最終章 君がいない夏
第36話 灰色の世界が動き出すとき
俺は、生きるために必要なもの以外は全て捨てた――。
吉川が繋ぎ直してくれた仲のいい友達との縁も断ち切った。
俺に残ったものは、ただ生きるために必要なお金を稼ぐための仕事と、
感覚として残っているのは、自分の手が覚えている温もりしかない。
それだけでは不安だったので、ハルちゃんとの思い出を、過去の自分が送ったスマホのメールから文書ファイルとしてまとめ直した。さらにそれが消えてしまわないようにバックアップを取り、プリントアウトしたものも手元に置いていた。
それを読み直して、再度記憶として定着させていく。
きっと客観的に見れば、ひどく虚しく、無意味なことをしているように映るだろう。
しかし、この世界で俺が俺として生きるためには必要なことだった。
ハルちゃんを忘れたときに、今の自分とは違う自分になり、それなりの人生をくるのだろう。
独り身を貫くのか、人並みの幸せを手に入れるのかはわからない。年齢的にもまだやり直しがきくので、リスタートも難しくはないだろう。
しかし、そんな未来を今の俺は望んでいない――。
辿り着きたい
ただ空っぽの
幾度かの季節が巡った。
慣れた仕事をこなし、ご飯を食べて、部屋でハルちゃんのことを記した思い出を読んで眠りにつく。
ただその繰り返し。
生活のサイクルは固定され、変わり映えのしない日々がただ零れ落ちるように過ぎ去っていく。
自分から捨て、新たに作る気がないので、友達も恋人もいない。仲のいい同僚もいない。
実の親とも、年に数回連絡をすればいい程度だった。
好きだったはずのゲームも、スポーツ観戦もしなくなった。
楽しいと思うことも、嬉しいことも、悲しいことすらない。
ただ何もないという日常の連続で、感情が動くことすらなくなっていった。
もう生きている理由すら分からなくなっていた。
それでも自分から死を選ぶこともできず、死んだように日々を過ごしていた。
そして、また何度目かのハルちゃんのいない夏がやってきた――。
毎年更新しているのではないかという猛暑の中で、輝いて見える人たちがいた。
これからどうしようかと、涼しい店内で相談をしている中高生くらいの仲のよさそうなグループ。
早い時間から飲みに行こうと、街に繰り出してきた大学生くらいの一団。
駅前で待ち合わせた相手と会えて表情を明るくするカップル。
これから行く店や食べるご飯が楽しみでならない幼い子供を連れた家族。
もしかしたらありえたかもしれない自分や、かつての自分の姿を横目に、ただすれ違い、通り過ぎていく――。
学生の夏休みはひと月はあるけれど、社会人にとっての夏休みは盆休みという短い期間しかない。
その休みでさえも、俺は予定もなく、したいことも行きたいところもないので、無為に過ごすしかない。
そんな灰色の世界に、スマホが通知音を鳴らした。
親から帰って来いという催促か、迷惑メールだろうと思いつつ、スマホに手を伸ばした。
『今年は一緒に花火を見に行こうよ』
ロック画面に表示されたメールの文面に、不信の目を向ける。
俺には誘ってくるような相手もいないし、誰かが連絡してくるとしてもLINEでしかない。
それを今どきメールで来るなんて、いよいよ悪戯か迷惑メールだろうと結論付けて、スワイプして通知を消そうとして、手を止める。
送信してきた相手の名前が目に入ったからだった。
弓月悠
その名前を見た瞬間、俺の世界は息を吹き返したかのように色を取り戻し始めた。
座り直して、姿勢を正し、メールを確認した。
何度見ても、送り主は弓月悠になっていて、アドレスも登録したままになっているアドレスから送信されたことになっていた。
おかしなことは送信日時が、十年以上前の今日だった。
それはハルちゃんがいなくなった年だった。
過去からメールが届くなんてことは、エラーでしか起こりえないことだった。
それでもエラーでもなんでも、ハルちゃんからメールが届いたことが何よりも嬉しくて、心臓が久しぶりに脈動しているのを感じる。
『本当にハルちゃん?』
俺の返信はどこにも届かずに、エラーとして戻ってきた。
だけれども、かつての届かないメールに絶望していたときとは異なり、俺の中には喜びが満ちていた。
ハルちゃんがいなくなって、初めて見つけたハルちゃん本人との繋がり。
それを目の前にして、飛びつかずにはいられなかった。
ずっと囚われ続けてきた存在に、自身の人生に対する答えに、辿り着けるかもしれないのだ。
何もなかったとしても、何があったとしても、これがおそらくこの世界での俺の人生の終着点なのだろう。
そこで俺はハルちゃんを忘れ、人が変わるのかもしれない。
全てを思い出して、孤独に苛まれるのかもしれない。
今のまま、何も変わらないってことだってありえる。
それでも、ハルちゃんからの誘いを断るという選択肢は俺にはなかった。
何かに期待するということを思い出し、子供の頃のように花火の日が訪れるのを待ち焦がれた。
未来がこんなにも待ち遠しいと思ったことは、今までにないことだった――。
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