僕と君と山羊

@Shioo

君と僕と山羊

米神を抑えて強い頭痛に耐える。頭を強く打ったことは覚えている。けれど、なぜ、どうして、そういったことが思い出せない。

 痛みに耐える為に閉じていた目を開けると、そこには黒いヤギと緑いっぱいの野原が広がる山があった。


 ふわふわと長い前髪が揺れる先を見つめたまま、僕はぼーっと広がる青空を見つめていた。座っていることで踏みつぶしている草が暖かい絨毯のようで心地が良い。大きく息を吸って、ゆっくりと吐く。そうしてようやく、周りを見渡した。すると、すぐそばに本が置いてあった。風で簡単に揺れてしまう紙の表紙を撫でてから持ち上げる。

 メェ

 驚いて顔を上げると声のそこに黒いヤギがいた。その目は僕ではなく本に向けられているようだった。

 メェ

 またひと鳴きしたヤギはどこか怒っているように見えた。僕は確信もなく直感でそう思って、背筋に悪寒が走った。すぐに逃げなければ、この本を持って。

 僕は本を胸に抱いて立ち上がる。それと同時にヤギは突進してきた。

 なんとか反射的に突進をよけて、恐怖で竦んでいる足で不安点ながらも逃げ出した。

 ヤギは諦めてくれず僕を追い掛けてきた。なりふり構わず突進してくる気配がして僕は後ろを振り返って避けようと身構えた。すると、どこからか石が投げらヤギを攻撃した。怯んだヤギを唖然と見ていると、「こっちだ、はやく」という声に導かれ、僕は声の方向へ走った。

 草木はあるが、山の上にあるココは傾斜が多い。息を乱して走っていると疲労から足が止まる。そして、膝をついて四つん這いになって息を整えた。そこへ、影が僕を覆った。見上げると、少年が立っていた。僕とは違い、癖がない真っ直ぐな髪をしていた。

 「ココのヤギに近づかない方がいいぜ、凶暴だから」

 「…向こうから、きたんだ」

 息を整えつつそう返して、四つ這いから体育座りになる。すると、少年もまた僕の隣に座った。そして、僕が持っている本を見て「なぁ」と声を掛けてくる。

 「その本、ちょっと貸してくんない?」

 僕は本を見て、すぐに少年へ本を渡した。なぜこれに僅かでも執着していたのか分からないぐらい、軽く。

 少年が本を手にした瞬間、本が光って消えた。

 間抜けな声が出て、本があった場所と少年を見る。少年は胸に手を当て俯いていた。

 少年はしばらくして、唖然とした僕へ視線を向けて困ったように笑い頭をかく。

 「あの本はさ、俺の記憶の一部らしいんだよね。」

 少年の話はこうだ。

 気付いたらここにいて、黒いヤギがいて、目の前には本が落ちていた。それを何気なく拾えば光って消えた。同時に、断片的に記憶を思い出した。そこから何冊か本を見つけ手にすると、次々に本が消えて記憶を思い出す。言われなくても、分かった。この本は少年の記憶であることに。そこでふと、黒いヤギが気になりだした。本が記憶であること確信した今、とてもまずい状況ではないか、と。

 いつの間にか俯いていた顔を上げると、黒ヤギはそこにいた。そして口を動かしてる。何かを食べている。その何かは、やっぱり本だった。

 少年は急いで取り返そうとするとヤギは怒ったように唸り突進してきた。そこからは、本を探しつつヤギから逃げる時間が始まったのだ。

 そこまで話して、少年は僕を見た。

 「もう何冊か喰われてるんだよ。だから、喰われてない本を今探しているところ」

 僕は、ただ少年の本を、黒いヤギに喰われる前に取り戻さないといけない。そう思った。

 「そんで、アンタは何者だ?」

 少年の問いに僕は答えられなかった。けれど、少年はそれで疑うわけもなく訝しげに見てくるわけもなく「そっか」と答えるだけだった。

 「じゃ、一緒に本を探そうか。アンタの本もあるかも」

 立ち上がった少年は僕に手を差し出す。僕はその手を握り返すと引き上げられた。

 「俺はクニヒロ。アンタ、名前は?」

 「…僕は、分からない」

 「そっか。アンタの本を探せば思い出せるかもな」

 ニカッと笑い、少年は手を離して歩き出した。僕もそれに倣う。

 そこから、僕と少年クニヒロは本を探し求めた。

 色々なところに本は捨てられたように置いてあった。崖のような場所にあった時や、昇ることが難しい場所は二人で協力して手に入れた。また、僕が黒ヤギの囮になってクニヒロが本を取ったりもした。結局、突進を受けそうになった僕をクニヒロが助けてくれるのだが。

