月だけが知っている(3)

それから数日後のこと。


「先生。お話があります」

「ん?どうした、雅耶?そんな改まって」



このところ、この店に良く顔を出している雅耶だが、今日は例のミーティングではなく一人だった。


思いのほか真面目な顔で目の前のカウンターに座っている彼の、その顔はどこか怒気を含んでいるようなピリピリした雰囲気をまとっている。


そう、まるで空手の試合前の時のような気迫さえ感じる真剣な眼差し。


「俺、見ちゃったんです」


僅かに視線を落とすと、雅耶がポツリと話し始めた。


「……何を?」

「こないだ……。夏樹が仕事を早く上がった日……」


そう言って、再び視線を上げた雅耶と直純は目が合った。


「先生と……夏樹が抱き合っているのを……」

「………」


今日、夏樹は休みだ。


あの日以来、調子を崩している夏樹に直純は少し休暇を与えた。

本人はやる気があると言っていたのだが、あまり無理をさせたくはなかった。


彼女は頑張り過ぎるのだ。

辛い時は、まるで自分を痛めつけることでそれを乗り切ろうとするかのような危なげなところがある。


直純は、そんな夏樹をどうしても放っておけなかった。



カウンター越しで睨み合うように対峙している二人の横で、仁志は何食わぬ顔でコーヒーを入れると、先程オーダーの入ったブレンドコーヒーを「お待たせしました」と、雅耶の前へと置いた。


仁志的には、この二人の話に特に触れるつもりはない。

直純は直純で、しっかり意思を持っての行動だと思っているし、直純程ではないが、それなりに自分も彼女を心配していた。そこに深い意味などは何もないが直純の気持ちも分からなくはないのだ。


だから、自分はあくまでも中立……というよりは、店側のマナーとして聞かない振りを決め込んでいた。




「…それで?」


不意に見つめあっていた視線を和らげると、直純が聞き返した。


「お前は、どうしたいんだ?」


直純の表情は柔らかかったが、だが有無を言わせぬ、どこか雅耶の出方を見極めているかのようなそんな瞳をしていた。


「先生……」

「不満を持ったのか?『俺の夏樹に手を出すな』とでも?」

「………」

「それとも、ただ確かめたかっただけか?ただ確かめたかったというのなら、それは事実に違いないよ。抱き合っていた……というのは少し語弊ごへいがあるが、泣いていた夏樹を慰めたのは事実だ」

「………」


雅耶は悔し気な表情を出さないように努めているようであったが、ギリ……と奥歯を噛みしめるのが見ていて分かった。


そんな雅耶を静かに見下ろしながら、直純は穏やかに続ける。


「あの日……。何で夏樹が泣いていたか、お前は知ってるか?何故あいつがこのところ体調を崩していたのかも?」

「夏樹が……体調を……?」


それさえも気づいていなかったのか、雅耶は驚きの表情を浮かべた。

そして次の瞬間には「なぜ……?」と呟くと、雅耶は視線を落として何か考えを巡らせているようだった。


実際、気付かないのは無理もないのかも知れない。


雅耶がこの店に訪れる時は数人のメンバーといつも一緒であったし、解散するにしても、いつだって雅耶の隣には薫が居た。夏樹と接する場面など見ている限り殆ど皆無かいむだったのだ。


他で二人が連絡を取っていたかは自分には分からない。だが、少なくとも此処では夏樹も誰にも悟られないように必死だったし、気付くことは難しかったかも知れない。


だが、それではあまりに夏樹が不憫ふびんで。


薫が雅耶を気に入ってることは見ていればすぐに判る。

そんな薫に対し雅耶自身に他意はないにしても、彼女に良いように振り回されて夏樹をないがしろにしている状況は見ていて許せなかった。



『知らない』ということは、時に罪だ。

知ろうとしないことと同じなのである。



「分からないようじゃ、お前には夏樹を任せられない」

「……っ……!?」


その声に驚き、顔を上げた雅耶は思いのほか鋭い直純の視線に射られ、微動だにすることが出来なかった。




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