時間だけが過ぎてゆく景色に風は吹くか
中里朔
わたしの居場所
第1話 会社辞めます
いつもと同じ時間に家を出て、いつもと同じ時間の電車に乗る。
毎日同じことの繰り返し――。変わり映えのしない日々だ。
改札を抜けてホームへ向かう途中、いつもと違う雰囲気が漂っていた。階段で急に足を止めた人とぶつかりそうになるも、ぎりぎりで避ける。危ないなと内心舌打ちしつつも、そのまま黙って脇を通り過ぎた。
衝突しなかっただけマシで、スマホを見ながら歩いている人との接触はよくあることだ。突進してぶつかってくるオジサンだっている。家から一歩でも外へ出れば、嫌な気分になることなどいくらでもある。それに、これから出勤する会社のことを思ったら、この程度のイライラはたいしたことではない。
ホームへ降りると、「なにごと?」と思うくらい多くの人で溢れかえっていた。駅のホームにはざわざわと人々の声が溢れ、駅員のアナウンスがその上をかき消すように響いた。
『2番ホームに到着予定の電車は、人身事故の影響で大幅に遅れております』
遅延か……。今日もツイてない。今朝の占いは完全にハズレだな……。
くたびれたスーツ姿の中年男性が、イラついた様子で声に出す。
「マジかよ。朝の忙しい時に、迷惑な話だ」
女子高校生たちも困った顔をする。
「どうしよう、遅刻しちゃうよ」
電車待ちの人たちは、身を乗り出して線路の方を眺めてみたり、別の移動手段を求めて改札へ戻ろうとする。
私は深くため息をついて、その場に留まっていた。
電車はしばらく動かないだろう。この状況では駅前のタクシーに乗るのも時間がかかるし、バスに乗り換えたところで遠回りだから始業時間には間に合わない。もはや慌てる理由もなくなった。
遅刻は自分のせいじゃない。それなのに、上司やお局様の嫌みたっぷりな小言を思い浮かべると、どうしようもない怒りと諦めが胸の奥で渦巻く。こんな毎日を、いつまで続けなければいけないんだろう。
――マジかよ。朝の忙しい時に、迷惑な話だ。
先ほどの中年男性の言葉が、そのまま上司の声でリフレインされた。
「仕方ないじゃない。好きで事故に遭ってるわけじゃないんだから」
思わず口走る。
しばらくして、混雑していたホームはだいぶ人が減ってきた。電車が当分動かないと判断して、ほとんどの利用客は他の交通機関へ移動したようだ。残っているのは急ぐ必要のない人たちか、あるいは、どうせ急いでも間に合わないと諦めてしまった私と同じような人たちだろうか。
どうしようかな……。
いつまで待てばいいのかわからない。ずっとここにいるのも退屈だ。
ぼんやり考えていたら、向かい側のホームに電車到着のアナウンスが聞こえた。
反対方面の電車は動いているのか。と気付くや否や、私は駆け出し、階段を超えて向かい側のホームへ急いだ。当然のことながら反対側の電車に乗っても会社には辿り着けない。ドアが閉まりかけているのが見えた瞬間、身体が先に動いていた。考える間もなく、私は持っていたバッグを突っ込みながら飛び乗った。
仕事をサボるなんて初めてだ。でも不思議と罪悪感はない。
動き出した電車内で、脱げそうになっていたパンプスを履き直していると、車内アナウンスが流れた。
『駆け込み乗車は危険ですので、おやめください』
私のこと? 仕方ないじゃない。私にも飛び乗った理由がわからないんだから。
周りの人に気付かれないように、乱れた息を整える。全力疾走することなんて滅多になくなり、体力の低下を感じる。高校生の頃だったら、階段なんて余裕で二段飛ばしで駆け上がっていたのに。
はぁ、高校生か……。もう卒業して十年も経つんだな。
感傷的な思い出に耽りつつ、いつもとは逆方向へ進んで行く車窓から、見慣れない風景を楽しんでいた。
この電車ってどこ行きだろう?
