第5話
自宅マンションに入っていくミカに手を振り、運転席に戻ろうとしたところ、特徴のあるシャッター音が一度だけ聞こえた。報道カメラのような連写音でなく、欲しいその瞬間を待っていたかのような音だった。
音が聞こえた方へ振り返ると、道路を挟んで向かいの建物の影に羽鳥が立っていた。高瀬が気づいたタイミングで、羽鳥はガードレールをヒョイと乗り越え高瀬のいる車のところまでやってくる。
「羽鳥、お前なにやって」
「何って、お仕事。ここのマンション、芸能人いっぱい住んでるからねー。ミカちゃんは売れていないけど、父親がプロゴルファーで、母親がバイオリニストだっけ?」
「いつも、こんなことやってるのか」
「そ。どう、これ上手く撮れてる?」
差し出された一眼レフカメラの内側のディスプレイには、さっきの自分とミカが写っていた。
ミカの背中を見送る、その憂いを帯びた自分の表情は、光の加減が作為的だった。
「ミカちゃん、マネージャーと熱愛発覚って感じで撮ってみました」
「ッ、お前、才能あるんだから、無駄に使うなよ」
高瀬は羽鳥のやったことを不快だと思っているのに、撮られたミカと自分の捏造写真を消せと言えなかった。
目の前の人間は自分の仕事の敵で悪魔のような男。人の不幸を金にして喜んでいるような奴で憎むべき相手だ。
それなのに、その一枚の写真を心の底から愛しいと思ってしまう。
悪魔に心を奪われるってこういう状態なんだろう。そもそも羽鳥が、そんな人間だとは思えなかった。
昔と少しも変わらない。
高瀬の心を掴んで離さない写真を見れば分かる。だからスキャンダル写真を見ても憎む気持ちにはなれなかった。
「才能ねぇ、それって食えるの」
「羽鳥、今そんなに金に困ってるのか」
「別に生きるだけなら全然困ってないけど、いま俺、世間一般にいうところの住所不定ってやつだから」
「え、お前、実家は?」
「……処分した。持ってても俺一人だと持て余すし」
「だからって、なんで」
高校時代の羽鳥の家の事は、よく知らないし、卒業後は芸術系の大学に進学したと聞いていた。それが、どうしてこうなったのか。羽鳥には羽鳥の事情があるのだろう。しかし、そこから抜け出せる力があるのに世を拗ねていたり、誰かのためにも自分のためにも才能を使っていないことが高瀬はもどかしくてたまらなかった。
「ま、特ダネ撮れたら半年は暮らせるし、知り合いの家か、安宿で十分……って、おい」
高瀬は羽鳥の手を掴んでいた。
この才能だけは絶対に埋もれさせたくないと思った。
気づいた時には、そのまま後部座席を開け、羽鳥を無理やりに押し込んでいた。これじゃ誘拐犯だ。
「え、なに、何でいきなり誘拐。大丈夫? この辺、監視カメラあるけど、警察に通報されない?」
羽鳥の声を無視して車を出した。
「なぁ羽鳥、作品撮れ。あと何でもいいから、またコンテスト送れよ」
「は、なんで、高瀬に命令されなきゃいけねーんだよ」
「写真、好きなんだろ」
車が交差点の赤信号で止まったとき、バックミラーを見ると羽鳥はシートに背を預けて窓の外を見ていた。
「――好きだけじゃ、生きていけない」
「生きていける。お前は、絶対大丈夫だから、俺が、言うんだから間違いない」
高瀬に出来るのは、いつだって相手に好きだと伝えて、信じてる、頑張れ、応援してるって言うことだけだった。
百の気持ちが伝わらなくても、たとえ、一でも相手に伝わればいいと思っていた。
誰かを支えるって、そういうことだと思っている。
「根拠ねぇ自信だな。高瀬は俺のファンか何か?」
羽鳥は鼻で笑った。あぁ、今度こそ、やっと言えると思った。
「そうだよ。高校のとき初めてお前の写真見てから、ずっとファン。部室棟の掲示板にいつも貼ってただろ? 俺、部活の帰りにいつも見て帰ってた。今日は、何だろうって楽しみにしてた」
卒業式の日、言いそびれた言葉を、今度は正しく伝えられた。
