皇子と壊れた姫と最期の幸福【完】
kaya
前世編〈月と星〉
幸せだった①
「君は、誰?」
ローアルと出会ったのは、帝都の外れにある貧しいスラム街だった。
そう聞かれても私に名前なんかなかった。
これまで私は、自分の正確な誕生日さえ知らずに生きてきたから。
この北のトルメンタ帝国の現皇帝は、貧困層の人々を容赦なく切り捨てるような、血も涙もない暴君として有名だった。
そんな皇帝に多くの貧民がスラム街に追いやられた。
ここでは、飢えや病気で人が亡くなるのは日常のこと。
その凍てついた大地に、まるで小鳥の羽のような雪が降っている。
白い息を吐きながら私にそう尋ねる少年は、珍しい銀色の髪に、時々夜空に現れるオーロラのような薄紫色の瞳をしていた。
「………」
「親は?」
「……いない。捨てられたの。
もしかして、あなたもそう?」
無気力にそう返事をすると、彼もまた同じように小さく頷いた。
私は自分の父親が誰なのかも知らず、母親に愛されることもなく育ってきた。
しかしその母親もつい数日前に、忽然と姿を消した。
ようするに、私は母親にも捨てられたのだ。
馬小屋のような粗末な我が家には一欠片のパンさえ残されておらず、鼠さえいなかった。
空腹のためふらつきながら外に出ると、そこには同じように痩せ細ったスラム街の人たちが、無気力に行き交う姿があった。
誰もが自分のことで精一杯。振り返る人など一人もいない。
玄関先でその景色をただぼんやりと眺めていた。
こうやって捨てられた子供は、誰かに救われることもなく、たったひとりで虚しく死んでいく。
だが彼だけが、そんな私を見つけた。
「僕はローアル。君は?」
「私は分からない。親につけてもらえなかったから。名前はないの。」
ローアルと名乗るその少年は少しずつ距離をつめ、やがて私の前で立ち止まった。
やはりきれいな瞳。
身につけているのは私と同じように汚れた薄い茶色の服一着だけだったし、手足はひどく冷たそうで、血の通わない色をしていた。
それでもどこか凛とした姿勢に、つい目が逸らせなくなる。
ローアルはそのうち地面に片膝をついて、寒さで震えている私の手をそっと握った。
ふたりの吐く白い息が重なる。
お互いの手は、始めは氷みたいにひどく冷たかったけれど、しばらくするとお湯みたいに温かくなった。
私は知らなかった。
冷たい手でも誰かと合わせれば、温かくなることを。
痩せたその手を見つめていたら、やがて彼がゆっくりと私を立ち上がらせた。
控えめに微笑み、ローアルは口を開く。
「とにかく、ここは寒いから暖を取った方がいい。
ね?僕と行こう。」
————スラム街には人の居なくなった廃墟が多数あった。
とある廃家の前に立つと、ローアルは手慣れた様子で割れた窓から中に入っていった。
真似して後ろに続く。
床には散乱した食器や、薄汚れた衣服が散らばり、階段の手すりや棚にはうっすら埃が積もっていた。
中央の部屋に行くと、彼は横に積んであった木の枝を暖炉の中に無造作に放り投げた。
次に丸い棒切れを擦り合わせて火種をつくり、器用に火をつけた。やがて勢いよく炎が上がる。
「ほら、もう少し火のそばにおいで。」
振り返ったローアルは私の手を取り、そこに誘導した。
暖炉は赤い炎が揺れながら、ぱちぱちと音を奏でる。
そのうち私の指先も、真正面を向いた体も暖かさで埋め尽くされた。
暖かい。
暖の取り方も知らず、あのままだときっと私は死んでいた。
———ここは、普段彼が棲家にしているらしい。
改めて見回すと、人が寝起きしているような寝床に、綺麗な食器、よく手入れされた狩猟道具などがあった。
「良かったら、これと…あと、これも食べて。」
同じ並びで暖炉の前に座ったローアルは、狩で捕まえたという野うさぎの肉の燻製と、器に入った水を手渡してくれた。
喉が渇いていた私は、体に押し込むように水を飲む。しかし燻製はよく噛まずに飲み込んでしまった。
もう何日も飲まず食わずで、意識が遠のきかけていたところだったから。
体が温まり、喉の乾きと空腹が満たされるだけで確かに生きていると感じることができた。
そのうち温かな涙が頬の上を流れていった。
無気力に全てをあきらめ、それでいいと思っていたのに本当は、私は生きたかったのだ。
「ほんとうに、ありがとう。
ロー…アル…?」
「いいんだ。困った時はお互いさまだよ。
ところで君を呼ぶのに名前がないのは不便だから、僕が名前をつけてあげる。
《エステレラ》はどうかな?」
「エステレラ…?すてきな名前。」
「《星》って意味なんだよ。
僕のローアルという名前も《月》という意味なんだ。」
「月?そうなの。
あなたの名前も本当にすてきね。」
ふいに視線をあげるとローアルの美しい薄紫色の瞳の中に私が映っていた。
暖炉の炎に照らされて、ゆらゆらと揺れる。
それに気づいたローアルは、恥ずかしそうに視線を逸らした。
ただその横顔は少し、嬉しそうだった。
———ローアル。とても優しい人だ。
死にかけていた私に食事と水を、そして温もりを与えてくれた人。
感謝しても、しきれない。
ローアルは間違いなく私の救世主。
この恩は、決して忘れない。
静かに燃え盛る暖炉の前で、また目が合う。
だがローアルは、今度は目を逸らさずに微笑んだ。
「エステレラ。良かったら僕達、一緒に暮らさないか?」
———これが私達の始まりだった。
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