朝のラッシュ時間にしては、それほどの混雑ではない。
まぁ、どこでもいいか。どうせ会社には間に合わないんだし、行き先がどこであれ、終点まで行ってみよう。会社には駅を降りてから連絡すればいいや。
平日の朝だというのに、終着駅で降りる人はまばらだった。それもそのはず。駅を出て少し進めば陸地は終わり、目前には青い海が広がっている。波音と潮の香りが漂い、陽の光が白波にきらめく。遠くに漁船ぽつりと浮かんでいるだけの、なにもない海だ。海に向かって右手方面には砂浜があり、おそらく夏場なら海水浴客で賑わうのだろう。
季節は秋から冬に移り変わろうとしている現在、冷たい風と聞こえてくる波音だけで鳥肌が立ちそうな、こんな場所にやってくるモノ好きは――。
「私くらいか……」
少し離れたところに漁港があり、そこには忙しなく動き回る人影が見える。接岸した漁船の頭上では、鳥が輪を描きながら舞っていた。
駅から発車したバスが、砂浜と並行する道を走り抜けていく。
「こっちが表通りになるのかな?」
バスが通った方向を見ると、海側には防風林の黒松が植栽されているものの、道の陸地側は店舗や会社のような建物がずっと並んでいる。
目の前の砂浜へ向かってみた。季節外れの砂浜には人もいなくて、プライベートビーチのように開放的な気分になれる。
「心地いいなぁ」
まるで大空へ羽ばたく鳥になった気分だ。
仲間と思ったわけではないだろうが、どこからか飛んできた数羽のカモメが、砂浜に舞い降りた。近寄ってくるのかと思ったら、食べ物を持っていないと判断したのだろうか、踵を返すように飛び去ってしまった。
「カモメにまで見放されちゃったか……」
再び甲高い鳴き声がすぐ後ろからも聞こえてきて、「エサはないわよ」と振り向いたが、そこにカモメはいない。
「あれ?」
音の出どころはバッグに入れたスマホの着信音だ。
取り出して見ると、発信元は会社だった。あとで連絡しようと思ってすっかり忘れていた。
「はい、鈴木です」
名乗る時間すら待ち切れない勢いで、お局様のカモメのような甲高い声が耳に響いた。
「あなたなにやってるの? 始業時間はとっくに過ぎてるのよ。遅れるなら連絡くらい入れなさい。まったく社会人としての自覚が足りないんだから……」
こちらの言い分すら聞いてもらえない。延々と小言が続く中、「すみません……、すみません……」と話すタイミングを失っていた。
「あなたね、謝るならちゃんと会社に来てから――」
「申し訳ありませんが――」
大きな声を出して、お局様の話を遮った。謝るつもりなど微塵もない。
「私、本日を持ちまして辞めさせていただきます。課長にもよろしくお伝えください」
「ちょ、ちょっと。急になに言ってるの? そういうことは手順を追って申告するべきでしょ」
「退職届は後ほど郵送します。有給が残っていますので、就業規則通り今月末までの期間を以って退職とさせてください」
矢継ぎ早に言われたお局様は、一瞬だけ言葉を失っていたが、すぐに我に返った。
「引継ぎは? 引継ぎはどうするのよ? あなたがやっていた仕事は誰がやるの?」
「はぁ? 引継ぎって言われても……。私、まともに仕事を教えてもらった覚えはないんですよ。誰でもやれる仕事だからって丸投げしていたあなたがやればいいんじゃないですか? うちの会社に長ぁーくお勤めなんでしょう?」
「な、なんですって!」
「とにかく――」
言葉を切って深呼吸をひとつ。静かに、けれどはっきりと告げた。
「これまで社内で受けてきた嫌みや嫌がらせなどのパワハラ、それと課長のセクハラ行為。もっと言えば、なにも対応してくれない会社の隠ぺい体質。もう我慢ができません。辞めさせてくれないなら、これらの行為について知り合いの週刊誌記者に全て話してもいいんですけど、どうします?」
「あ、あなたね、いや鈴木さん。落ち着いて話しましょう。課長に代わりますから、ちょっと待って……」
知り合いに週刊誌記者なんていない。私のハッタリにお局様は明らかに動揺していた。もう、ここまで言ったら後には引けない。絶対に辞めてやる。
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