第24話 狼

「寒ぅ〜……」


 刺すような風が吹きつけてくる。

 雲行きも怪しい。


(日が暮れる前に、拠点を見つけないとな……)


 そんなふうに考えていた時だ。

 風に乗って、微かに子供の泣き声がする。


(……こんな山奥で?)


 有名な怪談を思い出して鳥肌が立った。

 聞かなかったことにしようか——

 一瞬そんな考えが浮かんだけれど、その声があまりに悲痛ひつうで、どうしても無視をすることができなかった。


 俺は声のする方へと向かう。

 草木を掻き分け、山の斜面を登った。


 その先で俺は、信じられないものを見る。

 六、七歳くらいの少女と——そして、一匹の狼。


 狼は地面に倒れ伏している。

 その銀色の毛並みは、赤黒く汚れていた。

 少女はそんな狼に取りがって、泣き叫んでいた。


 疑問がいくつも浮かんだけれど、その全てを俺は棚上げにする。

 優先順位だ。

 まずは狼の容体を確かめなければならない。


 俺が近づくと、狼が俺の存在に気づいて、頭を少しだけ持ち上げた。

 でもそれだけだ。

 それ以上の動く体力は、もう残されていないみたいだった。


 少女も遅れて、こちらを振り返る。

 涙でぐしゃぐしゃになった顔。

 ずいぶんと薄汚れた身なりだった。

 髪も肌も汚れていて、元がなんだったかもわからないボロ布で身を包んでいる。


 でもパッと見た限り、彼女は怪我をしていない様子だ。

 やはり最優先は、狼で——


 そう判断して傷を見ようと、かたわらにかがみ込んだ時だった。


「ガァアアアッ!」

「いっ」


 狼に伸ばした手に、少女が噛み付いてきた。

 ギリギリと、食いちぎらんばかりに歯が食い込んでくる。

 その様は獣そのもので——

 俺は少女と狼の関係性を察する。


 もう片方の手で、俺は彼女の頭を優しく撫でた。


「大丈夫、怖くない。怖くないよ。この狼は、君の家族なんだね。大丈夫だから」


 心の中にナウシカを召喚して、そう優しく語りかける。

 何度も繰り返していると、少女の噛む力がふっと緩んだ。


(ナウシカ先輩、マジパネェ……)


 噛まれた傷口を確認する。

 血がダクダクと流れていた。

 えぐれた肉の向こうに、白いものが見える。


(ワーオ、初めて自分の骨を見るぜ……)


 一旦見なかったことにして、無事な方の手で狼の傷を確認した。

 銃創じゅうそうだった。


 この辺りは禁猟区のはずだ。

 それ以前に狼は保護動物で——


(密猟か……)


 胸の内に苦いものが広がる。


 幸いなことに急所は外れ、弾も貫通しているようだ。

 でもとにかく出血がひどい。


(まずは血を止めないと……)


 俺はリュックから包帯を取り出した。

 この手のままだと満足に手当もできないから、水で軽く洗って、包帯をキツく巻いておく。

 試しにグーパーグーパーとすると——


「……っ」


 悶絶もんぜつするほど痛かった。

 でも、命に関わるほどじゃない。


(後でちゃんと抗生物質を飲まないとな……)


 俺の様子に、少女がオロオロとしているのが、なんだか忍びない。

 アウターを脱いで、少女の肩にかけてやる。


 狼の傷も、まず水で洗った。

 狼は苦しそうにうめいたけれど、必要な手順だ。

 少女にしたように、狼のことも優しく撫でて、なんとか落ち着かせる。


 傷口に清潔な布を当てて、包帯でキツく縛った。

 これで出血は抑えられるはずだ。


 俺は少女に話しかける。

 一応、現地の言葉を話してみたけれど、やっぱり通じないようだった。


「これ」


 俺は水筒のキャップを開けて、一口飲む。

 それから彼女の口元にも持っていった。

 少し抵抗されたけれど、彼女も水を口に含んだ。

 それから俺は水筒を彼女に渡して、狼を指差した。


「飲ませてあげて」


 ちゃんと意味が通じたようで、彼女は水筒を持って狼に駆け寄った。

 その口に、ちびちびと水を垂らす。

 その必死な横顔に、胸が締め付けられた。


 次は体温の維持だ。

 リュックをひっくり返して、着替えやタオルなど、保温に使えそうなものを片っ端から狼に被せていく。

 最後はリュックまで被せた。


 火を起こし、焼いた石を布で包んで狼のそばにおく。

 それから陣幕じんまくを張って、雨風が当たらないようにする。


 とっくに日は落ちて、雨も降り始めた。

 バタバタバタと、雨が陣幕を叩く音。


 干し肉をドロドロになるまで煮た、即席の流動食を狼に食べさせる。

 俺と少女も、保存食だけの食事を取った。


 俺にとっては味気ないけれど、少女にとっては初めて食べる人間の食事だったみたいで、最初はおっかなびっくり、でも一口食べてからはガツガツと口に運んでいた。

 あまりの食いっぷりのよさに、俺の分も半分あげる。

 狼にも食べさせようとするから、それはさすがに止めた。


 さすが狼の生命力だ。

 かなり持ち直したようで、目にも生気が戻っていた。

 少女はそんな狼に、メソメソと泣きながらすがり付いていた。


 俺は布の山をめくって、狼と寄り添って横になれるように、少女もその中に入れてあげる。

 そのかたわらに座って、俺は考えた。


(これからどうするべきなんだろう……)


 現地当局に連絡するべきなのはわかっている。

 狼の容体が一刻一秒を争うと判断して、後回しにしてしまったけれど、本来真っ先にしなければならないのはそれだ。

 俺のつたない現地語じゃ、現状を伝えるだけでも相当な時間がかかる。

 それならまず、応急手当てだけでも……と考えたんだけど。


 今はもう落ち着いているのだ。

 なら今からでも連絡をするべきだ。

 まず妹に連絡して、大使館を通してという手もある。

 むしろそっちの方がスムーズかもしれない。


(でも……)


 俺が気がかりなのは、少女の存在だ。

 現地当局にこのことを伝えたら、当然少女は狼から引き離されてしまうだろう。

 狼の容体が悪いなら、そんなことも言っていられないけれど、すでに命の危機は脱しているのだ。

 なら俺が当局に連絡するのは、狼を救うためではなく、少女と狼を引き離す行為に他ならない。


 俺は布に包まれた少女と狼を見る。

 嬉しそうにじゃれ合う姿を見ると、なかなか決心がつかなかった。


「……くしっ」


 くしゃみが出る。


「ああ、寒い……」


 アウターは少女に貸したままだ。

 俺は体育座りをするように、自分の足をギュッと抱き寄せた。


「あぅ」


 声に振り返ると、少女がこっちをじっと見つめていた。

 布の隙間から、すっと手を差し伸べてくる。


「いや、俺はいいよ」


 そう言ったけれど、彼女には言葉が通じない。

 その純真な瞳で見つめ続けられると、無視することもできなかった。


 俺も布の山の中にお邪魔する。

 少女を間に挟むようにして、俺たちは川の字になる。


(あぁ……)


 少女と狼の温もりを全身で感じながら、俺はしみじみと思った。


(くっせぇ……)

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