猫の写真

第3話


 車が行き交う隙間から羽鳥が歩いていく方向を目で追う。羽鳥が公園の中に入っていくのが見えた。

 このまま信号待ちをしていたら見失いそうで、残りのただの数秒も待てずに歩道橋を駆け上がった。いつも車移動ばかり。こんなに走ったのは久しぶりだった。

 なんとか羽鳥に追いついたが、すぐには声をかけられなかった。走ったせいで肩で息でをしている。

 見つけたとき羽鳥は、公園の中央にある噴水に座りカーキ色のバッグからカメラを取り出したところだった。

 その視線の先には白い毛玉がいた。この公園に住み着いている野良猫だ。

 金にならない写真を無価値と言ったくせに、そのくせ一切金にならない猫にレンズを向けている。


 高瀬は高校のときに羽鳥が撮影した写真をたくさん知っているが、本人がシャッターを切っている姿を初めてみた。

 羽鳥には今どんなふうに世界が見えているのだろうか。

 神聖な儀式にみえる撮影場面に心を奪われていた。

 カメラを構えた羽鳥の姿は、他のカメラマンと違う何か特別なことをしているようには見えず、息を吸うように自然体でシャッターを切っている。

 カメラを向けられた猫は、真昼間のこの時間は眠くて「眠い」以外に何も考えてないのだろう、うんと一回伸びをすると、羽鳥の存在なんて気にもせず、その場で無防備にうとうとし始めた。そして、その姿を写している羽鳥もシャッターを切っている間は何も考えていない気がした。撮りたいから撮っている。地面に膝をつき周りの視線など気にもしていないし、高瀬の存在にも気づかない。

 無頓着に見えた服装と穴が空いたジーンズの理由も分かった。必要だから、そうした。結果そうなった。

 外撮影に行くには、長時間履くのに耐えられるような良い靴を履きたいし、膝をついて撮影をすれば、デニムは破ける。長くなった髪は邪魔だから束ねる。

 答えは目の前にあって、とても単純明快だった。

 炎天下の中じっと黙って撮影が終わるのを噴水の近くで待ち、羽鳥がカメラをカバンにしまった時に名前を呼んだ。

「羽鳥っ」

「……芸能事務所のマネージャーって暇なのか?」

 自分がさっき羽鳥に言った言葉と同じ言葉を返された。

「暇じゃねーよ。つか、写真だけ置いていかれても困る。お前の会社の名刺貰ってない」

「無いよ、言っただろ。ただの情報屋さん。フリーでやってる。写真売って生活してんの俺。結構鼻が利くから、得意先には重宝されて――」

「そんなの、や、やめろよ!」


 高瀬は羽鳥の言葉を遮っていた。あまり怒ったり負の感情を表に出すことがないので、このドロドロとした行き場のない気持ちをどうコントロールすればいいのか分からなかった。

 気づいたときには、普段出さない嫌悪感を羽鳥にぶつけていた。

 あんなに人の心を動かすような写真が撮れるのに、どうして他人を貶めるような人間に変わってしまったのか。

 羽鳥のことを写真の神様だって思っていた。スキャンダル写真を見て、その片鱗が残っていたことが、余計にもどかしい気持ちを増長させる。

「何、もしかして、ミカちゃんの件心配して追いかけて来たの? 俺と同じで結構売り物に対してシビアに見えたけど、高瀬は優しいんだな。ま、安心しろよ、別に売ったりしないよ。金にならないって分かったし」

「お前、金がいるのか?」

「はぁ、何当たり前のこと言ってんだ? 生きていくのに金は要るだろ? 世の中、息するだけで金が必要なんだよ。親に養ってもらってるガキじゃないんだから」

 どうやったら羽鳥が人を傷つけるような写真をやめてくれるのか、いつだって自分は伝える言葉が足りない。気持ちだけが先走ってしまう。とにかく昔のことを思い出して欲しかった。

「猫!」

「猫?」

 羽鳥は間の抜けた声を出した。

「お前が、撮った猫! 可愛くて好きだったよ。高校の写真コンテストで一位取って掲示板に貼ってただろ」

「あー、あれ、三毛猫」

「そう! 思わず、触りたくなって。それ以外にも、雑誌に載ってた。あの、ただの渋谷の街なのに、お前が撮ったら――」

「それで?」

 高瀬が熱を上げて話した声と対極にあるような、ひどく冷たい声だった。氷のように冷たい。

「だから羽鳥、才能あるし、人を傷つけるような写真なんてやめた方がいい」

「なぁ、高瀬。お前が才能あるって認めてくれて、それになんの価値があるの? すげーって褒められて、俺が喜んでくれると思った?」

「……それは」

「お前はさ、言いたいことだけ言って、それでスッキリして、満足かもな」

「そんなこと……」

「高瀬って、雑誌の身勝手なコラムニストと似てるよ。人の写真を勝手に、あーだこーだ分析して評価して自分の承認欲求に使う。そういうの、うんざりして吐き気がする」


 灰がかった瞳は、まっすぐに自分に向いているのに、どこか遠くを見ていて高瀬とは目が合わなかった。暗い闇の中を見ているような瞳に、夏なのに肌寒いような気持ちになる。興奮して上がった熱を氷水で一気に冷やされたような心地がした。

「それに、俺がどんな写真を撮って、どんな生き方をしても、高瀬には関係ないだろ」

「けど、俺は、お前の」

「なぁ、俺とお前のやってることって、そんなに違わないよ。人の不幸で飯食ってる。高瀬だって、いま面倒見てるアイドルが売れなくなったらAVとか勧めるんだろ? お前の事務所のやってることも十分極悪」

「……綺麗事だけじゃ、会社は潰れる」

 羽鳥の言葉は正しい。落ちることを無理強いしたことはない。けれど、もう一度チャンスを掴みたいならと、可能性があるなんて、救いのような悪魔の言葉を言ったことはある。

 可能性は、どこにだってあるからなんて、本質から目を逸らし、自分に嘘をついた。

 高瀬も羽鳥と同じくらい人でなしなことをしていた。

「ちゃんと、分かってるじゃん。お金は大事だよ。ちーちゃん。じゃあな、元同級生のよしみで、写真は破棄してやるよ。せいぜいミカちゃんがAV落ちるまでは、しっかりアイドルとして売ってあげな」

 そう言って去っていく羽鳥を、それ以上引きとめることができなかった。

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