 僕はどうやら運動神経とやらが極端に悪いようだ。

 クニヒロは本を手に入れると、時々苦し気に顔を歪める時がある。「大丈夫か」と聞くと、へらりと笑って「いい記憶だけじゃないからな」と項垂れていた。

 そんな様子を見ても、僕は記憶の本を全て取り戻さなければならないと直感していた。取り戻さなければならないという強い言葉は、僕の一体どこから出てくるのか謎だった。これも僕の本を手に入れればわかることなのだろうか。けれど、僕の記憶の本は見つからない。

 あらゆる場所で数えきれないほどの記憶の本を回収して、僕らは暗い洞窟の前に立っている。ここだけ、見て回っていないのだ。

 悪寒が走り続けている。嫌な予感がする。ここへ入ってはいけない。けれど、ようやくここへ来たかと思っている僕がいる。

 クニヒロはただ単に暗闇が気味わるい様子だった。

 「ここ、入らないとだよな」

 嫌そうに言うクニヒロに「そうだね」と同意する。

 メェ

 二人して後ろを向いた。その鳴き声は、もう聴き慣れたはずだった。だが、複数同時に聞くことはなかった。

 僕らが目にしたのは、ココ一帯全ての黒ヤギがそこいるのではないかと思うぐらいの数がそこにいた。

 僕とクニヒロは目線を合わせて、洞窟の中へ走った。全てのヤギが突進の構えをしていたからだ。

 一心不乱に走っていると僕は、身体が重くなるのを感じた。クニヒロから離れているのが分かる。息が乱れ足元がおぼつかない。

 ダメだ。やりとげないと。どこかで僕は思った。

 ぐいっと手を引かれて、俯いていた顔を上げるとクニヒロが僕の手を引っ張ってくれた。

 「岩陰に隠れるぞ!」

 ごつごつとした岩ばかりの洞窟の中で、岩陰を見つけたらしいクニヒロは僕を引っ張ってそこへ身を隠した。

 息を整えていると、ヤギの大群が地面を揺るがすほどの大行進で奥の方へ消えていった。それを確認して、クニヒロは詰めていた息を吐いた。

 「大丈夫か?」

その問いかけに僕は頷き、気配を探りながら二人して立ち上がった。

 暗闇が深まった洞窟の奥を見て、二人して進むしかないと歩き始める。

 進んでいくと、広い場所に出た。暗闇の為にそう感じているだけかもしれないが。

 冷たい風が頬を撫でるように吹く。白い息が出る

 ここは異常だ。

 警報音が鳴り響いている

 『よくきてくれたね』

 甘ったるい声に、僕は吐気がした。クニヒロも口を手で抑えていた。

 『うれしいな、きてくれてうれしい』

 子供のように無邪気な声のようにも聞こえた。

 「うえ」

 クニヒロがえずき、俯いて自分の肩を抱いた。気を抜いたらその場で吐きそうな勢いだった。

 僕は咄嗟にクニヒロの前に出た。

 雰囲気が変わった。

 『しつこいなぁ』

 甘い声から、途端に冷たく鋭利な声になった。僕には何がしつこいのか分からなかった

が敵意が含まれているのがよくわかった。

 そして、僕とクニヒロの前に暗闇から巨大な赤い目を持った黒い山羊が現れた。

 息を吹きかけるだけで、僕らは飛ばされそうだ。

 僕は、クニヒロを守らなければと。後ろから「おい」と焦ったような絞り出した声が聞こ

えた。僕はそれに答えることはできなかった。すぐに、山羊が襲い掛かってきたのだ。

 山羊に対して米粒のような僕に何ができるのか。それでも僕は手を振りかぶった。

 守らねば。守らねばならないのだ。

 僕は、クニヒロを。

 「おい!」

 クニヒロが僕の振りかぶった手の反対の手を掴んだ。

 僕は全てを思い出した。

内から膨れだすような力に従い雄叫びを上げる。僕の声とは思えないような言葉なき猛獣のようだった。

 黒い山羊が怯み、クニヒロが僕の手を離した。

 僕は山羊に向かって手を振り下ろす。

 僅かな抵抗の末に、確かな手応えを感じた。山羊から悲鳴のような呻き声の中で『そんな、おまえだって』と小さな呟きが聞こえたが、それを聞く義理などありはしない。僕は、僕の役目とこいつの正体を思い出したのだから。

