる時間が、数秒間
少女の頭の上に、またポコンポコンとクエスションマークが生えてくる。
うんうんと悩んだ末に、自分のことを指差して、
「オレ?」
と尋ねてきた。
「…………」
これだ。
俺が自分の名前を教えなかった一番の理由。
賢いこの子なら、すぐにそこに辿り着いてしまうと分かっていたから。
これもまた、俺の計画倒れの
本当なら村に住み、村人から彼女に似合う素敵な名前をつけてもらう予定だったのだ。
俺自身がジローラモなんて名前を付けられたせいで辛い思いをしたから、彼女の名付けにはかなり神経質になっていた。
(だから、この子の人となりとか理解してもらった上で、なんて考えていたんだけど……。どうしよう。ここは
そこまで考えて、本当にそれでいいのかな、とふと思う。
無難だから、なんて理由で、日本でいう「花子」みたいな名前を彼女につけるのが、本当に正しいのだろうか。
それで、この子の母親の信頼に応えたことになるのだろうか。
(そっか……別に役所に届けるわけじゃないもんな……)
俺たちの間だけの愛称でいいのだ。
そのうちきっと、誰かが彼女に相応しい素敵な名前をつけてくれる。
「そうだね……じゃあ……」
頭に浮かぶのは、あの美しい狼の姿——
「ギン」
「……ギン?」
「そう。君がお母さんから受け継いだ、その綺麗な髪の色の名前だよ」
言葉を理解したわけではないだろう。
でも、心に響くものがあったのかもしれない。
彼女の顔が、みるみる華やいでいく。
「オレ、ギン!」
「あなた、ギン!」
「アナタ、ジロー!」
「俺、ジロー!」
それからまた、二人でキャッキャとはしゃぎ回った。
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