シンデレラリーマン―冴えない俺の新しい日常―

月坂いぶ

前編

 ある日の夜九時ごろ、疲れた様子で仕事着に身を包んだ人々がちらほら乗った電車。その乗客の中に、ひときわ冴えない様子で座席に身を預ける一人の男がいた。

 内山聡、四三歳。地元の中堅企業の営業部に勤める、いわゆる多くの人が想像するような「フツーのサラリーマン」である。電車がいつも降りる駅に近づくと、聡は隣に置いていた鞄を膝の上に乗せ、ため息をつく。しばらくすると、電車は聡がいつも降りる駅に停車し、聡はいつものように降車した。


 ――ここからが面倒くさいんだよなあ、と、聡はため息をつく。


 「うわ、おっさん、今日もいんじゃん」案の定、今日も、毎日のように絡んでくる若者に声をかけられた。

「…いて悪いのか?」うんざり、といった様子で聡が聞き返す。

「いや、あんたさ、出世できなさそうな顔してるんだからさっさと仕事辞めればいいじゃん。マジで目障り。」嘲笑するように言葉を吐き出す若者。

「はあ、そうですか……」内心かなり傷ついているのを隠しつつ、聡は肩をすくめて立ち去る。


 家に到着すると、聡はざっとシャワーを浴び、簡単な夕食をさっと作って食事を済ませる。やることが一通り片付いた時には二三時半を過ぎていた。

 そんなこんなで、聡のつまらない日常はいつも通り淡々と過ぎていく―――はずであった。

 翌朝。

 聡はいつものように疲れた様子で仕事をなんとかこなしていた。


 突然、社長から呼び出しがかかった。

 要件は何だろうかと考えているうちに、聡の顔から血の気が引いていった。


 ……クビになる。

 俺があまりにも仕事ができないせいだ。


 ――人生終わった。


 聡の思考はどんどん暗く沈んでいく。絶望した顔でエレベーターに乗り、気づいた時には震える手で社長室のドアをノックしていた。


 「はい、どうぞ」

 社長の穏やかな声が答え、聡は恐る恐る社長室へ入室した。

「失礼します」死体のように血の気の感じられない顔で社長のもとへ向かう。


「え、大丈夫かい内山くん?」まるで生ける屍のごとく佇む聡の姿には、さすがに社長も困惑した。


 ……


「……もしかして、私が君を解雇すると思い込んでいるのかな?」

 聡は驚いたように顔を上げる。「ち、違うんですか?」

「そんな、私が、頑張っている社員を無慈悲に解雇するなんてことしないよ」社長は柔らかく微笑むような声色でそう言った。

 その瞬間、聡の顔に血の気が戻ってきた。と思ったら、直立した姿勢のまま、前に倒れてしまった。

 ……

 「おーい、内山くーん?」

 十分後。

 「内山くん、大丈夫かい?」

 「本当にすみません…」聡は申し訳なさそうに何度も頭を下げた。

「えっと、ところで、本題だけれど」

「は、はい」

「…内山くんが、最近、人一倍疲れた様子でいるのが気になっていてね。何か心配事があるのかな?」

 予想外の発言に、聡は目を見開く。そのとき初めて社長と目が合った。

 社長の姿をはっきり見たのは、入社して以来初めてだった。今までにも、社長の姿を目にしたことはあったが、毎回緊張してなかなか顔を見ることができなかった。

 聡が初めて見た社長の顔は、とても穏やかな表情を浮かべていた。白髪混じりの短髪はきれいに整えられていて、ワイシャツのボタンは一番上まできっちりと留められている。とても清潔感のある紳士的な印象を与えた。何よりも特徴的なのは、一瞬も鋭さや厳しさを感じさせない優しげな目元である。笑顔以外の表情を知らないのではないかと疑いたくなるほどに、笑顔は彼にぴったりの表情であった。後から冷静になって考えてみれば、この人物が社員を解雇するなどあるはずがなかった。そう思えるほどに、社長の佇まいには寛容で温厚な雰囲気が漂っていた。


「……実は、悩みがあって……」安心感を覚えた聡は、素直に言葉を吐き出した。社長は静かにうなずく。

 

 最近、ある若者に絡まれ、嫌なことを言われていること。

 そのせいでストレスが溜まり、仕事でもミスが増えて、自分に自信が持てなくなったこと。

 自分の唯一の武器である仕事の早さを失い、生きる意味さえも見失いそうになっていること。

 聡が吐き出す言葉のひとつひとつに、社長はときどき相槌を打ちながら耳を傾けていた。

 

 「…そうか。それは辛かったね。私も若いころは似たような悩みを抱えたものだよ」

 「社長も、同じようなご経験を……?」

 「そうだよ。悩みを抱えない人間なんていないのかもしれないね」社長は少し切なそうに笑った。 

 聡はゆっくりとうなずく。

 「悩みを完全に解決することはできないかもしれない。でもね、ちょっとした魔法で状況は変えられるんだ」社長はそう言って、人差し指をぴんと立ててくるりと回してみせる。

 「……魔法?」突然出てきた乙女チックな単語に、聡はぽかんとする。

 「うん。実は私には五歳の孫娘がいてね、孫娘と一緒に魔法が登場するアニメを観ているうちに、魔法の可能性を信じるのも悪くないと思うようになったんだ」

「なるほど……?」困惑しながらも相槌を打つ聡。

「というわけで、辛いときは魔法の力に懸けてみるのもいいかもしれない」社長は優しく微笑む。

 なぜか、魔法という非現実的な単語が登場したにもかかわらず、社長の発言には妙に説得力があった。

 「はい。助言をいただけて嬉しいです。ありがとうございます」聡は丁寧に感謝の言葉を述べ、社長室を退室しようとする。

 「また何かあったらいつでも話しにおいで。では、頑張ってね内山くん」社長は励ましの言葉を聡に贈る。

 「ありがとうございます。それでは、失礼します」心から感謝の言葉を述べ、ゆっくりとお辞儀をして聡は社長室を後にした。

 仕事に戻る聡の足取りは幾分か軽くなり、初々しさを思い出したように、瞳には光が宿っていた。


 あっという間に退勤時刻となり、聡はのんびりと家路につく。いつもの電車に乗っていつもの駅で降り、いつもの若者の絡みはとりあえず苦笑いでやり過ごした。そしていつものように家に到着すると、いつものようにシャワーと夕食を済ませ、いつもの時間に眠りにつく。

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