 山羊が消滅し、光が溢れ、その全てクニヒロへ渡り消えていった。

 クニヒロは困惑した顔でそれを見て、今度は僕を見た。

 「ア、ンタなのか」

 震える声で確認され、頷いた。

 「まるで狼だな」

 頷いたことに安心したのか、クニヒロはへらりと笑いそう言った。

 僕は高くなった目線のせいで、クニヒロを見下ろしていた。その為、しゃがみ込んで目線を合わせた。そして大きく鋭く、毛深くなった手で自身の胸に置いた。自身の中から僕は本を取り出し、クニヒロに差し出した。クニヒロと一緒に回収していた同じ本だ。

 『これだけは守ったんだ』

 クニヒロは戸惑うように記憶の本を受け取り、案の定、本が光り消えた。

 「これは…俺は」

 クニヒロは目を潤ませた。

 『あの山羊は君の魂を喰らおうとしていたんだ。でも、もう大丈夫。』

 「…アンタは、何者なんだ」

 会った当初に問いかけられたことを、再度された。だが、あの時とは違う。もうクニヒロが望んだ答えを返すことができる。

 『僕は魂の守護者。魂を喰らうあの山羊から魂を守る役目をもつ存在なんだ。』

 僕は自身の身体が薄れてゆくのを感じた。

 あの山羊と魂しか入れないココは、本来であれば僕は入ることすらできなかった。だが、殆どココへ引きずり込まれた中でなんとか死守したクニヒロの記憶と一体化することで僕はこの世界へ入り込んだのだ。

 だから、それを元の主であるクニヒロに戻せば、僕はここにいられない。

 『これは僕のせいだ。僕があの山羊にやられてしまったばっかりに。君には怖い思いをさせた』

 僕はクニヒロの前で頭を下げるようにして項垂れた。

 「…」

 クニヒロは黙っていた。僕は彼の顔を盗み見ると、怒りでもなく状況が上手く読み込めない困惑した表情をしていた。

 『でも、もう大丈夫。全てを取り戻して、あの山羊もいない。君は元の場所へ帰れるよ』

 僕の身体が薄れていき、またクニヒロの身体も薄れてきた。お互いにもう時間だということが分かる。

 「…アンタとは、もう会えないのか」

 小さな声だった。僕をヤギから救い、手を引いてくれた頼もしい彼から初めて発せられる声だった。

 僕は笑った。

 僕は誰にも何にも認知されない魂の守護者。今までも、これからもそうだった。でも、今僕は彼にもう一度会いたいと思われている。認知されている。奇跡のような瞬間だった。

 ただ役目だった。それを全うする事が存在する意味だった。これからもそうあり続ける。けれど、この瞬間だけは、本を共に探した記憶を共有する同士だった。

 『会うはずも、会うこともなかった存在だ。今までも、これからも。』

 その答えにクニヒロは寂し気に顔を曇らせた。僕はそんな彼に感謝した。

 『クニヒロ、ありがとう』

 僕が、クニヒロが、山羊と魂の世界が薄くなり光始めた。

 『悪夢から、覚めないと』

 そして消えた。


 遠い方から声が聞こえ、次第に近づいてくる。耳が痺れるような声の大きさになって、煩わしく、何とかしたくて目をこじ開けた。すると、何度か経験したような気がする光が差し込んできた。眩しくて、上手く見られない視界が開けてくると「国広さん」と声が明確な言葉になって耳に届いた。聞き覚えのない声と白衣を着た女性の顔を認めて混乱した。女性は「先生を呼んで」と誰かに指示し、またこちらに顔を向けた。

 「国広さん、聞こえますか。」

 問いかけに小さく頷く。安堵した様子の女性が再度問いかけてくる。

 「国広さん、交通事故にあって病院に運ばれたんですよ。頭を強く打っているので、無理に動かそうとしないでくださいね」

 それをもっと早く言って欲しかったと頷こうとして止めた。頭の痛みは、今のところない。そこへ白衣を着た男性、恐らく医者が来た。顔を覗き込み、様々な質問をしてきた。頭を動かせないので、先ほど忘れていた声を出すという選択肢を選ぶと、かすれているが声は出た。

 「国広さん、ご自身の名前は言えますか」

 質問の中でそんなことを問われた。

 「…名前」

 反復して、考える。考えるまでもなかったが、ただ考えてしまった。どうしてか、名前が思い出せなかった時があったように感じたからだ。

 けれど。俺は取り戻したのだ。それだけはなんとか守ってくれたのだ。なんとなくそう思った。

 「しずや…国広静也」

 喰われることなく、最後に取り戻した、記憶の本だ。

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