「羽鳥はさ、なんか写真でいっぱい伝えたいことがあって、でも俺は、好きってだけで、お前が伝えたい全部を理解出来てないかもしれないし、言いたいことだけ言って勝手かもしれないけど」
「何、この前の公園の気にしてたの? 悪かったよ。関係ないお前に八つ当たりして」
ミラー越しに見える羽鳥は、ばつの悪い顔をして息を吐いた。
「いや、でも言われて反省したよ。――俺さ、多分、お前のこと、ずっと猫と同じみたいに思ってて」
「また猫かよ。高瀬、猫ちゃん好きなの?」
「まぁね、動物全般好きだけど、多分もう生き物は飼わないだろうなぁ」
「ふーん。なんで?」
高校時代の一番親しい友人というわけじゃなかった。だから、こんなふうに他愛ない話をしたのは初めてだった。
「幼稚園の時、うち猫飼ってたんだけど、大雨降った日、雷にびっくりして外に逃げちゃって、探したけど見つからなかったし、それ以来帰ってこなかったから」
「その猫と、俺どんな関係あんの?」
「ずっと、後悔してたんだよ。もっと毎日好きだって伝えていれば、雨が止んだあと、ちゃんと、うちに帰ってきてくれたかもしれないって」
「ガキの発想だな」
「ガキだったよ。もっと好きって伝えればよかったって、自分の気持ちが足りなかったんだって思ってた。な? お前が言う通り、俺、すげぇ身勝手だろ?」
「悪かったって! お前、結構根に持つタイプだな」
「かもな。高校卒業したあと、雑誌でお前の名前見なくなって、俺があのとき、もっと羽鳥の写真が好きだって言っておけば、お前、写真辞めなかったかなって、思ったし」
「それアイドルの狂信者の思考回路。辞めたいときなんて、誰がなんと言おうが辞めるって。それに、俺は写真辞めてないだろ。――単に路線変更しただけ」
「確かに、羽鳥にもどんな写真を撮るか選ぶ権利はあるし。出て行った猫だって、俺の家より外が楽しかったのかもしれない。……もともと野良猫だったし」
「で、結局、その猫ちゃんの話の結論はどこに行き着くんだ?」
交差点の信号が青に変わりアクセルを踏む。後部座席から呆れた声が返ってきた。
「俺にも、伝える権利くらいはあるだろ? お前の写真が好きだって。それと羽鳥が写真で何を伝えたいかは、お前が教えてくれなきゃ俺には分からん」
「それは、正論だな」
「だろ? だから、羽鳥さ、一人で腐ってるくらいなら俺に言えよ。そうしたら俺はもっとお前の写真のことが理解できて、もっとお前の写真を好きになれる」
ミラー越しに羽鳥と目があった。
「……よく、そんなこと真顔で言えるな、好きだ好きだって」
「そうか? 普通だろ」
「普通、ではないな、アイドルのマネージャーって、みんなそうなのか?」
「どうだろ。あ、あと、選択肢が増えるのは悪いことじゃない」
「選択肢?」
「家ないなら、うちに住めばいいよ。部屋余ってるから。あと、カメラマンの仕事、伝手あるから紹介出来るし」
ミラー越しに呆れて物が言えないみたいな顔をされた。
「――高瀬に悪気がないんだとしても、やっぱり俺は、お前のことすげー身勝手だなって思うよ……今も昔も、俺の勝手だけどさ」
「嫌になったら、そのとき出て行ったらいいよ?」
「猫かよ」
「だから言ってるだろ、ずっと猫みたいに思ってたって。いま、羽鳥は、どこで何やってるのかなって」
「普通に、生きてた」
ふいと顔をそらして羽鳥は窓の外を見た。
「パパラッチやってるとは夢にも思ってなかったけどな。ま、そのおかげで、もう一回お前に会えたんだけどね」
「お前さ、俺に会いたかったの?」
「うん。会いたかったよ」
それっきり黙り込んだ羽鳥は、沈んでいく夏の赤い夕日を見ていた。
その瞳に映った赤色がカメラのレンズ越しの色を想像していて欲しいと思った。
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