紫煙の向こう側

紫乃 煙

紫煙

夜の街角に、静かに煙が漂っていた。古びたバーの入り口に立つ吉田は、一本のタバコに火をつけた。パチッという音と共に、オレンジ色の火が闇の中で揺れ、彼の顔をぼんやりと照らし出す。肺に入れた煙はゆっくりと彼の口元から吐き出され、冷たい空気の中で徐々に形を失っていく。


タバコの紫煙を見つめながら、吉田は過去の記憶に思いを巡らせていた。彼の人生は、この紫煙のように一瞬の輝きと共に、あっという間に消え去っていくように感じられた。


30歳を過ぎ、吉田はどこか人生に行き詰まりを感じていた。夢を追いかける情熱は若い頃に置き去りにされ、今はただ毎日のルーチンに埋もれて生きる日々。仕事、家、そして孤独。特別な出来事もなく、ただ時間だけが流れていく。


「こんな人生でいいのか…」


彼は心の中で自問したが、答えは見つからない。紫煙が夜空に溶けていく様を眺めると、自分の存在すらもこの世界の片隅で消え去っていくような気がした。


煙が揺らめく度に、彼の頭には様々な思い出が浮かび上がってきた。若い頃に抱いた大きな夢、失った友人、もう会えない恋人…。全てが今では遠い昔のことのように感じられるが、心の奥底では、その一つ一つが彼の人生に刻み込まれている。


彼女のことも思い出す。もう何年も前に別れた恋人、奈々美。彼女は吉田にとって、心の支えであり、唯一の希望だった。しかし、彼の無関心と無責任さが、二人の関係を壊してしまった。奈々美が最後に言った言葉が、今でも頭から離れない。


「あなたはいつも逃げている。自分からも、私からも。」


その言葉は、今も紫煙のように彼の周りに漂っていた。吉田は煙草の火をじっと見つめ、深く吸い込む。煙は苦く、肺の中で重く滞留した。


「逃げていたのは俺じゃなく、人生そのものだったのかもしれないな…」


吉田はついに気づいた。彼は今まで、自分が何かから逃げ続けていたことに気づかずに生きてきた。逃げていたのは夢、愛情、責任、そして自分自身の感情だった。彼は現実と向き合うのが怖かったのだ。目標を失うこと、愛する人を失うこと、そして、何よりも「自分自身の無力さ」を直視することが。


タバコの火が次第に短くなっていく。紫煙はゆっくりと、しかし確実に消えていくのを見て、吉田はまるで自分の命が少しずつ消えていくのを見ているような感覚に襲われた。どれだけの時間を無為に過ごしてきただろうか。どれだけの可能性を自らの手で手放してきただろうか。


「もう一度やり直せるだろうか…」


吉田は小さく呟いた。けれど、その答えはすぐには見つからなかった。タバコの最後の一吸いを深く吸い込み、彼は夜空を見上げた。真っ黒な空に、星が一つ輝いていた。その光は遠く、冷たく、しかし確かなものだった。彼も、何か小さな光を見つけることができるだろうか。


ふと、ポケットの中にあるもう一本のタバコを取り出し、火をつけようとする。しかし、その手が止まった。火をつける代わりに、吉田はタバコを見つめ、そのまま灰皿に置いた。彼は静かに立ち上がり、バーの扉を開けた。冷たい夜風が彼の顔に当たり、何か新しい感覚が彼の中に芽生え始めていた。


「もう逃げるのはやめよう」


そう心の中で誓い、吉田は夜の街へと歩き出した。歩みはまだ重く、道の先がどこに続いているのかも分からない。それでも、彼は今までとは違う感覚を持っていた。まるで、消えていった紫煙の向こう側に、これからの自分の人生がぼんやりと見えているようだった。


たとえそれが曖昧で不確かなものでも、吉田はそれに向き合うことにした。これまでのように目を逸らすのではなく、まっすぐに向き合う。それが、人生を再び歩き始めるための最初の一歩だった。


遠くで、自動車のクラクションが鳴り響き、都会の喧騒が少しずつ戻ってくる。吉田はコートの襟を立て、深呼吸をした。冷たい空気が肺に染み渡り、彼はかすかに微笑んだ。


タバコの煙は消えたが、彼の心には新しい火が灯っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

紫煙の向こう側 紫乃 煙 @shinokemuri

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